第33話 持ち帰るもの
朝から、道は緩やかな下りが続いていた。
山の町を離れて二日目になる。
昨日まで一緒だった荷運びの男たちとは朝の分かれ道で別れ、今はクラリスとローウェンの二人だけだった。
人の行き来は少しずつ増えている。
すれ違う荷馬。
徒歩の旅人。
荷車。
西へ向かった時には人影そのものが珍しかった道に、日常の往来が戻りつつあった。
クラリスは馬上で鞄へ手を触れた。
中には報告書が二通ある。
その下に手帳。
さらに父から受け継いだ地図。
西へ向かう時にも持っていたものばかりだった。
けれど、中身は同じではない。
手帳には、山の町へ着いてからだけでも何頁もの記録が増えていた。
岩。
鉄。
水。
意図して起こされた二つの現象。
帰路で聞いた、確かめようのないいくつもの噂。
そして十五年前について、新しく生まれた疑問。
「今日は静かですね」
ローウェンの声に、クラリスは顔を上げた。
「鳥ですか?」
「いえ。あなたが」
「そんなに喋っています?」
「普段はもう少し」
クラリスは少し考えた。
「整理しています」
「頭の中で?」
「それだと忘れるので、あとで手帳でも」
「でしょうね」
ローウェンが前へ向き直る。
しばらく馬の蹄の音だけが続いた。
西へ向かっていた時、クラリスは十五年前の足跡を一つ見つけるたび、次の場所を探していた。
銀鹿亭。
旧王道。
三国の一行が集まった場所。
父たちが進んだ道。
道の先には、いつも次の手掛かりがあった。
今は逆だった。
足跡から離れるほど、現在の出来事が増えていく。
クラリスは前方の道を見る。
「ローウェンさん」
「はい」
「私たち、何を持って帰るんでしょうね」
ローウェンは振り返らなかった。
「報告書では?」
「そういう意味じゃなくて」
「分かっています」
少し間を置いて、彼は続けた。
「それを決めるために戻っているんでしょう」
クラリスは答えず、鞄へ触れていた手を手綱へ戻した。
報告書だけなら、もう完成している。
けれど。
自分たちが持ち帰ろうとしているものは、それだけではない気がしていた。
◇
昼の休憩で、クラリスは父の地図を広げた。
風に持っていかれないよう四隅へ小石を置き、その横に自分の手帳を並べる。
ローウェンは少し離れたところで馬を休ませていた。
地図には、十五年前の道が残っている。
公式報告書にはない場所。
地図から消えた道。
三国の一行が進んだ方向。
そこへクラリスは、今回の旅で確認したことを書き足してきた。
けれど、現在起きている現象については別の紙へ残している。
同じ地図へ書けば、十五年前と現在が最初から関係していたように見えてしまうからだ。
クラリスは二枚を並べた。
十五年前。
現在。
これまでは、父たちが何かを知っていたという前提で見ていた。
三国が集まった。
話し合った。
国旗を外した。
西へ向かった。
そこまでの行動には明確な目的があったはずだ。
だから、その目的を突き止めれば答えに近づけると思っていた。
けれど、山の町で自分たちがしていたことを思い返す。
最初に岩が止まった時、誰も答えを知らなかった。
石工にも。
ローウェンにも。
クラリスにも。
だから観察した。
聞いた。
比べた。
失敗した。
また試した。
その結果、ようやく「本人の意思で再現できるらしい」というところまで来た。
それでも、何が起きているのかは分からない。
クラリスは十五年前の線を指で追った。
「……父たちも」
声に出したところで、ローウェンが戻ってきた。
「何です?」
「いえ」
クラリスは少し迷い、地図を示した。
「父たちは、答えを知っていたんでしょうか」
ローウェンは地図を見た。
「それは、まだ分かっていません」
「ですよね」
当たり前の返事だった。
けれど今まで、その当たり前をどこかで忘れていた。
父たちは何かを知って西へ向かった。
それは事実かもしれない。
だが、何をどこまで知っていたのかは別の話だ。
「私、勝手にその先に答えがあると思っていました」
「西に?」
「はい」
クラリスは現在の記録へ視線を移した。
「でも、私たちだって今、分からないから動いています」
ローウェンは何も言わずに待った。
「十五年前の三国も、同じだった可能性がありますよね」
答えを持ち寄ったのではなく。
分からないものを持ち寄った。
そして、一国では確かめられないから一緒に進んだ。
それなら、あの会談の言葉も違って聞こえる。
――三国がそれぞれ確かめなければならない。
クラリスは地図を見つめた。
父たちが世界の秘密を知っていた証拠はない。
むしろ。
知らなかったからこそ、西へ行ったのかもしれない。
クラリスは手帳を開いた。
そして一行だけ書いた。
『第三使節団は、答えを確認しに行ったのか。それとも、答えを探しに行ったのか。』
疑問符を付ける。
今は、それで十分だった。
◇
午後には、低い雲の切れ間から陽が差した。
道脇の草が風に揺れ、二頭の馬の影が細長く伸びている。
昼に書いた一文が、クラリスの頭に残っていた。
――第三使節団は、答えを確認しに行ったのか。それとも、答えを探しに行ったのか。
どちらなのかは分からない。
ただ、その問いが生まれたことで、東へ戻ることへの見え方が少し変わっていた。
「ローウェンさん」
「はい」
「父のことを追うのをやめたわけじゃないですよね」
ローウェンが振り返る。
「今さら確認します?」
「しておきたくなったんです」
「やめたつもりはありません」
「ですよね」
ローウェンは馬の歩みを少し緩め、クラリスと並んだ。
「ただ、調べるものは増えましたね」
クラリスは頷いた。
最初に外交局を出た時に知りたかったのは、父に何が起きたのかだった。
十五年前の行程を追い、消えた記録を探し、証言を集める。
その先に父の消息があると思っていた。
今も、それを知りたい気持ちは変わらない。
けれど山で、自分の目で見てしまった。
説明のできない現象が起きた。
しかも人の意思で繰り返された。
「父が何を見たのかを知ることが、今起きていることを知る手掛かりになるかもしれない」
クラリスが言うと、ローウェンは頷いた。
「逆もあります」
「逆?」
「現在のことが分かれば、十五年前の記録の読み方も変わるかもしれない」
クラリスはしばらく黙って前を見た。
確かにそうだった。
今まで意味の分からなかった言葉。
必要性の分からなかった行動。
それらが、現在を知ることで別の意味を持つ可能性がある。
過去だけを追えばいいわけではなくなった。
「戻ったら、資料をもう一度読みたいです」
「第三使節団の?」
「はい。今までと違うところが気になるかもしれません」
ローウェンが苦笑する。
「外交局の書庫がまた荒れますね」
「きちんと戻しています」
「今度は私も手伝いますよ」
「最初からお願いします」
クラリスは笑い、馬を少し前へ出した。
父の道を離れているように見えても。
調査そのものから離れているわけではなかった。
◇
夕方近く、前方から速い蹄の音が聞こえた。
クラリスとローウェンは道の端へ馬を寄せる。
現れたのは一騎だった。
荷を運ぶ馬ではない。
鞍の脇には革の文書筒が固定され、騎手も旅人というより公務で道を急いでいる服装をしている。
すれ違う直前、男がローウェンを見た。
視線がクラリスへ移り、二人の装いで何かに気づいたらしい。
馬を止めた。
「エストラドの方ですか」
ローウェンが身分を示す。
男はそれを確認すると、表情を改めた。
「外交局?」
「そうです。王都へ戻る途中です」
「なら、ちょうどいい」
男は鞍の文書筒へ手を掛けたが、取り出す前に止める。
「いや、これはあなた方宛てじゃないな」
「何かあったんですか?」
クラリスが尋ねた。
男は少し迷った。
「各地への照会です」
「照会?」
「最近、原因の説明できない出来事について報告が上がっているらしい」
クラリスとローウェンは顔を見合わせた。
男は続ける。
「事故なのか、見間違いなのか、それとも別の理由があるのか。似た報告がないか確認しろ、という内容です」
クラリスは思わず鞄へ手をやった。
その中にある報告書と、言葉が重なる。
「どんな出来事ですか」
「そこまでは俺も知らない」
男は首を振った。
「伝令は運ぶのが仕事だ。中身を全部説明されるわけじゃない」
もっともだった。
「どこからの指示です?」
ローウェンが尋ねる。
「王都からだ。それ以上は、届け先で確認してくれ」
男は急いでいるらしく、それ以上長く留まる様子はなかった。
「東へ戻るなら、道は問題ない。ただ、この先は人が増える。日が落ちる前に休む場所を決めた方がいい」
「ありがとうございます」
ローウェンが答える。
男は一礼し、再び西へ馬を走らせた。
蹄の音が遠ざかる。
クラリスはしばらくその背中を見ていた。
「ローウェンさん」
「はい」
「私たちの報告、まだ届いてませんよね」
「届くはずがありません」
報告書は今、クラリスの鞄に入っている。
写しも同じだ。
山の町で確認したことを、二人より先に王都へ知らせた者はいない。
少なくとも、クラリスたちの記録から始まった照会ではない。
それでも。
王都はすでに動き始めていた。
◇
その夜、クラリスは宿の卓で報告書を開いた。
最後の頁へ、新しい紙を一枚重ねる。
ローウェンが向かいから見た。
「追記しますか」
「はい。今日の伝令についてだけ」
クラリスはペン先をインクへ浸した。
王都から、原因の説明できない出来事について各地へ照会が出されていること。
具体的な事象や発生場所は不明。
照会の根拠となった報告についても未確認。
そして最後に、
『本報告とは別系統の情報に基づく照会と考えられる。』
と書いた。
「考えられる、ですか」
ローウェンが言う。
「私たちの報告がまだ届いていないことは確かです。でも、向こうで何を受け取って、どう判断したのかは知りません」
「そうですね」
クラリスは紙を乾かした。
今日分かったことは、それだけで十分だった。
山の町で自分たちが確認した現象とは別に、王都にも説明のつかない何かについて報告が届いている。
同じものだとは言えない。
けれど、自分たちの一件だけではなかった。
クラリスは報告書の横へ手帳を置く。
その隣には父の地図。
三つを並べて眺めた。
報告書には、自分たちが確認した事実がある。
手帳には、確かめられていない噂と疑問がある。
父の地図には、十五年前の人々が進んだ道がある。
どれか一つだけでは、まだ何も分からない。
「持ち帰るもの、分かった気がします」
クラリスが言うと、ローウェンが顔を上げた。
「報告書ではなく?」
「報告書もです」
クラリスは手帳へ触れた。
「分からなかったことも、です」
ローウェンは少し考えてから頷いた。
「それは重そうですね」
「紙なので軽いですよ」
「そういう意味ではありません」
クラリスは小さく笑った。
分からないことを、都合のいい答えに変えない。
十五年前と現在を、根拠もなく結びつけない。
けれど、似ているものまで無視しない。
そのまま持ち帰って、並べる。
王都にはすでに、自分たちとは別の報告が届いている。
ならば戻った時。
初めて、自分たちの記録と比べられる。
クラリスは報告書を閉じた。
父の地図と手帳も鞄へ収める。
明日も東へ進む。
王都へ持ち帰るのは、答えではない。
答えを探すための材料だった。
「続きも読みたい!」と思っていただけたら、ブックマークや★★★★★で応援していただけるとうれしいです!




