第28話 場所
朝食の後も、クラリスは昨夜の二行を眺めていた。
『現象と、本人が繰り返し経験してきたものには関係がある可能性。』
『ただし、それだけでは再現しない。』
そこまでは分かった。
石工には石。
鍛冶職人には鉄と熱。
水汲みの子供には桶の中の水。
三人とも、自分が日々扱い、動き方をよく知るものに関わる時に異変が起きていた。
だが昨日、同じ三人に同じものを扱ってもらっても、何も起きなかった。
クラリスは手帳の頁を戻した。
最初の崩落。
鍛冶場。
坂道。
今度は人ではなく、出来事が起きた場所を拾っていく。
向かいに座っていたローウェンが、その様子を見ていた。
「今度は何を疑っているんです?」
「まだ疑っている、というほどではありません」
クラリスは最初の崩落について記した頁を指した。
「昨日、石工さんに小石を落としてもらいましたよね」
「ええ」
「何も起きなかった」
「そうですね」
「でも、あれは作業場でした」
ローウェンが少し考えた。
「最初に岩が止まった場所とは違う」
「はい」
崩落が起きたのは、山へ入った先だった。
その後の聞き取りや試行は、より安全な作業場へ移して行っている。
同じ人物。
同じような石。
それでも、場所は違った。
クラリスは手帳を閉じた。
「行ってみたいです」
「崩落した場所へ?」
「危険が残っていない範囲までで構いません」
ローウェンはすぐには答えなかった。
「石工にも来てもらうつもりですか」
「できれば」
「昨日、散々付き合わせましたよ」
「分かっています」
「今日も嫌な顔をされますね」
「それも分かっています」
ローウェンは小さく息を吐いた。
「では、せめて先に理由を説明しましょう」
クラリスは立ち上がった。
原因を突き止めたわけではない。
ただ一つの条件を外してみたら、何も起きなかった。
ならば、今度は戻してみる。
外交の交渉記録でも、複数の証言を照らし合わせる時でも、やることは同じだった。
違うところを探す。
そして、一つずつ確かめる。
◇
「また石を落とすのか」
石工は、予想通りの顔をした。
「はい」
「昨日やっただろ」
「昨日とは場所を変えたいんです」
それを聞くと、男の表情が少しだけ変わった。
「崩れたところか」
「危なくないところまでで構いません」
石工はしばらく考え、作業場の奥を見た。
「上は片づけた。崩れた岩も大きいのは動かしてある」
「では」
「ただし、俺が危ないと言ったら入るな」
「もちろんです」
三人は山側へ向かった。
数日前に通った道だった。
あの日は、人が岩の下敷きになりかけた。
石工が駆け込み、支えた。
そして、本来なら支えきれないはずの岩が数呼吸の間だけ止まった。
同じ道を歩いているのに、クラリスには景色が以前とは違って見えた。
岩。
土。
斜面。
木々。
あの時は崩落そのものに目を奪われていた。
今は、どこで起きたのかを見ている。
やがて石工が足を止めた。
「ここだ」
斜面の一部には、崩れた跡がまだ残っている。
大きな岩は撤去されていたが、地面には砕けた石が散らばり、岩肌の新しい断面が周囲より明るく見えた。
クラリスは足元を確かめながら近づいた。
「あなたが立っていたのは?」
石工が数歩進み、一か所を指した。
「だいたいこの辺だ」
「岩は?」
「上から来た。あそこにいた奴が動けなくなってた」
指された場所を見る。
思い出せる。
石工が身体を入れ、逃げ遅れた男を引き出そうとした。
岩が傾いた。
落ちるはずだった。
それが止まった。
クラリスは手帳を開き、位置関係を簡単に書いた。
「何してる」
「記録しています」
「今さらか」
「今までは、岩が止まったことを記録していました」
クラリスは顔を上げた。
「でも、どこで止まったかを詳しく残していませんでした」
石工は理解できないという顔をした。
無理もない。
クラリス自身、昨日までは場所を条件として考えていなかった。
男が足元の小石を蹴った。
「で、何をする」
「昨日と同じことをお願いします」
クラリスは小石を一つ拾った。
危険のない、小指の先ほどの石だった。
男へ渡す。
「これを落としてください」
石工は受け取り、肩をすくめた。
「何度やっても落ちるだけだ」
「それで構いません」
男が腕を下ろし、腰ほどの高さで手を開いた。
小石が落ちる。
乾いた音。
何も起きない。
「もう一度」
二度目。
同じだった。
三度目。
小石が男の指を離れた。
クラリスは、その落下を見ていた。
途中までは普通だった。
だが、地面へ届く直前。
ほんの一瞬だけ。
遅れた。
そう感じた。
小石はすぐ地面へ落ちた。
音も普通だった。
クラリスは動かなかった。
隣で、ローウェンも黙っている。
石工が二人を見た。
「今の」
クラリスが先に尋ねた。
「何かしましたか?」
「何もしてない」
「落ち方は?」
男は足元の石を見た。
「……妙だったな」
ローウェンがクラリスを見る。
「私もそう見えました」
大岩が止まった時とは比べものにならない。
見間違いと言われれば、それまでの変化だった。
それでも。
三人が同じ違和感を覚えた。
◇
その場で続ける前に、クラリスは一度止めた。
「場所を変えましょう」
石工が眉を寄せる。
「またか」
「同じことを、少し離れたところでやりたいんです」
三人は崩落跡から道を戻った。
まず十数歩ほど離れた場所。
地面の傾きに大きな違いがないところを選び、先ほどの小石を使う。
石工が落とす。
一度。
普通に落ちた。
二度。
普通だった。
三度。
四度。
変わらない。
さらに道を戻る。
今度は、昨日聞き取りをした作業場に近い場所まで移った。
同じ石。
同じ男。
ほぼ同じ高さ。
何度落としても、何も起きなかった。
石工が腕を組んだ。
「で?」
「もう一度、さっきの場所へ戻ってもらえますか」
「まだやるのか」
「あと少しだけ」
男は空を見上げた。
それから何も言わず、歩き始めた。
崩落跡へ戻る。
クラリスは先ほど石を落とした位置を手帳と照らして確かめた。
「ここです」
石工が小石を持つ。
一度目。
普通。
二度目。
普通。
三度目。
変わらない。
クラリスは自分の考えが外れた可能性を考えた。
一度だけの違和感。
それなら、まだ偶然で説明できる。
「もう一度だけお願いします」
石工は黙って手を開いた。
小石が落ちた。
今度はローウェンが息を呑んだ。
石は止まってはいない。
空中に浮いたわけでもない。
ただ落下の途中で、ほんのわずかに動きが鈍った。
紙の上を滑っていた指が、一瞬だけ引っかかるような。
それほど小さな変化だった。
それでも直後に地面へ落ちた石を、三人はしばらく見つめていた。
「さっきと同じですね」
ローウェンが言った。
クラリスは頷いた。
石工がしゃがみ、小石を拾い上げた。
表と裏を見る。
「石が変なのか?」
「その可能性もあります」
クラリスは答えた。
「でも、この石は離れた場所では普通に落ちました」
「なら、ここが変だって言うのか」
「まだ分かりません」
クラリスは即座に否定した。
場所が原因だと決めるには早すぎる。
地面の傾き。
風。
石の持ち方。
指を開くタイミング。
違いはいくらでもある。
けれど、一つだけ無視できないことがあった。
最初に大きな現象が起きた場所。
そこでだけ、同じ石工の小さな異常が二度観察された。
クラリスは手帳へ書いた。
『崩落地点付近。小石落下時、微小な遅れのような挙動を二度確認。』
続けて、
『同一人物・同一小石。離れた地点では確認できず。』
そこまで書いてから、最後に加えた。
『場所との関係は未確定。』
石工が覗き込む。
「ずいぶん慎重だな」
「慎重に書かないと、あとで事実と考えたことが分からなくなります」
「面倒な仕事だ」
クラリスは少し笑った。
「私もそう思います」
◇
午後、クラリスはもう一度現場へ戻った。
今度はローウェンと二人だった。
石工には仕事へ戻ってもらっている。
無理に何度も試させる必要はない。すでに比較できるだけのものは得られた。
クラリスは崩落地点の周囲を歩いた。
「何を探しているんです?」
「分かりません」
「潔いですね」
「分からないものを探しているんですから仕方ありません」
岩肌を見る。
地面を見る。
木々を見る。
何か特別なものがあるようには見えない。
祈りの場所でもない。
目立つ石碑もない。
特別な建物もない。
少なくとも、クラリスが見て分かる範囲では、ただの山道の一角だった。
「精霊のいる場所、という話に戻りますか」
ローウェンが言った。
クラリスは足を止めた。
この土地では山に精霊がいると語られている。
最初の崩落の後にも、精霊の御業ではないかという声が出た。
「戻る、というより」
クラリスは言葉を選んだ。
「候補から外せなくなった、でしょうか」
「ずいぶん弱い言い方ですね」
「精霊がいるから起きた、と証明できるものはありません」
「では、場所に何かある?」
「それもまだ同じです」
クラリスはしゃがみ、地面へ手を触れた。
乾いた土だった。
指先に石のざらつきが伝わる。
何も感じない。
「私には、普通の場所に見えます」
「私にもです」
二人はしばらく黙っていた。
やがてローウェンが言う。
「一つ、困ったことがありますね」
「何ですか」
「もし場所が重要なら、昨日の三人は別々の場所で起きています」
クラリスは顔を上げた。
石工はここ。
鍛冶職人は鍛冶場。
子供は町の坂道。
同じ一点ではない。
「そうですね」
場所という条件が見えたと思った途端、すぐに別の疑問が生まれた。
特別な場所が一つだけあるのではない。
少なくとも三か所で現象が起きている。
しかも起きた現象は、人によって違う。
クラリスは立ち上がった。
「では、場所だけでもない」
「人だけでもない」
「はい」
昨日見えたのは、人の側。
今日見え始めたのは、その人の外側。
どちらか一つでは説明できない。
クラリスは崩落地点を見渡した。
「人と、場所」
「その組み合わせですか」
「かもしれません」
そこで止める。
また断定しかけた。
三人しかいない。
場所について調べたのは、まだここだけだ。
「確かめる必要がありますね」
「鍛冶場と、あの坂道を?」
「はい。ただし、同じ現象を起こすためではありません」
クラリスは手帳を開いた。
「何が起きたかだけではなく、どこで起きたかを残します」
今までは出来事の背景だったものが、初めて調査対象になった。
◇
夕方、宿の机には一枚の紙が広げられていた。
正式な地図ではない。
クラリスが町とその周囲を簡単に描いたものだった。
宿。
作業場。
山道。
鍛冶場。
水汲みの子供が桶を落とした坂。
位置関係は大まかでしかない。
それでも、三つの印を置くには十分だった。
最初の印。
石工。
崩落地点。
二つ目。
鍛冶職人。
鍛冶場。
三つ目。
子供。
坂道。
ローウェンが横から覗き込んだ。
「事件の地図に見えますね」
「事件です」
「十五年前のではなく?」
クラリスの手が止まった。
机の端には、もう一つの地図が置かれていた。
父が残したもの。
十五年前に歩いた道と、水場や野営地、人々についての記録が書き込まれた地図。
ここへ来るまで、クラリスが追っていたのは、ほとんどそちらだった。
父がどこを歩いたのか。
第三使節団がどこを通ったのか。
十五年前に何があったのか。
けれど今、目の前には自分で描いた現在の地図がある。
「別の事件、でしょうか」
クラリスは呟いた。
「それとも、同じものを違うところから見ているのか」
ローウェンは答えなかった。
答えられるはずもない。
クラリスも今ここで結びつけるつもりはなかった。
十五年前の第三使節団が、こうした現象を見たという証拠はない。
父がこの場所を知っていたとも限らない。
今起きていることを、十五年前の謎へ無理に押し込めれば、見えるはずのものまで見えなくなる。
クラリスは自分で描いた地図へ視線を戻した。
「明日、三か所をもう一度確認します」
「現象が起きるか?」
「それもですが、まず場所そのものを」
風向き。
地面。
周囲の様子。
人の出入り。
何が意味を持つのかは分からない。
だからこそ、先に残しておく。
クラリスは三つの印の横へ、発生した日時と簡単な状況を書き加えた。
最後に、崩落地点だけを小さく囲む。
今日、小石の異常が再び確認された場所。
その隣へ一行記した。
『同じ人でも、場所によって結果が異なる可能性あり。』
書き終えてから、ペン先を止める。
さらに一行。
『地点を記録対象とする。』
ローウェンがその文字を読んだ。
「一つ増えましたね」
「何がです?」
「調べるものが」
クラリスは苦笑した。
「増えてばかりです」
十五年前の人々。
今を生きる人々。
その人たちが何を知っているか。
そして、今度は場所。
答えに近づいているのか、それとも問いを増やしているだけなのか、まだ分からない。
クラリスは父の地図と、自分で描いた小さな地図を並べた。
一方には、十五年前の旅が残っている。
もう一方には、今この瞬間に起きているものが残り始めている。
二つはまだ、つながっていない。
だからこそ。
明日から、確かめる必要があった。
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