第29話 十五年前の場所
翌朝、クラリスは宿の机いっぱいに地図と手帳を広げていた。
昨夜描いた簡単な見取り図には、三つの印がある。
石工の崩落地点。
鍛冶職人の鍛冶場。
水汲みの子供が桶を落とした坂道。
どれも、説明のできない現象が起きた場所だった。
その隣には、父から受け継いだ地図が置かれている。
十五年前、レオン・ヴァインが歩いた道。
旧王道を通り、集落へ入り、三国の一行が合流した後、さらに西へ向かった。その先についても、父は道の状態や水場、旅人が休める場所を書き残している。
クラリスは二枚を見比べた。
縮尺も、目的も違う。
自分が昨夜描いたものは、町とその周辺だけを記した覚え書きに近い。父の地図は、もっと長い旅のためのものだ。
それでも、並べてみる意味はある。
「昨日から、ずっとそれを見ていますね」
ローウェンが朝食を終えて戻ってきた。
クラリスは顔を上げずに答えた。
「場所も記録すると決めましたから」
「それは分かります。なぜ十五年前の地図まで?」
クラリスは少し迷い、父の地図の上へ指を置いた。
「私たちは、そもそも何を追ってここまで来たんでしたっけ」
「第三使節団です」
「はい」
始まりは、十五年前の事件だった。
公式の記録から外れた行程。
地図から消えた旧王道。
別々に到着した三国の一行。
国旗を外し、一つの隊列となって西へ進んだ人々。
父も、その中にいた。
ところが今、自分たちは父の足跡だけを見ているわけではない。
岩が止まった。
冷え始めた鉄が熱を取り戻した。
こぼれるはずの水が、一瞬だけまとまった。
十五年前の記録にはない出来事が、現在の旅の途中で起きている。
「第三使節団を追っていたら、これが起きた」
クラリスは昨夜の見取り図を指した。
「だから関係がある、と?」
ローウェンの問いに、クラリスは首を横に振った。
「そこまでは言えません」
偶然かもしれない。
第三使節団とは何の関係もなく、今、この土地で起き始めた別の出来事かもしれない。
だからこそ、重ねて見る。
関係があると決めるためではない。
関係がないと決めてしまわないために。
クラリスは父の地図を少しだけ手前へ引いた。
「十五年前の場所を、もう一度見直したいです」
◇
二人は午前中いっぱいを、これまで集めた記録の整理に使った。
第三使節団については、王都を出てから現在まで、いくつもの証言が積み重なっている。
公式の日程にはなかった銀鹿亭。
現在の地図から消された旧王道。
三国の一行が別々に到着した集落。
そして、合同隊が西へ向かったこと。
クラリスはそれらを一つずつ父の地図へ戻していった。
「ここまでは確定しています」
「ええ」
ローウェンが隣から覗き込む。
クラリスは別紙に、現在までに異変を確認した地点を書き込んでいった。
正確な地図を作るつもりはない。
重要なのは位置関係だった。
十五年前の一行が進んだ地域。
自分たちが今いる地域。
その中で起きた三つの出来事。
作業を終えたクラリスは、しばらく黙って二枚を見ていた。
完全には重ならない。
当然だった。
十五年前の記録は旅の経路を示したものであり、父が立った場所を一歩単位で残したものではない。
現在の三地点についても、そこに十五年前の第三使節団が立ったという証拠はない。
「同じ場所、ではありませんね」
クラリスが言った。
「少なくとも、そう言える材料はありません」
ローウェンも即座に同意した。
それは重要だった。
現在の崩落地点を指して、十五年前にもここで何かが起きた、と言うことはできない。
鍛冶場も、坂道も同じだ。
十五年前に存在したかどうかさえ確認していない場所もある。
クラリスは一度、三つの印から目を離した。
「でも」
父の地図へ戻る。
第三使節団は、通常の外交使節が通るはずの行程を外れている。
しかも一国だけではない。
プレアリア、バルクの者たちと合流し、三国でさらに先へ進んだ。
何を確かめるためだったのか。
それは今も分からない。
「父たちは、何かを追って西へ行った」
「何かを確かめる必要があった。それ以上は、まだ言えません」
「はい」
クラリスは頷いた。
父たちが見たものと、今起きている現象。
その間に線を引くには、十五年という時間があまりにも長い。
けれど。
十五年前の事件を追ってきた先で、今まで誰も説明できなかった現象が起きている。
それも一度ではない。
クラリスはその事実だけを、手帳へ書いた。
『第三使節団の行程と現在の発生地点に、直接の一致は確認できない。』
そこで一行空ける。
『ただし、現在の異変は、十五年前の行程を追跡する過程で確認された。』
書いてから読み返した。
これなら、事実から外れていない。
◇
「十五年前にも起きていた可能性は?」
ローウェンの言葉に、クラリスはペンを止めた。
昼を過ぎ、宿の窓から差し込む光は机の反対側まで移っている。
「分かりません」
「ですよね」
「でも、考える必要はあると思います」
クラリスは第三使節団についてまとめてきた手帳を開いた。
十五年前の人々が、今の石工と同じものを見た。
そう書かれた記録はない。
宙で岩が止まったとも、鉄が勝手に熱を取り戻したとも、水が不自然な動きをしたとも聞いていない。
なら、同じ現象だったと決めることはできない。
一方で、第三使節団の行動そのものには、説明されていない部分が多すぎる。
なぜ予定経路を外れたのか。
なぜ三国が、それぞれ別に同じ集落へ集まったのか。
なぜ代表者たちは会談し、その後、一つの隊列になったのか。
そして。
なぜ、さらに西へ進んだのか。
「十五年前の人たちは、今の私たちより何かを知っていたんでしょうか」
クラリスが言う。
ローウェンは腕を組んだ。
「それも二つに分けた方がいいでしょうね」
「二つ?」
「何かを知っていたことと、それを理解していたことです」
クラリスは顔を上げた。
ローウェンは机上の地図を見る。
「例えば、変わった出来事を見た。奇妙なものを見つけた。だから確かめに行った。それだけでも、人は動きます」
「正体まで分かっている必要はない」
「ええ」
その考え方なら、十五年前の行動を必要以上に大きくしなくて済む。
第三使節団が世界の秘密を知っていた。
父がすべてを理解していた。
そんな話にする根拠は、どこにもない。
むしろ父の地図を見る限り、残されているのは水場や道の状態、人についての実務的な記録ばかりだ。
レオン・ヴァインは、分かったことを残す人だった。
少なくともクラリスには、そう思える。
「父が何かを知っていたなら、なぜ書かなかったのか」
思わず口にすると、ローウェンはすぐには答えなかった。
「書けなかったのかもしれません」
「あるいは」
クラリスは続けた。
「父自身にも、まだ分からなかった」
その方が、今の自分には理解できた。
クラリスも同じだ。
岩が止まるところを見た。
鉄が熱を取り戻すところを見た。
水の動きも見た。
それでも、何が起きているのか説明できない。
十五年前の父たちも、何かを見たからこそ先へ進んだのだとしたら。
彼らもまた、答えを持っていたのではなく。
答えを探していたのかもしれない。
クラリスは手帳へは書かなかった。
まだ、推測にすぎない。
ただ、その考えだけは頭の隅へ残した。
◇
午後、クラリスは一人で崩落地点まで歩いた。
ローウェンも同行しようとしたが、危険のない範囲までしか行かないと伝えると、宿でこれまでの記録を整理してくれることになった。
山道には、人の往来が戻っている。
石工たちが岩を削る音が遠くから響き、荷を背負った者が細い道を行き来していた。
数日前。
ここで岩が止まった。
今では崩落した岩の多くが片づけられ、あの時の切迫した空気は残っていない。
クラリスは、石工が立っていた辺りから少し離れた場所で足を止めた。
何も特別には見えない。
岩がある。
土がある。
風が通る。
人が働いている。
この場所を知らずに通れば、きっとそのまま歩き過ぎる。
クラリスは手帳を開いた。
今までなら、
『崩落地点』
とだけ書いただろう。
今日はその下へ、周囲の様子を書き足した。
岩肌。
道との距離。
作業場との位置関係。
何が重要なのかは分からない。
だから、重要かどうかを今決めない。
後で比較できるように残す。
書き終えたところで、クラリスは父の地図を取り出した。
開く。
十五年前の線が紙の上を西へ伸びている。
父がこの崩落地点へ立ったという印はない。
それを確かめてから、クラリスは少し安心した。
似ているからといって、同じにしてはいけない。
十五年前は十五年前。
今は今。
その二つを別々に残した上で、後から重なるところだけを見ればいい。
「父さんも、そうしていたのかな」
声に出してから、クラリスは苦笑した。
答える人はいない。
父の地図にも、そんな説明はない。
ただ。
そこにあるのは、父が分かった範囲だけを書いた地図だった。
クラリスは自分の手帳へ目を落とした。
なら、自分も同じようにすればいい。
分からないことを、分かったことにしない。
それでも、見たものは残す。
山から風が下りてきた。
頁がめくれそうになり、クラリスは手で押さえた。
その時、昨日の小石のことを思い出した。
同じ石工。
同じような石。
場所が変われば起きなかった。
戻ると、わずかな違いが現れた。
人だけでは足りない。
場所だけでも足りない。
では。
十五年前の人々が追っていたものも、人ではなく。
何かが起きる場所だったとしたら。
クラリスはそこで思考を止めた。
証拠がない。
だが、確かめる価値のある疑問にはなった。
◇
夕食の後、二人は再び机を挟んでいた。
クラリスが戻るまでに、ローウェンは十五年前の行程についての記録をまとめ直していた。
「どうでした?」
「普通の場所でした」
「それは昨日も聞きました」
「今日見ても普通でした」
ローウェンが笑う。
クラリスも椅子へ座り、手帳を開いた。
「でも、一つ考えました」
「何を?」
「第三使節団も、場所を調べていた可能性です」
ローウェンの表情から笑みが消えた。
クラリスはすぐ続けた。
「可能性だけです。父の地図にも、証言にも、そう書かれてはいません」
「なら、なぜそう思ったんです?」
「今の私たちがそうなったからです」
最初は人を見ていた。
石工が何者なのか。
鍛冶職人との共通点は何か。
子供まで含めて、三人に何が共通しているのか。
そこから経験へ移り。
今度は場所へ移った。
答えを知っていたからではない。
起きたことを一つずつ追った結果、見るものが増えただけだ。
「十五年前も、同じだったかもしれない」
クラリスは父の地図を指した。
「三国がそれぞれ何かを知った。そして、集まった。話し合った。その後、一緒に西へ向かった」
「ただし、何を知ったかは分からない」
「はい」
「今の現象を知っていたとも言えない」
「言えません」
ローウェンはしばらく黙った。
やがて、二枚の地図を見比べる。
「それでも、十五年前を追ってきた私たちが、今ここで説明できないものを見ている」
「三度も」
「そして一部は、場所によって起こりやすさが違うように見える」
クラリスは頷いた。
そこまでなら事実に近い。
その先は、まだ仮説だ。
けれど初めて。
十五年前の謎と、現在の異変の間に、同じ問いを置くことができた。
何が、この場所で起きているのか。
クラリスは新しい頁を開いた。
『第三使節団が現在と同じ現象を確認していた証拠はない。』
まず、それを書く。
続けた。
『ただし、彼らが何らかの異変・発見を追って西へ進んだ可能性は残る。』
さらに一行。
『現在確認している現象との関係は未確定。』
そこでペンを置いた。
ローウェンが頁を見る。
「ずいぶん否定の多い記録ですね」
「大事なところなので」
「でしょうね」
クラリスは昨日の記録へ戻った。
人の経験。
場所。
二つの条件らしきもの。
これまでの失敗も含めれば、次に確かめることはかなり絞られている。
「明日、もう一度お願いしてみます」
「誰に?」
「石工さんに」
ローウェンが眉を上げた。
「また嫌な顔をされますよ」
「覚悟しています」
「何をさせるんです?」
クラリスは答える前に、昨日記録した崩落地点へ指を置いた。
「一番起きやすそうな場所で」
次に、石工について書いた頁へ指を移す。
「一番よく知っている人に」
そして。
机の隅に置かれた小石を見る。
「もう一度、石を落としてもらいます」
何が起きるかは分からない。
何も起きないかもしれない。
それでも今度は、偶然を待つだけではなかった。
十五年前、父たちが何を追って西へ向かったのか。
その答えは、まだ遠い。
けれど。
父たちが追っていたものと、自分たちが今見ているものが、まったく別の出来事ではない可能性だけは。
初めて、クラリスの前に形を持ち始めていた。
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