第30話 もう一度、石を落とす
翌朝、石工はクラリスの顔を見るなり、深いため息をついた。
「今日は何回だ」
「まだ何もお願いしていません」
「その顔で来る時は、だいたい頼み事だ」
否定できなかった。
山へ向かう道の入口には、ローウェンも待っている。クラリスの鞄には手帳のほか、昨夜まとめ直した記録が入っていた。
石工。
場所。
石。
昨日までに確かめたことを、今度は最初から意識してそろえる。
「今日は、昨日より少しだけ違います」
「石を落とすんだろ」
「はい」
「同じじゃないか」
「昨日までは、起きるかどうかを見ていました。今日は、起こせるかどうかを確かめたいんです」
男が眉を寄せた。
「俺が?」
「あなたが、です」
しばらく沈黙があった。
石工は山の方を見た。
最初の崩落以来、自分の周囲で何度も調べられてきた。祈ることも、立ち位置を変えることも、石へ触れ方を変えることも試した。
それでも、一度目のような現象は起こせなかった。
だが、その後に二人目と三人目が現れた。
さらに昨日、崩落地点付近では、小石の落下にわずかな異常が出た。同じ石工でも場所を離れると起こらず、戻るとまた起きた。
偶然だと言うには、材料が増えている。
「何をすればいい」
石工が尋ねた。
クラリスは昨夜用意した紙を開いた。
「まず場所は、昨日反応が出たところです」
男が頷く。
「石は、あなたが選んでください」
「お前が持ってきたんじゃないのか」
「私が選ぶより、あなたがよく分かる石の方がいいと思います」
石工はクラリスを見た後、作業場の端へ歩いた。
積まれた砕石をしばらく眺め、一つ拾い上げる。
親指ほどの大きさだった。
「これでいい」
「なぜそれを?」
「この辺りでよく出る石だ。割れ方も重さも分かる」
クラリスはそれ以上尋ねなかった。
昨日までの調査で、男の「分かる」は、自分たちの「見たことがある」とは違うと知っている。
手にした時の重さ。
落とした時の跳ね方。
角が欠ける時の癖。
そうしたものを、男は仕事の中で何度となく経験してきた。
三人は山へ入った。
崩落地点に近づくにつれ、クラリスは歩調を落とした。
今日は奇跡を待ちに来たのではない。
条件をそろえた。
その上で、人間の側から働きかける。
もし何も起きなければ、それも結果だ。
けれど、もし。
起こそうとして起こせたなら。
昨日までとは、まるで意味が変わる。
◇
崩落跡には朝の光が斜めに差し込んでいた。
石工が昨日とほぼ同じ位置に立つ。
クラリスは少し離れ、手帳を開いた。ローウェンはさらに後ろから周囲と男の手元を見ている。
「まず普通に一度お願いします」
石工が小石を腰ほどの高さへ持ち上げた。
指を開く。
落ちる。
乾いた音がした。
何も起きない。
「次から、意識してください」
「何を」
クラリスは少し考えた。
ここで余計なことを言えば、それ自体が条件になってしまう。
「この石がどう落ちるかは、分かりますか?」
「そりゃ分かる」
「なら、それを思い浮かべてください。落ちることそのものを」
石工が怪訝そうな顔をする。
「落とすのに、落ちることを考えるのか」
「はい。その上で――」
クラリスは昨日の記録へ目を落とした。
「少しだけ、遅く落とすつもりで」
男はしばらく小石を見つめた。
やがて手を上げる。
指を開く。
落ちた。
普通だった。
二度目。
同じ。
三度目。
変わらない。
五回。
十回。
何も起こらなかった。
石工が肩を回した。
「やっぱり落ちるぞ」
「そうですね」
クラリスは回数を記録した。
期待していなかったわけではない。
しかし、失敗したからといって昨日までの観測が消えるわけでもない。
「もう少し続けても大丈夫ですか?」
「石を落とすだけならな」
再開した。
クラリスは途中で質問を挟んだ。
「今、何を考えていました?」
「遅く落ちろって」
「石そのものは?」
「石?」
「どのくらいの重さか。手を離したらどう落ちるか」
石工は少し考えた。
「そんなもの、いちいち考えん」
「普段は?」
「見れば分かる」
また、その言葉だった。
クラリスは手帳へ視線を落とす。
意識させすぎているのかもしれない。
石工が岩を扱う時、重さや割れ方を一つずつ言葉にしてはいない。
知っているから、動ける。
「では、遅く落とそうとすることだけ考えないでください」
「さっきと言ってることが逆じゃないか」
「すみません」
クラリスは苦笑した。
「いつも石を扱う時のように持ってください。その上で、最後にだけ――少し遅く、と」
石工は納得していない顔だったが、小石を持ち直した。
指先で一度転がす。
重さを確かめるような、ごく自然な動きだった。
手を上げる。
開く。
小石が落ちた。
普通。
もう一度。
普通。
さらに一度。
石工の指が開いた。
小石が下へ動く。
その途中で。
ほんの一瞬だけ、落下が鈍った。
クラリスのペンが止まった。
小石は何事もなかったように地面へ落ちる。
かつん、と音がした。
誰も動かなかった。
やがて石工が、自分の手を見た。
「……今のは」
ローウェンが静かに答えた。
「昨日と似ています」
クラリスは石を見た。
昨日との違いは一つある。
昨日、男はただ石を落とした。
今日は。
「今、遅くしようとしましたか?」
石工はしばらく答えなかった。
やがて、小さく頷いた。
「した」
クラリスは手帳へ書いた。
『意図あり。落下に遅延を確認。』
書いた文字を見ても、まだ信じるには足りなかった。
一度だけなら。
まだ偶然と言える。
◇
「もう一度です」
クラリスの声に、石工が顔を上げた。
「今のをか」
「はい。ただし、その前に場所を変えます」
男はため息をついたが、今回は文句を言わなかった。
三人は昨日と同じように、崩落跡から少し離れた。
同じ石を使う。
同じ高さから。
そして今度は、石工自身が落下を遅らせようとする。
一回目。
普通。
二回目。
普通。
五回繰り返しても、何も起きなかった。
「戻りましょう」
最初の地点へ戻る。
石工の表情から、先ほどまでの面倒そうな様子が消えていた。
自分自身が、一番確かめたくなっているのかもしれない。
クラリスは最初と同じ位置を確認した。
「無理に力を入れないでください」
「分かってる」
「さっきと同じように」
石工は小石を掌で転がした。
指の上に乗せる。
見つめる。
手を上げる。
落とす。
普通だった。
もう一度。
変わらない。
三度目。
小石が指先を離れた。
落ちる。
そして途中で、わずかに遅れた。
今度はクラリスにもはっきり分かった。
ほんの一瞬。
止まってはいない。
けれど、普通に落ちた石とは明らかに違う。
石工が息を吐いた。
「やった」
その声は小さかった。
喜びより、驚きの方が強い。
ローウェンがクラリスを見た。
「二度目です」
「はい」
同じ人物。
同じ石。
反応が出やすい地点。
そして、本人が意図している。
一度目の成功後、場所を変えれば失敗し、戻った後で再び成功した。
偶然という言葉だけでは、もう扱いにくい。
それでもクラリスは慎重に記録した。
『同地点へ復帰後、意図した試行で再度遅延を確認。』
原因とは書かない。
仕組みとも書かない。
ただ。
意図して行った。
そして、起きた。
その二つだけは書ける。
「もう一回やるか?」
石工の方から尋ねた。
クラリスは反射的に頷きかけ、止まった。
「今日はここまでにしましょう」
「何でだ」
「何が起きているのか分かっていないからです」
石工が少し不満そうに眉を寄せる。
「石を落としただけだぞ」
「それでもです」
身体に負担がないとも限らない。
目に見えないだけで、何かを消耗している可能性もある。
今のクラリスたちには、それすら判断できない。
ローウェンも頷いた。
「成功を増やすことより、成功したことを失わない方が先です」
石工は二人を見比べ、やがて小石をクラリスへ差し出した。
「持ってろ」
「いいんですか?」
「明日また必要になるんだろ」
クラリスは受け取った。
掌の上の石は、どこにでもある普通の小石にしか見えなかった。
重さも変わらない。
熱くも冷たくもない。
それなのに。
少し前、人はこれを。
落ちるままに落とさなかった。
◇
鍛冶職人のところへ向かったのは、昼を過ぎてからだった。
「今度は何だ」
こちらも、石工とよく似た反応だった。
クラリスは朝の出来事を説明した。
石工が意図して、小石の落下を二度遅らせたこと。
場所を変えれば起きず、戻って条件をそろえると再び起きたこと。
鍛冶職人はしばらく黙って聞いていた。
「つまり、俺にもやれと」
「無理のない範囲で」
「昨日はできなかったぞ」
「昨日と一つ違います」
クラリスは鍛冶場を見渡した。
「最初に鉄が熱くなったのは、ここでした」
昨日の試行も鍛冶場では行った。
だが今回は、場所だけでなく、最初に起きた時の状況へもう少し近づける。
鍛冶職人が普段扱っている鉄。
本人が熱し方も冷え方も分かる大きさ。
炉から出した後、安全に触れられるところまで十分に冷ます。
その上で、冷えていく鉄をいつも通り観察してもらう。
「熱くしよう、だけではなく」
クラリスは朝の石工とのやり取りを思い出しながら言った。
「いつもの鉄として見てください。どのくらい熱くて、どう冷えていくか。それをあなたが普段見ている時のように」
「面倒な注文だな」
「すみません」
「で、最後に熱くしろと思え?」
「はい」
鉄片を二つ用意した。
同じくらいの大きさのものを同時に炉で熱し、並べて冷ましていく。
鍛冶職人は色を見ていた。
時折、火箸で向きを変える。
やがて赤みは完全に消え、さらに時間を置いた。
男が手を近づける。
「もういい」
一つは比較のため、そのまま置く。
もう一つを対象にした。
鍛冶職人は鉄片を見つめた。
一度目。
何も起きない。
二度目。
変化なし。
何度試しても、鉄は冷えたままだった。
男が顔をしかめる。
「石屋だけじゃないのか」
「それを今、確かめています」
さらに数回。
何も起きない。
クラリスの中に、別の可能性が浮かぶ。
石工にだけできる。
あるいは、一度意図的に成功した人間にしかできない。
まだいくらでも考えられる。
その時、鍛冶職人が鉄片へ手を伸ばしかけ、止めた。
「待て」
クラリスも動かなかった。
男は対象の鉄片へ慎重に指先を近づけた。
触れる。
すぐに隣の鉄片にも触れる。
もう一度、最初の鉄へ。
「こっちの方が温かい」
クラリスはローウェンを見る。
ローウェンが二つの位置を確認してから、自分でも触れた。
比較用。
対象。
そして、もう一度。
「確かに違います」
クラリスも確認した。
わずかな差だった。
熱い、というほどではない。
だが並べて同じように冷ました二つの鉄片のうち、鍛冶職人が熱を戻そうとした方だけが、明らかに温かい。
「もう一度できますか」
鍛冶職人が頷いた。
今度は最初から、比較用の鉄片を別に置く。
十分に温度が近づいたことを三人で確認してから、対象だけに意識を向けてもらう。
失敗。
もう一度。
失敗。
三度目。
しばらく鉄を見ていた鍛冶職人が、小さく息を吐いた。
確認する。
比較用は冷たい。
対象には、かすかな温もりがあった。
男が自分の指を見る。
「……俺がやったのか」
誰もすぐには答えなかった。
クラリスは手帳を開いた。
『鍛冶職人。意図した試行により、対象鉄片のみ温度上昇を二度確認。』
そこまで書いてから、ペンを止めた。
一人ではない。
石工だけではなかった。
◇
夕方。
宿の机には、二つの記録が並んでいた。
一つ。
石工。
小石の落下を遅らせる。
二度確認。
一つ。
鍛冶職人。
冷えた鉄へわずかに熱を戻す。
二度確認。
クラリスは何度読み返しても、その意味の大きさをうまく飲み込めなかった。
第22話の崩落で岩が止まった時。
あれは、起きてしまった出来事だった。
誰も望んだ方法を知らなかった。
石工自身にも、もう一度起こせなかった。
だから奇跡と呼ぶことができた。
説明できない、一度きりの出来事。
だが今日は違う。
「条件を選びました」
クラリスが言った。
ローウェンは向かいの椅子で記録を読んでいる。
「人を選んだ」
「はい」
「場所も」
「はい」
「扱うものも」
「それから、本人が起こそうとした」
ローウェンが紙から顔を上げた。
「そして、起きた」
クラリスは頷いた。
偶然の出来事を観察したのではない。
観察した結果から条件を絞り。
試し。
失敗し。
変えて。
もう一度試した。
その先で、同じ種類の現象が起きた。
しかも二人で。
「技術、なんでしょうか」
クラリスが呟いた。
言ってから、自分でその言葉の重さに気づいた。
技術。
鍛冶もそうだ。
石工もそうだ。
一度うまくいっただけでは技術にならない。
やり方を知り、同じ条件を整え、もう一度できるからこそ、人から人へ伝えられる。
今はまだ、そこまでではない。
なぜ起きるのかも分からない。
誰にできるのかも分からない。
どんな場所なら起きるのかも分からない。
身体に何が起きているのかさえ分からない。
「まだ、技術とは呼べないでしょうね」
ローウェンが言った。
クラリスは少し考えた。
「でも、技術になり得るところまでは来た」
ローウェンは否定しなかった。
机の端には、水汲みの子供についての記録も置かれている。
クラリスはそこへ視線を向けた。
「この子には頼みません」
「私も、その方がいいと思います」
「何が起きているか分からない以上、何度もやらせるべきではないです」
大人である石工や鍛冶職人についても、同じだった。
成功したからといって、明日から何十回も繰り返していいわけではない。
分からないことの方が、まだ圧倒的に多い。
クラリスは新しい頁を開いた。
一行目。
『本人が繰り返し経験してきたものが関係する可能性。』
二行目。
『場所その他、本人の外にも条件がある可能性。』
三行目。
ペン先が一度止まった。
そして書く。
『条件をそろえることで、本人の意思による再現を確認。』
読み返す。
昨日までの記録とは違う。
原因不明。
偶然。
再現できず。
そんな言葉が続いていた頁に、初めて「再現」という文字が残った。
ローウェンが静かに尋ねた。
「精霊の御業だと思いますか」
クラリスはすぐには答えなかった。
この土地の人々は、最初からそう呼んでいた。
山に精霊がいる。
岩を守る。
人へ力を貸す。
けれど、石工には石。
鍛冶職人には鉄と熱。
同じ場所に立ったクラリスやローウェンには、何も起きなかった。
精霊が一人ずつ相手を選び、それぞれ違う力を貸している。
そう考えることもできる。
しかし、それを確かめる材料はない。
「分かりません」
クラリスは答えた。
「ただ、一つだけ昨日までと違います」
「何です?」
クラリスは手帳に書いた三行目を見た。
「待たなくてもよくなりました」
ローウェンの視線が同じ行へ落ちる。
岩が止まるのを待つ必要はない。
鉄が勝手に熱を取り戻すのを待つ必要もない。
条件を探し。
そろえ。
人が、自分の意思で起こす。
まだ名前すらない。
原理もない。
使い方もない。
それでも今日。
世界で起きる説明不能な出来事は初めて、人間がただ目撃するだけのものではなくなった。
クラリスは頁の端へ日付を記した。
その手は、ごく普通に動いた。
いつもの調査記録と同じように。
けれど、その一行が何の始まりになるのかを。
この時のクラリスは、まだ知らなかった。
「続きも読みたい!」と思っていただけたら、ブックマークや★★★★★で応援していただけるとうれしいです!




