第31話 報告書
翌朝。
クラリスは、いつもより少し遅い時間まで朝食の席を立たなかった。
食べ終えた皿はすでに端へ寄せてある。代わりに机の中央を占めているのは、昨日までに使った手帳と何枚もの紙だった。
窓の外では山の町が動き始めている。
通りを荷を担いだ男が歩き、遠くでは石を打つ乾いた音が響いていた。
クラリスは、その音を聞きながら昨日の日付が書かれた頁を開いた。
『条件をそろえることで、本人の意思による再現を確認。』
そこから先へ、まだ何も書かれていない。
向かいに座ったローウェンが、湯気の薄くなった茶を口へ運んだ。
「今日は行かないんですか」
クラリスは顔を上げる。
「どこへです?」
「石工のところです。また石を落としてもらうのかと思っていました」
「行きません」
答えると、ローウェンがわずかに眉を上げた。
「鍛冶職人のところも?」
「行きません」
「水汲みの子供は」
「もっと行きません」
ローウェンが小さく笑った。
昨日までは、何が起きているのかを知るために試す必要があった。
石工が石を扱う。
鍛冶職人が鉄を扱う。
場所を変える。
戻す。
本人に起こそうとしてもらう。
失敗も含めて条件を一つずつ変え、その結果、二人の人間が意図した現象を二度ずつ起こした。
だからこそ、もう同じことを続ける理由はなかった。
少なくとも今は。
「何が起きているのか、まだ何も分かっていません」
クラリスは言った。
「昨日は石を落として、鉄を少し温めただけです。でも、それが身体に何もしていないとは限らない」
ローウェンの表情から笑みが消えた。
「疲労は?」
「本人たちは特に訴えていません。でも、訴えていないことと、安全なことは別です」
「そうですね」
石工も鍛冶職人も、昨日の様子だけを見れば普段と変わらなかった。
だからといって、十回、百回と繰り返してよい理由にはならない。
何を使っているのかも分からない。
なぜできるのかも分からない。
何が失われるのかも分からない。
クラリスは手帳を閉じた。
「次にやるのは、実験じゃありません」
「では?」
机の上へ新しい紙を置く。
紙の上端を指でそろえ、インク壺の蓋を開けた。
「報告です」
羽根ペンを取り、最初の一行を書く。
その筆運びは、王都の外交局で毎日繰り返していたものと何も変わらなかった。
けれど、書こうとしている内容だけは。
これまで一度も、報告書に書いたことのないものだった。
◇
最初に書いたのは、崩落のことだった。
岩が落ちた。
逃げ遅れた者がいた。
石工が助けようとした。
そして、本来なら落下していたはずの岩が、説明できない状態でわずかな時間だけ保たれた。
クラリスは一度ペンを止めた。
「『宙に止まった』でいいでしょうか」
ローウェンが紙へ目を向ける。
「実際に、完全に浮いていましたか?」
「……そこなんです」
あの瞬間は切迫していた。
落下する岩。
逃げ遅れた人。
助けに入った石工。
クラリス自身も、それを細部まで冷静に観察できていたわけではない。
「なら、見た以上のことは書かない方がいいでしょう」
「はい」
一度書いた言葉へ線を引き、書き直す。
『落下するはずの岩が、通常では説明できない状態で数秒間その位置を保った。』
次は鍛冶職人。
炉から離れ、冷え始めていた鉄。
本人の手元で、再び熱を帯びたこと。
その次に、水汲みの子供。
落とした桶からこぼれるはずだった水が、一瞬だけまとまりを保ったこと。
一つずつ書いた。
その後に、昨日の試行を続ける。
石工。
本人が日常的に扱っている石。
最初の現象が起きた地点付近。
本人が落下を遅らせようと意図。
複数回の失敗。
その後、二度の遅延を確認。
場所を離れた試行では確認できず、元の地点付近へ戻った後に再び確認された。
鍛冶職人。
普段から扱っている鉄。
本人の鍛冶場。
十分に冷えた鉄片を二つ用意。
一方だけへ熱を戻そうと意図。
失敗を挟んだ後、対象だけに比較可能な温度差を二度確認。
書いていくほど、昨日の出来事が妙に現実味を失っていく。
紙の上では、すべてが整然としていた。
誰が。
どこで。
何を。
何回試し。
何回起きたか。
それなのに、並んでいるのは常識では説明できない事実ばかりだった。
クラリスは次の一文を書こうとして手を止めた。
『精霊の――』
そこまで書き、すぐに線を引く。
ローウェンが見ていた。
「消すんですか」
「これは、私たちが確認したことではありません」
「この土地の人たちは、そう呼んでいます」
「はい。だから、現地の解釈としては書けます」
クラリスは別の行に書き直した。
『現地では、一連の事象を「精霊の御業」と解釈する者がいる。』
そこで文を切る。
「これなら、事実です」
「精霊の御業そのものではなく、そう考えている人がいることが?」
「はい」
ローウェンが少しだけ口元を緩めた。
「相変わらず面倒な書き方をしますね」
「外交文書は、面倒なくらいでちょうどいいんです」
「誰に教わりました?」
「たぶん、あなたです」
「それは困りましたね」
クラリスも笑いかけたが、すぐ紙へ視線を戻した。
もう一つ、使わない言葉があった。
魔法。
そんな言葉を、クラリスたちはまだ一度もこの現象へ使っていない。
昔話の中ならともかく、自分たちが見たものにそう名を付ける根拠はなかった。
今書けるのは、それよりずっと地味な言葉だけだ。
『原因不明。』
『発生条件不明。』
『身体への影響不明。』
そして。
『本人の経験と現象の内容に関連がある可能性。』
『本人以外に、場所その他の条件が存在する可能性。』
クラリスは最後まで書いてから、文末の「可能性」の文字を見た。
分からないことばかりの報告書だった。
けれど。
昨日までとは、一つだけ違う。
『一定の条件下において、本人の意思による再現を複数回確認。』
この一文だけは。
もう、消すことができなかった。
◇
昼を過ぎる頃には、報告書の最初の稿ができていた。
ローウェンはクラリスから紙を受け取ると、最初から黙って読み始めた。
クラリスはその間に手帳を整理した。
報告書には書かなかった細かな試行回数や、石工たちとの会話も残してある。父から受け継いだ地図とは別に、この町と周囲の発生地点を描いた見取り図もある。
必要になるかどうかは分からない。
だから残す。
分からないことを分かったことにせず、それでも見たものは記録する。
ここ数日の調査で、そうすることの大切さをクラリスは何度も感じていた。
やがて、紙の擦れる音が止まった。
「クラリス」
「はい」
「これは、第三使節団の調査報告には入れられません」
予想していなかった言葉に、クラリスは顔を上げた。
「入れられない?」
「正確には、そこだけへ収めてはいけない、です」
ローウェンは報告書を机へ置いた。
「私たちがここへ来た理由は第三使節団です。ですが、この現象自体は十五年前の事件と同じものだと確認できていない」
「はい」
「関係がある可能性はある。けれど、それもまだ可能性です」
クラリスは頷いた。
自分自身、何度もそう書いてきた。
十五年前の人々が今と同じものを見たという証拠はない。
父たちが何を知っていたのかも分からない。
「一方で」
ローウェンが報告書の最後の頁を指で押さえた。
「今起きたことは、第三使節団と無関係だったとしても重大です」
その言葉に、クラリスは紙へ目を落とした。
石の落下を遅らせる。
鉄へ熱を戻す。
どちらも規模は小さい。
それだけを聞けば、国を動かすほどの話には思えないかもしれない。
だが重要なのは、できたことの大きさではない。
人間が。
起こそうとして。
起こした。
その点だった。
「外交局へ上げるべきだと思います」
ローウェンが言った。
「第三使節団特別調査の途中経過とは分けて?」
「少なくとも、読む側が別件として判断できる形にはしておくべきでしょう」
クラリスは報告書を引き寄せた。
その判断に異論はなかった。
むしろ書いているうちに、自分でも感じ始めていた。
これはもう、自分たち二人だけで抱えてよい記録ではない。
「西へ進むのは」
言いかけると、ローウェンはすぐには答えなかった。
十五年前、父たちはさらに西へ進んだ。
クラリスたちは、その足跡を追ってここまで来た。
まだ分かっていないことはいくらでもある。
三国の一行が何を確かめようとしたのか。
その先で何が起きたのか。
父はどこまで行ったのか。
本当なら、そのまま進みたかった。
「一度、優先順位を変えましょう」
ローウェンが言った。
「戻る、ということですか」
「少なくとも、この情報を確実にエストラドへ渡す方法を考えます」
クラリスは窓の外へ目を向けた。
山は昨日までと何も変わらず、静かに連なっている。
十五年間、その向こうを追い続けてきたわけではない。
けれど、父の足跡へ近づくほど、西へ行きたいという気持ちは強くなっていた。
その道を、ここでいったん外れる。
クラリスは報告書へ視線を戻した。
父ならどうしただろう。
そう考えかけて、やめた。
父の答えを知っているわけではない。
今あるのは、自分が見たものだけだ。
「分かりました」
クラリスは言った。
「これを先に届けましょう」
ローウェンが頷いた。
クラリスは新しい紙を取り出した。
一通だけでは足りない。
途中で失われる可能性も考え、手元へ残すための写しを作る。
また最初からペンを走らせながら、クラリスは妙なことに気づいた。
父を追うために始めた旅で。
初めて。
父が行った方角とは違う方へ、自分で進もうとしていた。
◇
午後、クラリスたちは宿を出た。
報告書をすぐ王都へ送れる都合のよい手段があるわけではない。
まずは東へ向かう者がいるかを確かめ、途中で公的な連絡経路へ乗せられる場所までどう戻るかを決める必要があった。
宿の主人へ尋ねる前に、通りの向こうから見覚えのある男が歩いてきた。
石工だった。
男はクラリスたちを見ると、足を止める。
「今日は来なかったな」
「行かないと怒るんですか?」
「怒らん」
石工は即答した。
「静かで助かった」
「それならよかったです」
クラリスが笑うと、男は少しだけ不満そうな顔をした。
「でも、もうやらないのか」
クラリスは答える前にローウェンを見た。
ローウェンは何も言わない。
「少なくとも、今はお願いしません」
「何でだ」
昨日と同じ問いだった。
クラリスは少し考えた。
「分からないからです」
「またそれか」
「はい。またそれです」
男が鼻を鳴らす。
「二回もできたぞ」
「だからです」
石工が黙った。
クラリスは続けた。
「一度なら、起きたことで終わりました。でも昨日、あなたは自分で起こした」
「たぶんな」
「それができるなら、使い方を考える人も出ます」
石工は山の方を見た。
自分ならどう使うだろう、と考えたのかもしれない。
崩落を防ぐ。
岩を支える。
仕事の中で役立つ場面はいくらでもありそうだった。
だが、それをクラリスから口にすることはしなかった。
「何をしているのかも分からないまま、便利だから使ってくださいとは言えません」
しばらくして、石工が尋ねた。
「俺のこと、王都に知らせるのか」
その問いには慎重に答えた。
「起きた現象は報告します。あなたについて必要以上のことを書くつもりはありません」
報告書には、現象が起きた本人について、確認に必要な情報だけを書いてある。
この町の石工。
長年、石を扱っていること。
現象の前後で確認できたこと。
それ以上の私生活まで、今の報告に必要はなかった。
石工は少し考えてから頷いた。
「なら、好きにしろ」
「ありがとうございます」
男は歩き出しかけて、ふと止まった。
「石は?」
クラリスは鞄へ手を当てる。
昨日預かった小石は、布に包んで手帳と別に入れてある。
「持っています」
「ただの石だぞ」
「知っています」
「捨てても同じだ」
「それも、まだ分かりません」
石工は呆れたようにクラリスを見た。
やがて笑った。
「お前、何でも分からないで済ませるな」
「分からないものが多すぎるんです」
「大変な仕事だな、外交官ってのは」
「私も最近そう思います」
男が去っていく。
その背中を見送り、ローウェンが隣で言った。
「最近?」
「前からです」
二人は宿へ戻った。
主人に東へ向かう人の出入りを尋ねるためだった。
父の足跡を追う旅は、一度止まる。
けれど、調査をやめるわけではない。
今ここで起きたことを持ち帰る。
それもまた、自分の仕事になっていた。
◇
宿の主人は、クラリスの質問に少し考え込んだ。
「東へ?」
「はい。できれば近いうちに出る人を探しています」
「明日の朝なら、荷を運ぶ連中が何人か出るはずだ。ただ、ずっと王都の方まで行くわけじゃない」
「途中までで構いません。道の状況も聞きたいです」
主人は頷き、食堂の奥へ目を向けた。
夕食にはまだ早い時間だったが、壁際の卓には三人の旅人が座っている。荷運びの途中らしく、足元には使い込まれた革袋がまとめて置かれていた。
「ちょうど、あの連中が東から来たところだ。聞くなら紹介するぞ」
クラリスとローウェンは礼を言い、卓へ向かった。
道について尋ねるだけのつもりだった。
どこまで馬で進めるか。
崩れた場所はないか。
途中で休める場所はあるか。
旅人たちは慣れた様子で答えてくれた。
大きく道が塞がれているところはない。
ただし雨の後でぬかるんだ場所があり、荷を積んだ馬なら少し注意した方がいいという。
クラリスは必要な部分を手帳へ書き留めた。
「それなら、明日の朝には出られそうですね」
ローウェンが言う。
「そうですね」
返した時だった。
向かいに座っていた旅人の一人が、クラリスの手帳を見て笑った。
「ずいぶん細かく書くんだな」
「仕事なので」
「役人か?」
「外交官です」
男は目を丸くした。
「こんな山まで?」
「調べものがありまして」
詳しく説明するつもりはなかった。
男もそれ以上は聞かず、杯へ口をつけた。
その隣の旅人が言った。
「調べものなら、最近は変な話が多いぞ」
クラリスのペンが止まった。
ローウェンは何も言わなかった。
「変な話?」
「道の話じゃない。人の話だ」
男は笑いながら手を振った。
「まあ、宿で聞いた噂みたいなもんだ。まともに聞くなよ」
「どんな噂ですか」
聞くと、男は少し考えた。
「俺たちが来る途中の宿で聞いたんだ」
そこへ来ていた御者が話していたという。
荷を積んだ車が坂を下っていた。
何かの拍子に勢いがつき、御者が止めようとした。
馬だけでは抑えきれない。
その時。
「車が、一瞬だけ止まったんだと」
クラリスは男を見た。
「止まった?」
「そう言ってた」
「車輪が石にはまったとか、地面が窪んでいたとかではなく?」
「さあな。俺が見たわけじゃない」
男は肩をすくめた。
「そいつも最初はそう思ったらしい。ただ、あとで道を見ても、それらしいものはなかったとか何とか」
「御者は?」
ローウェンが初めて口を挟んだ。
「何かしたんですか」
「止まれって叫んだらしいぞ」
男が笑った。
「そりゃ御者なら叫ぶだろ」
その通りだった。
荷車が暴走すれば、誰だって止まれと叫ぶ。
叫んだから止まったとは限らない。
車軸に何か起きたのかもしれない。
馬が踏ん張ったのかもしれない。
話が伝わる間に、大げさになっただけかもしれない。
何も確かめられていない。
クラリスは手帳へ視線を落とした。
書くかどうか、少し迷った。
そして、頁の隅に短く記す。
『東から来た旅人より伝聞。道中の宿で、荷車が一時停止したとの話を聞く。原因不明。直接確認なし。』
そこまで書いて、ペンを置いた。
ローウェンが頁を見る。
「書くんですね」
「聞いたことは事実ですから」
「起きたことは?」
「分かりません」
旅人たちはすでに別の話を始めている。
誰も、その噂を特別なものだとは思っていないようだった。
クラリスは朝から書いていた報告書を思い出した。
岩。
鉄。
水。
どれも最初は、たった一人の周りで起きた説明のつかない出来事だった。
今の話も同じなのか。
まったく違うのか。
判断する材料はない。
ただ。
もし、ここだけではないのだとしたら。
クラリスは手帳を閉じた。
明日の朝。
二人は東へ向かう。
その理由が、山へ来た時とは少しだけ変わっていた。
「続きも読みたい!」と思っていただけたら、ブックマークや★★★★★で応援していただけるとうれしいです!




