第32話 ここだけではない
翌朝、クラリスたちは山の町を出た。
空には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はない。昨夜聞いた通り、道のところどころにはまだ湿った土が残っているものの、馬で進むには問題のない状態だった。
前を行くのは、昨日宿で話した荷運びの男たちだった。
荷を積んだ馬が三頭。その後ろをクラリスとローウェンが続く。
西へ向かっていた時とは、同じ道でも景色の見え方が違った。
進行方向の先に父はいない。
少なくとも、今クラリスが追っているものは父の足跡ではなかった。
鞄の中には、昨日書き上げた報告書がある。
一通は正式なもの。
もう一通は写し。
それとは別に手帳があり、その中には報告書へ収めきれなかった観察と証言が残されている。
石工。
鍛冶職人。
水汲みの子供。
そして昨夜聞いた、坂道で荷車が一瞬止まったという話。
どれも同じものだと確認できたわけではない。
むしろ最後の一件など、クラリス自身は現場さえ見ていない。
しばらく馬を進めたところで、クラリスは前を行く男へ声を掛けた。
「昨日の荷車の話なんですが」
男が振り返った。
「ああ。あれか」
「もう少し詳しく聞いてもいいですか?」
「俺が知ってる範囲ならな」
クラリスは馬を少し前へ出して並んだ。
「話していた御者とは、直接会ったんですか?」
「いや」
男はあっさり答えた。
「宿にいた別の奴から聞いただけだ」
クラリスは手帳を開いた。
つまり昨夜聞いた時点ですでに、少なくとも一人を挟んだ伝聞だったことになる。
「その御者が普段から同じ道を使っているかは?」
「知らん」
「荷車は壊れていなかった?」
「そこまでは聞いてないな」
「車輪や車軸を確認したという話は?」
「それも知らん」
尋ねるほど、分からないことが増えていく。
男は困ったように笑った。
「昨日も言っただろ。噂みたいなもんだって」
「はい」
クラリスも笑った。
「だから確かめています」
ローウェンが後ろから言った。
「聞いた場所は覚えていますか」
男は少し考え、来た道を振り返った。
「宿は覚えてる。昨日俺たちが泊まる前に寄ったところだ」
「そこへ行けば、その話をした人に会えるでしょうか」
「もういないと思うぞ。荷運びの連中は長居しない」
「では、宿の人が何か覚えているかもしれませんね」
男は肩をすくめた。
「そこまで追うような話か?」
クラリスはすぐには答えなかった。
今の段階では、それすら分からない。
ただ、山の町で起きた出来事を知らなければ、自分も昨夜の話を笑って聞き流していただろう。
「違う話だと分かれば、それでいいんです」
「同じだったら?」
クラリスは前方へ視線を戻した。
道は山の間を緩やかに下っている。
「その時に考えます」
男はしばらくクラリスを見てから、笑った。
「面倒な仕事だな」
昨日、石工にも同じことを言われた。
クラリスは少しだけ口元を緩めた。
「そうみたいです」
◇
昼前、道沿いで一度馬を休ませた。
木陰のある場所へ荷を寄せ、男たちは水袋を回している。
クラリスも馬へ水を与えたあと、昨夜から増えた記録を読み返していた。
荷車が止まった。
それだけなら、石工の岩とは似ているようにも見える。
けれど、御者が止めようとしたことと、荷車が止まったことの間に関係があるかは分からない。
危険な状況だったという点だけなら同じだ。
それも、後から話を聞いた人間がそう結びつけただけかもしれない。
「何か見つかりましたか」
ローウェンが隣に腰を下ろした。
「いいえ。むしろ、昨日より使えない話になりました」
「伝聞の伝聞でしたからね」
「はい」
クラリスは手帳の該当箇所へ小さく追記した。
『証言者は御者本人と面識なし。』
これで価値がなくなるわけではない。
ただし重みは変わる。
その区別を残しておく必要があった。
少し離れた場所では、荷運びの男たちが昼食を取っていた。
その一人が何気なく言った。
「変な話ってんなら、他にも聞いたことあるぞ」
クラリスが顔を上げる。
昨日とは別の男だった。
「どんな話ですか」
「大したもんじゃない」
男は干した肉を噛みながら、記憶を探るように空を見た。
「火が消えなかったとか」
ローウェンとクラリスが同時に男を見る。
「火?」
「窯だったかな。炉だったかな」
「どちらです?」
「だから、よく覚えてないって」
男は笑った。
「何日か前に、別の荷運びから聞いただけだ。火を落としたのに、なかなか冷めなかったとか何とか」
クラリスは手帳へ手を伸ばしたものの、まだ書かなかった。
「誰の火ですか」
「職人だったと思う」
「その人が何かしたという話は?」
「さあ」
「普段からその火を扱っていた人ですか?」
「たぶんな。職人なんだから」
曖昧だった。
鍛冶職人の鉄が熱を取り戻したことを知っている今なら、似ているように聞こえる。
だからこそ危険だった。
似ている部分だけを拾えば、どんな噂でも同じ話にできてしまう。
「その話を聞いたのはどこです?」
クラリスが尋ねた。
男は来た方向を指した。
「もっと東だ。ここへ来る何日か前」
「場所は覚えていますか」
「だいたいなら」
クラリスはようやく手帳へ書いた。
ただし内容は短い。
『東側から来た荷運びより伝聞。職人の扱う火または設備が、通常より長く熱を保ったとの話。詳細不明。直接確認なし。』
書き終えると、ローウェンが横から覗いた。
「石工や鍛冶職人との共通点は書かないんですね」
「まだ共通点かどうか分かりませんから」
「職人という点は?」
「職人なら、火を使う仕事はいくらでもあります」
クラリスは手帳を閉じた。
山の町にいた時は、自分たちが直接見たものだけを比べればよかった。
今は違う。
噂。
伝聞。
勘違い。
誇張。
そこへ、自分たち自身の思い込みまで混ざる。
遠くへ行くほど、情報は粗くなる。
その代わり。
本当に同じようなことが別の場所でも起きているなら、ここから先はそういう粗い話の中に痕跡が混ざっているはずだった。
クラリスは立ち上がった。
「行きましょう」
「もういいんですか」
「今ここで考えても、これ以上は分かりません」
ローウェンも腰を上げる。
「最近、それを言うのが早くなりましたね」
「成長したんです」
「諦めが良くなったとも言います」
「それは言わないでください」
二人は馬へ戻った。
◇
午後になると、山の傾斜は少しずつ緩やかになった。
道そのものはまだ険しいが、周囲に開けた場所が増えている。
向こうから来る旅人とも何度かすれ違った。
最初の二組には、特に変わった話はなかった。
道がぬかるんでいる。
荷を積みすぎた馬が一頭動かなくなった。
雨で屋根が漏れた宿がある。
どれも旅人なら珍しくもない話だった。
三組目は、商人らしい二人連れだった。
クラリスは道の状態を尋ねた後、少し迷ってから質問を加えた。
「最近、道中で変わった出来事の話を聞きませんでしたか」
商人の一人が首をかしげる。
「変わったこと?」
「普通には説明しにくいようなことです」
「盗賊なら出てないぞ」
「そういう意味ではなくて」
どう尋ねればいいのか、自分でも分からなかった。
岩が落ちなかったことはありますか。
鉄が勝手に熱くなったことは。
そんな聞き方をすれば、それに似た話ばかり集まる。
誘導になってしまう。
クラリスは質問を変えた。
「最近、聞いた時には信じなかったような話はありませんか」
商人は笑った。
「それなら毎日ある」
「例えば?」
「昨日買った馬が百里走ったとか、薬草を飲んだら十歳若返ったとか」
隣の男も笑う。
クラリスもつられて笑った。
その程度の話なら、どこにでもある。
「そうですよね。すみません」
会話を終えようとした時、隣にいた男がふと口を開いた。
「そういや、水の話があったな」
クラリスの笑みが消えた。
「水?」
「何だったかな。甕だったか桶だったか」
また曖昧な話だった。
男は眉間に皺を寄せる。
「女が水をこぼしたんだ。それが、すぐには広がらなかったとか」
クラリスは黙った。
水汲みの子供。
落とした桶。
こぼれるはずだった水が、一瞬だけまとまった。
同じ光景が脳裏に浮かんだ。
だからこそ、すぐには聞き返さなかった。
ローウェンが代わりに尋ねる。
「それは、どこで聞きました?」
「かなり前だぞ」
「どのくらいです?」
「数日前……いや、もっとか」
「実際に見た人から?」
「違う。市場で誰かが話してた」
「その女が水を扱う仕事をしていたかは?」
「知らない」
男は不思議そうにローウェンを見た。
「何だ。似たことでもあったのか?」
「まだ分かりません」
クラリスが答えた。
男はそれ以上気にした様子もなく、馬を進めていった。
二人が見えなくなってから、クラリスは手帳を開いた。
書く。
『東から来た商人より伝聞。女がこぼした水が、すぐには広がらなかったとの話。場所・人物・日時不明。直接確認なし。』
書き終えた後も、しばらくその一文を見ていた。
「三つですね」
ローウェンが言った。
「三つ?」
「昨夜の荷車。昼の火。そして今の水」
「全部、噂です」
「ええ」
「同じ出来事を別の人から聞いただけかもしれません」
「火と水と荷車がですか?」
クラリスはローウェンを見る。
「そういう意味じゃありません」
ローウェンが少し笑った。
「分かっています」
クラリスは再び手帳を見る。
石工の岩。
鍛冶職人の鉄。
水汲みの子供。
その三例は直接見た。
今日聞いた話は、どれもそこへ似すぎている。
似すぎているからこそ、自分たちが勝手に似せている可能性も考えなければならない。
それでも。
三つの噂は、少なくとも一つの点では同じだった。
山の町で聞いた話ではない。
「もし全部が作り話じゃなければ」
クラリスが呟く。
ローウェンは先を促さなかった。
「この町だけじゃない」
口にしてから、クラリスはすぐに付け加えた。
「かもしれません」
「大事なところですね」
「はい」
断定できることは何もない。
けれど、昨日までの問いは変わり始めていた。
山で何が起きているのか。
それだけを調べれば済む話ではないのかもしれない。
◇
その日の夕方、クラリスたちは荷運びの一行とともに足を止めた。
簡単な食事を済ませた後、クラリスは少し離れた場所に座り、手帳を膝へ広げた。
昼間に書いた三つの伝聞。
その隣には、山の町で直接確認した三例。
さらに前の頁をめくれば、十五年前の第三使節団について集めてきた記録が並んでいる。
一見すれば、まったく別の話だった。
十五年前の外交使節。
現在起きている説明不能な現象。
それを結びつける証拠は、今もない。
クラリスはそれを忘れないよう、最初に自分へ言い聞かせた。
それでも手が止まったのは、ある記録を見つけたからだった。
プレアリア。
エストラド。
バルク。
三国の一行は、最初から同じ場所へ一緒に来たわけではない。
それぞれ別に集落へ到着した。
互いが来ていることさえ知らなかった。
その後、代表者たちは話し合い、一つの隊列となって西へ向かった。
クラリスは会談について記した頁を読み返した。
十五年前、そこで交わされたという言葉。
どの国が先に知ったかは関係ない。
どの国のものかを争っている場合ではない。
三国がそれぞれ確かめなければならない。
以前は、その言葉を読めば。
何を見つけたのだろう。
何を持ち寄ったのだろう。
父たちは、どこへ行こうとしていたのだろう。
そう考えていた。
今は少し違った。
クラリスは今日の記録へ戻った。
荷車。
火。
水。
どれも確かではない。
三国の話ですらない。
どの国で起きたものなのか、判別できる材料さえない。
それでも。
もし十五年前の人々も、一つの場所で一つの異変を見つけたのではなかったとしたら。
それぞれ別の場所で。
別の出来事を見て。
それを持ち寄る必要があったのだとしたら。
「考えていますね」
声に顔を上げると、ローウェンが立っていた。
「顔に出ていました?」
「手が止まっていたので」
ローウェンが隣に座る。
クラリスは開いた頁を見せた。
「十五年前の会談です」
「何か気になることが?」
「今まで、私は三国が何を持ち寄ったのかばかり考えていました」
「はい」
「でも、この言葉」
指で示す。
『三国がそれぞれ確かめなければならない。』
ローウェンは黙って読んだ。
「三国が、同じものを見つけたとは書いていません」
「そうですね」
「同じ場所で見つけたとも」
「書いていません」
クラリスは今日の頁を並べた。
「今日聞いた話が、山で起きたものと同じだとは言えません。でも、もし似たようなことが離れた場所で起きているなら」
そこで止める。
先へ進めば、仮説が事実のようになってしまう。
ローウェンが続きを引き取った。
「十五年前にも、同じように複数の場所で何かが起きていた可能性を考えられる」
「はい。可能性だけです」
「それでも、以前にはなかった問いです」
クラリスは手帳へ新しい一文を書いた。
『十五年前、三国がそれぞれ確認しようとした対象は、一地点の同一事象だったのか。』
答えは書かなかった。
書けない。
けれど、その問いを残すことはできる。
クラリスはしばらく文字を眺めた。
父を追ってきたはずの道で。
父が残した答えではなく。
自分自身の問いが、また一つ増えていた。
◇
夜が深くなる前に、ローウェンが地図を広げた。
明日以降の道を確かめるためだった。
クラリスはその向かいで、今日一日で増えた手帳の頁を読み返していた。
荷車。
火。
水。
どれも直接見たものではない。
話した相手自身が目撃したものですらなかった。
聞いた場所も、起きた場所も、人物も曖昧なものが多い。
これだけなら、報告書へ新しい事実として加えることはできない。
クラリスは三件の横へ、それぞれ小さく印を付けた。
「明日も、聞きながら進みますか」
ローウェンが地図から顔を上げた。
「はい。ただし、似た話を探しているとは言わない方がいいと思います」
「誘導になりますからね」
「今日も少し危なかったです」
水の話を聞いた時。
クラリスの頭には、すぐ水汲みの子供の姿が浮かんだ。
桶からこぼれるはずだった水。
一瞬だけ形を保った水。
似ていると思った瞬間から、相手の話まで同じものとして聞きたくなる。
それでは記録ではなくなる。
「『変わったことはなかったか』くらいにしておきます」
「それでも十分広い質問ですね」
「広くないと困るんです」
クラリスは手帳を閉じた。
「私たちが見たものに似た話だけ集めたら、本当に似たことが起きているのか、それとも似た話だけ拾っているのか分からなくなります」
ローウェンが頷いた。
「では、違う話も書く?」
クラリスは少し考えた。
「全部は無理です。でも、聞き方と、何を除いたかは残しておきます」
「王都へ戻ったら、読む人が苦労しそうですね」
「私も苦労しています」
「それなら公平です」
クラリスは笑った。
そのあと、ローウェンが地図の一箇所を指した。
「明日はこのまま東へ。今日より人の行き来は増えるはずです」
「分かりました」
「報告書は予定通り、私たちが持って戻る」
「はい」
その方針は昨日決めた。
今日一日で変わったのは、帰る理由ではない。
持ち帰るものだった。
昨日までは、自分たちが直接確認した三例と、その再現記録。
そこへ今は、確証のない話が三つ加わっている。
証拠とは呼べない。
報告すべき事実とも、まだ言えない。
それでも、無視してよいとも思えなかった。
クラリスはもう一度手帳を開き、今日の三件を眺めた。
山の町だけで起きているなら、調べる範囲は限られる。
けれど。
もし違うのなら。
十五年前、三国の人々が別々に何かを知り、一つの場所へ集まったことの意味も変わってくる。
父たちは、一つの異変を追っていたのだろうか。
それとも。
それぞれの土地で起きた別々の何かを、持ち寄ろうとしていたのだろうか。
答えはない。
クラリスは新しい頁を開いた。
そこへ、今日の最後の一文を書く。
『現在確認した伝聞のみでは、山岳地帯以外で同種の事象が発生しているとは判断できない。』
一度、ペンを止める。
その下へ続けた。
『ただし、発生地域が限定されない可能性について、今後確認を要する。』
それ以上は書かなかった。
断定するには早い。
けれど、問いとして残すには十分だった。
クラリスは手帳を閉じた。
明日も東へ進む。
父から離れているように見える道の先で。
十五年前について、新しく確かめなければならないことが増えていた。
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