第27話 その人が知っていること
翌朝、クラリスは昨夜の頁をもう一度開いた。
『三例。職業では説明できない。』
その一行の下には、まだ何も書かれていない。
窓から入る朝の光が机を斜めに照らし、三人について記した頁の端を白く浮かび上がらせていた。
石工。
鍛冶職人。
水を運んでいた子供。
年齢も違えば、仕事も違う。育った環境も、おそらく違う。
それなのに、石工の周囲では岩に、鍛冶職人の手元では鉄に、子供の桶では水に、説明のできないことが起きた。
「昨日までの聞き方が間違っていたのかもしれません」
向かいで朝食を取っていたローウェンが顔を上げた。
「どこがです?」
「私たちは二人目が出てから、何年その仕事をしているかばかり聞いていました」
「熟練者かどうかを確かめたかったからですね」
「はい。でも、それなら昨日の子供で終わりです」
クラリスは頁をめくった。
石工には、仕事を始めてから何年になるのかを聞いた。
鍛冶職人にも同じことを聞いた。
何歳で徒弟に入り、何年鉄を扱ってきたか。
それ自体が無意味だったとは思わない。ただ、そこから導いた「長い修練」が共通条件だという考えは、三人目によって崩れた。
ならば、同じ材料を別の方向から見直す必要がある。
「何者なのかではなくて」
クラリスは言った。
「何をしてきた人なのか、でしょうか」
ローウェンがパンを置いた。
「似ているようで、少し違いますね」
「石工だから、ではない。鍛冶職人だから、でもない。昨日の子は、そもそも職人ですらありません」
クラリスは三人分の記録を机の上へ並べた。
「それでも三人とも、起きた現象については、私たちよりずっとよく知っている」
「現象を?」
「いえ」
クラリスは首を横に振った。
「現象が起きた相手を、です」
石工は岩を知っていた。
鍛冶職人は鉄を知っていた。
子供は、水を知っていた。
もっと正確に言えば、その扱い方を知っていた。
「もう一度、三人に話を聞きたいです」
「同じ質問を?」
「いいえ。今度は仕事の年数ではなくて、その人が普段、何を見ているのかを」
ローウェンはしばらく考えてから頷いた。
「では、石工から行きましょう」
クラリスは手帳を閉じた。
昨日までは、人を分類しようとしていた。
職人か。
熟練者か。
何年続けているか。
けれど、知りたいのは肩書きではない。
その人の中に、何が積み重なっているのか。
まだ、それが何につながるのかは分からない。
それでも今は、その聞き方の方が正しいように思えた。
◇
石工は、昨日と同じ作業場にいた。
朝の山肌にはまだ冷たい影が残り、切り出された石の表面だけが早い陽を受けて白く光っている。
男はクラリスたちを見ると、手にしていた槌を下ろした。
「今度は何をやらせるんだ」
「今日は、やっていただく前に話を聞きたいんです」
「またか」
迷惑そうな声ではあったが、追い返されることはなかった。
クラリスは作業場の脇に積まれた石を見た。見たところでは、どれも似たような灰色の岩でしかない。
「この石と、あちらの石は違いますか?」
男が眉を寄せた。
「違うに決まってるだろ」
クラリスには分からない。
「どこがです?」
男は一つを指した。
「そっちは割りやすい。あっちは粘る」
「見ただけで?」
「見りゃ分かる」
答えになっていない。
そう思ったが、男にとっては本当にそれで十分なのだろう。
ローウェンが石の前へしゃがんだ。
「この辺りでしょうか」
細い亀裂を指す。
「それだけじゃない」
石工は近づき、表面を指でなぞった。
「筋がこっちへ走ってる。こっちから打てば割れるが、反対からやれば変なところへ逃げる」
「変なところへ?」
「割れ目がだよ」
男は当然のように言った。
クラリスは手帳を開いた。
「では、岩が落ちそうかどうかも、そういうところを見て?」
「それだけじゃ分からん」
石工は山側を見上げた。
「あれだけでかいものになれば、下も見る。どこで支えてるか、上に何が乗ってるか、昨日と音が違わないか。雨が降った後なら水も見る」
「音?」
「石は動けば鳴る」
「私には聞こえませんでした」
「だから俺が石工なんだろ」
もっともだった。
男は少し考え、それから足元の小石を拾った。
「これだって同じだ。投げりゃ落ちる。ぶつかりゃ転がる。角があれば止まりやすい。丸けりゃ走る」
手の中で石を転がしながら、何でもないことのように話す。
クラリスには、その言葉の一つ一つが昨日までとは違って聞こえた。
石工は石について学問的な説明をしているわけではない。
けれど、落ちることを知っている。
支えられることを知っている。
割れることを知っている。
滑り、転がり、止まることを知っている。
しかも、それを何千回、何万回と目にしてきた。
「崩れた時」
クラリスは慎重に尋ねた。
「あなたは、あの岩が落ちると分かっていたんですよね」
男の表情が少し硬くなった。
「分かってた」
「支えがもたないことも?」
「ああ」
「それでも人を助けに行った」
「それは関係ないだろ」
「すみません」
クラリスは頭を下げた。
聞きたいのは勇気の話ではない。
あの瞬間、男の頭の中には、これまで見続けてきた無数の岩の動きがあったのではないか。
どのように落ちるか。
何が支えられ、何が支えられないか。
クラリスはそこまで考えて、手を止めた。
まだ推測だ。
「もう一つだけ、お願いしてもいいですか?」
男は露骨に嫌そうな顔をした。
「危ないことは頼みません」
クラリスは足元にあった小石を指した。
「それを一度、落としてもらえますか」
「落とす?」
「いつものように。あなたが、落ち方をよく分かっている石で」
男はますます怪訝そうな顔をしたが、小石を持ち上げた。
指を開く。
石は地面へ落ちた。
乾いた音がした。
それだけだった。
「もう一度」
二度目。
同じ。
三度目も何も起きなかった。
男がクラリスを見る。
「これでいいか?」
「はい。ありがとうございます」
クラリスは手帳へ記した。
『石の挙動を詳細に知る。ただし意図した再現なし。』
知っている。
けれど、それだけでは起きない。
◇
鍛冶場へ入ると、熱気が顔を打った。
炉では炭が赤く燃え、槌の音が一定の間隔で響いている。
鍛冶職人は仕事の手を止めずに二人を迎えた。
「今日は石でも持ってきたのか」
昨日、石へ何かを起こせないか試してもらったことを言っているらしい。
「今日は鉄について教えてください」
「昨日も聞いただろ」
「昨日とは少し違います」
クラリスは炉の近くへ寄りすぎないよう距離を取った。
職人が火箸で鉄片を取り出す。
赤く焼けた鉄は、クラリスの目にも明らかに熱い。
「どのくらい熱いんですか?」
「どのくらい?」
鍛冶職人が困ったような顔をした。
「温度を数字で、という意味ではありません。あなたは、その鉄が今、叩ける状態かどうかをどうやって見分けていますか?」
男は鉄を見た。
「色だな」
「色だけ?」
「火から出した時間もある。厚さも違う。細いものならすぐ冷える」
鉄を金床へ置き、槌を振り下ろす。
甲高い音が鍛冶場に響く。
何度か叩いたところで、職人は手を止めた。
「もう駄目だ」
クラリスには、先ほどより赤みが弱くなった程度にしか見えない。
「なぜです?」
「冷えた」
「触らなくても分かる?」
職人が笑った。
「触ったら火傷するだろ」
「そうですね」
「色と、音と、叩いた時の返りだ。毎日やってりゃ分かる」
石工と同じだった。
説明しようとすれば言葉にはできる。
だが、おそらく男自身は一つ一つを考えて判断してはいない。
見れば分かる。
聞けば分かる。
手に返ってくる感触で分かる。
「昨日、鉄がもう一度熱くなった時」
クラリスが尋ねた。
「直前には何を考えていましたか?」
職人の顔から笑みが消えた。
「冷えたと思った」
「それだけですか?」
「叩くには遅いってな。だから炉へ戻そうとした」
「どの程度まで冷えていたか、分かっていました?」
「ああ」
「それが急に変わった」
「……そうだ」
クラリスは手帳へ書き込んだ。
石工は、落ちる岩を知っていた。
鍛冶職人は、冷えていく鉄を知っていた。
起きたことはまったく違う。
けれど、どちらも本人にとっては何度も見てきた現象だった。
「もう一度、お願いがあります」
鍛冶職人が嫌な顔をした。
「昨日みたいな無茶はしません」
「昨日も無茶じゃないと言ってたぞ」
「今日は、もっと簡単です」
クラリスは職人に、十分に冷えた小さな鉄片を用意してもらった。
火傷の心配がないことを確認し、それを台の上へ置く。
「これを見て、昨日のように熱くなるところを思い浮かべてもらえますか」
「思い浮かべる?」
「普段、鉄がどう熱くなり、どう冷えるのか。それをあなたは知っていますよね」
「知ってるが」
「それを意識してみてください」
職人は半信半疑のまま鉄片を見つめた。
しばらく待つ。
何も起きない。
男は鉄片を手に取った。
「冷たいままだ」
二度試しても、三度試しても同じだった。
クラリスは記した。
『鉄と熱の変化を詳細に知る。ただし意図した再現なし。』
石工と、同じ結果だった。
◇
水汲みの子供を見つけたのは、昼を少し過ぎてからだった。
昨日と同じ坂道を、同じ桶を持って歩いている。
クラリスが声をかけると、子供は一瞬だけ警戒した顔をした。
「今日は落としてないよ」
「落としに来たんじゃないの」
「じゃあ何?」
「ちょっとだけ、水のことを教えてほしいの」
子供は明らかに不思議そうだった。
近くには昨日の女もいた。クラリスが危険なことはさせないと説明すると、「仕事を邪魔しないなら」と許してくれた。
井戸の脇には空の桶がいくつか並んでいる。
クラリスは、子供が汲み上げた水を見た。
「昨日、坂では水を揺らさないようにできるって言ったでしょう」
「うん」
「どうやるの?」
「どうって……」
子供は困った。
それから桶を少し持ち上げ、歩いてみせた。
「いっぱい入ってる時は、最初にこうやって歩く」
歩幅が小さい。
「減ったら?」
「少し大きくても平気」
「坂では?」
「下りる時は急に止まらない」
「どうして?」
「こぼれるから」
当たり前のこととして返ってくる。
クラリスは桶を持たせてもらった。
思ったより重い。
慎重に数歩進むと、水面が揺れた。
慌てて足を止める。
その瞬間、揺れが大きくなり、水が縁から少しこぼれた。
子供が笑った。
「止まるからだよ」
「止まった方がこぼれないと思ったんだけど」
「揺れてる時に止まったら、こうなるよ」
子供は自分の桶を少し揺らし、水面の動きに合わせて足を運んだ。
揺れが次第に小さくなる。
「……上手ね」
「毎日やってるもん」
昨日も聞いた言葉だった。
けれど今は、その意味が違って聞こえる。
十歳前後の子供に、何十年という経験はない。
それでも、毎日同じ桶を持っている。
どのくらい入れれば重いのか。
歩けばどう揺れるのか。
止まればどう動くのか。
傾けばどちらへこぼれるのか。
本人は、それを説明するために覚えたわけではない。
こぼさず家へ運ぶために、身体で覚えた。
「昨日、水が飛び出した時」
クラリスは尋ねた。
「どうなると思った?」
「こぼれると思った」
昨日と同じ答えだった。
「どっちへ?」
子供は少し考え、道の下側を指した。
「こっち」
「どうして分かるの?」
「桶がこうなったから」
子供は手で傾きを示した。
クラリスはローウェンを見る。
彼も黙ってその動きを見ていた。
「少し試してもいい?」
空の桶をもう一つ借り、二つを並べる。
片方に少量の水を入れた。
「こっちの水を、あっちへ移してみて」
「普通に?」
「普通に。それから、昨日の水が戻った時みたいなことを、できると思ったらやってみて」
子供は首を傾げたが、水を移した。
ざあ、と水が弧を描き、もう一方の桶へ入る。
少しこぼれた。
二度目。
三度目。
何も起きない。
昨日のように、水が空中でまとまることはなかった。
「できないよ」
子供が言った。
「うん。それでいいの」
「何だったの、昨日の」
クラリスは答えられなかった。
「それを、私たちも調べているところなの」
子供はしばらくクラリスを見ていたが、やがて桶を持ち上げた。
「分かったら教えて」
「約束する」
子供は坂を歩いていった。
今度は水をほとんど揺らさない。
その後ろ姿を見送りながら、ローウェンが言った。
「職人ではありませんね」
「はい」
「でも、水については私たちより詳しい」
クラリスは頷いた。
「ずっと」
◇
三人分の記録を机へ並べると、昨日とは違う形が見えた。
石工。
岩がどこで支えられ、どの方向へ割れ、どのように落ちるかを知っている。
鍛冶職人。
鉄が熱によってどう変わり、どのように冷え、いつ叩くべきかを知っている。
子供。
桶の中の水が歩き方や傾きによってどう揺れ、どちらへこぼれるかを知っている。
クラリスは三つの記録を読み返した。
「熟練という言葉が間違っていたわけではないのかもしれません」
ローウェンが窓際から振り返った。
「というと?」
「石工と鍛冶職人には当てはまる。でも、言葉が狭すぎたんです」
「職業としての熟練ではない?」
「はい」
クラリスは子供の記録を指した。
「あの子は職人ではない。でも、水桶については私よりずっと多くのことを知っている」
「毎日やっているから」
「何度も見て、何度も失敗して、こぼして、持ち方を変えてきた」
ローウェンが机へ近づいた。
「つまり、年数ではなく経験」
クラリスはすぐには頷かなかった。
「そうかもしれません」
断定するにはまだ早い。
三人しかいない。
そして、三人すべてが違う現象を起こしている。
「でも、それなら一つ説明できます」
クラリスは石工と鍛冶職人の記録を開いた。
「石工に鉄を渡しても何も起きなかった。鍛冶職人に石を扱ってもらっても、何も起きなかった」
「知らないものだから?」
「少なくとも、普段扱っているものではありません」
石工は石について知っている。
だから石に関わる現象が起きた。
鍛冶職人は鉄と熱を知っている。
だから鉄に関わる現象が起きた。
子供は桶の中の水を知っている。
だから水に何かが起きた。
並べれば、確かに線は引ける。
しかし、クラリスは自分で引いたその線をじっと見た。
「……違いますね」
「何がです?」
「これだけなら、今日もう一度起きてもよかった」
石工には、よく知る小石を落としてもらった。
何も起きなかった。
鍛冶職人には、鉄が熱を帯びることを意識してもらった。
何も起きなかった。
子供にも、普段から扱っている水を使って試してもらった。
何も起きなかった。
三人とも、昨日までより自分が何をしているか分かった状態だった。
それでも再現しなかった。
ローウェンが椅子へ座った。
「経験だけでは足りない」
「はい」
クラリスは新しい頁を開いた。
そこへ、ゆっくりと書く。
『現象と、本人が繰り返し経験してきたものには関係がある可能性。』
一度、ペンを止める。
そして、その下に続けた。
『ただし、それだけでは再現しない。』
二行を見比べる。
一つ分かったと思えば、すぐその先に分からないものが現れる。
けれど、今回は後退したとは思わなかった。
石工だから起きたのではない。
鍛冶職人だからでもない。
子供だからでもない。
少なくとも、肩書きや年齢より、その人が何を見て、何を繰り返し経験してきたのかを調べる方が、現象へ近づける。
クラリスは三人の頁を閉じた。
「人の側には、何かありそうです」
「でも、それだけではない」
ローウェンが言った。
「ええ」
何が足りないのかは、まだ分からない。
気持ちなのか。
偶然なのか。
何か別の条件なのか。
今は決められない。
クラリスは窓の外へ目を向けた。
夕方の山肌には長い影が落ち、石工たちの作業場が小さく見えている。
あそこで最初の出来事が起きた。
昨日とは違い、今のクラリスには石工という「人」だけではなく、もう一つ見るべきものがあるように思えた。
だが、それが何なのかを言葉にできるほどの材料は、まだない。
手帳の最後には、二行だけが残った。
その人が何を知っているか。
それだけでは、足りない。
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