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異世界外交官クラリス ~魔法が無い世界で魔法が生まれる瞬間に立ち会ってしまいました~  作者: 飯山知 春。


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第26話 水桶

翌朝、クラリスは宿の食堂で手帳を開いていた。


窓の外では、山の朝がゆっくりと明るくなっている。斜面に並ぶ石造りの家々にはまだ長い影が残り、通りを行く人の姿もまばらだった。


向かいでは、ローウェンが薄いパンをちぎっている。


クラリスは昨夜書いた頁を読み返した。


石工。

鍛冶職人。


一人は、落ちるはずだった岩を数秒だけ支えた。

もう一人は、冷え始めていた鉄を再び熱した。


二人に同じことをさせようとしても、何も起こらなかった。石工は鉄を熱することができず、鍛冶職人は石に何の変化も起こせなかった。


共通しているのは、長い年月をかけて一つの仕事を続けてきたこと。


「熟練、ですか」


クラリスが呟くと、ローウェンはパンを口へ運ぶ手を止めた。


「まだ、それしかありませんね」


「石工は石を知っている。鍛冶職人は鉄と火を知っている」


「それぞれ、自分が長く扱ってきたものにだけ何かが起きた」


クラリスは手帳へ視線を戻した。


昨日までなら、偶然という言葉をまだ残せた。


一人なら、見間違いかもしれない。

二人なら、別々の理由で起きた出来事かもしれない。


だが、似た構造を持つ二つの現象が続いた。


だからといって、二人を結ぶ線を急いで答えにしていいわけではない。


「三人目が欲しいですね」


ローウェンが言った。


クラリスは顔を上げた。


「そんな、調査資料みたいに言わないでください」


「調査資料でしょう」


「人ですよ」


「だから困るんです」


ローウェンは平然と答え、残っていたパンを口へ入れた。


クラリスは小さく息を吐いた。


その通りだった。


現象だけを見れば、もう一例あれば比較できる。


けれど、何が起きるのか分からない以上、誰かに試してもらうわけにはいかない。石工の時には人が死にかけ、鍛冶職人の時でさえ、本人は何が起きたのか理解していなかった。


起きるのを待つしかない。


しかも、起きない方がいいことを。


クラリスは手帳を閉じた。


「今日は、昨日聞けなかった人たちを回ります」


「第三使節団の方を?」


「はい。私たちの仕事は、そちらですから」


ローウェンがわずかに笑った。


「安心しました」


「何がですか」


「あなたが、変な現象を追いかける人になっていなくて」


クラリスは答えず、手帳を鞄へしまった。


否定できなかったからだ。


気になっている。


十五年前の父たちを追ってここまで来たのに、今、この土地では父の地図にも記録にもないことが起きている。


それを見なかったことにはできなかった。



午前の聞き取りを終えた頃には、通りにも人が増えていた。


山あいの町では、平地の宿場町とは人の動く時間が少し違う。朝早く山へ入った者が戻り始める一方で、これから作業場へ向かう者もいる。荷を背負った人々が坂を行き交い、石を積んだ小さな荷車が軋みながら通り過ぎていった。


クラリスは聞き取りの内容を歩きながら頭の中で整理していた。


十五年前の旅人について、新しい証言はなかった。


覚えている者がいても、人数や服装は曖昧で、父の地図に残された記録以上のことは分からない。


ローウェンが隣を歩きながら言った。


「一度、宿へ戻りますか」


「そうですね。午前の分だけでも整理して――」


言葉の途中で、前方から声がした。


「危ない!」


クラリスは顔を上げた。


坂の上から子供が下りてくる。


十歳くらいだろうか。両手に木の桶を持ち、その片方には水がなみなみと入っていた。


声をかけたのは、荷車を押していた男だった。


道の端から別の荷車が出てきたため、子供が慌てて避けた。


足が石に引っかかる。


体が傾いた。


右手の桶が手から離れた。


「あっ」


桶が地面へ落ちる。


水が大きく跳ね上がった。


クラリスは反射的に一歩踏み出した。


子供も同時に手を伸ばす。


転がりかけた桶の取っ手を掴み、慌てて起こした。


その時だった。


空中へ飛び出した水が、崩れなかった。


クラリスには、そう見えた。


普通なら地面へ散るはずの水が、一瞬だけ、ひとまとまりのまま空中に残った。


長くはない。


瞬きをするほどの時間だった。


子供が起こした桶の上へ、その水が落ちる。


ばしゃり、と音がした。


桶の中で水面が大きく揺れた。


通りの人々が足を止めていた。


子供自身も、桶を両手で持ったまま動かなかった。


地面には水がこぼれている。


だが、あれだけ大きく桶が傾いたにしては、濡れた範囲が狭い。


クラリスは隣を見た。


ローウェンも、子供ではなく桶を見ていた。


「見ましたか」


クラリスが小声で尋ねた。


「はい」


それだけで十分だった。


見間違いではない。


少なくとも、二人が同じものを見ている。



「怪我はありませんか」


クラリスが声をかけると、子供はようやく顔を上げた。


「……ない」


驚きの方が大きいらしい。


クラリスはしゃがみ、子供と目の高さを近づけた。


「桶を見てもいい?」


子供は少し迷ってから頷いた。


桶には特別なところはなかった。厚い木板を箍で留めた、ごく普通の水桶だ。底にも側面にも、目立つ傷や細工はない。


クラリスは水面を見た。


すでに何の変化もない。


「今の、どうやったの?」


子供が先に尋ねた。


「え?」


「水。戻った」


クラリスはローウェンを見た。


ローウェンはわずかに首を横へ振った。


「私たちにも分からないの」


そう答えると、子供は困った顔で桶を覗き込んだ。


近くにいた女が歩み寄ってきた。


「何してるんだい。早く持っておいで」


どうやら家族らしい。


クラリスは立ち上がった。


「すみません。この子は、いつも水を運んでいるんですか?」


女は怪訝そうな顔をしたが、クラリスの服装と、その少し後ろに立つローウェンを見て答えた。


「毎日だよ。朝と昼。井戸から家までね」


「いつ頃から?」


「いつ頃って……」


女は子供を見た。


「もう何年かになるだろう?」


子供が頷く。


「桶はいつもこれ?」


「うん」


クラリスはもう一度、桶へ目を落とした。


「重くない?」


「重いよ」


「こぼすことは?」


「前はいっぱいこぼした」


「今は?」


子供は少し胸を張った。


「坂のところで揺らさないようにできる」


女が笑った。


「できるって言っても、さっき落としたじゃないか」


「荷車が来たからだよ」


「はいはい」


二人のやり取りを聞きながら、クラリスは手帳を取り出しかけて、やめた。


まず本人の前で何でも記録する癖は、時として人を身構えさせる。


「もう一つだけ。さっき、水が戻ると思った?」


子供はしばらく考えた。


「こぼれる、と思った」


「戻れって思った?」


「……分かんない」


クラリスは頷いた。


それ以上は尋ねなかった。


「ありがとう。引き止めてごめんなさい」


子供は桶を持ち直し、女と一緒に坂を下っていった。


しばらくして、ローウェンが言った。


「十歳くらいですね」


「そのくらいでしょうね」


「熟練の水運び職人には見えませんでした」


クラリスは彼を見た。


「そういう職業があるかどうかも知りませんけど」


「少なくとも、長年の職人ではない」


今度は、クラリスも返す言葉がなかった。



宿へ戻ると、クラリスはすぐに手帳を開いた。


午前中の第三使節団に関する聞き取りとは別の頁を使う。


『三例目。子供。十歳前後。』


そこまで書いて、ペン先を止めた。


石工。

鍛冶職人。

子供。


並べてみれば、違いの方が多い。


年齢も違う。

仕事も違う。

立場も違う。


少なくとも、長年一つの職業を続けた者だけに起きる、という考えはこれで崩れた。


「熟練者ではない」


クラリスが言うと、窓際にいたローウェンが振り返った。


「ええ」


「では、何でしょう」


「それが分かれば苦労しません」


クラリスは少し睨んだが、ローウェンは気にせず向かいの椅子へ座った。


「ただ、何も積み重ねていないわけではありません」


クラリスのペンが止まる。


「毎日、水を運んでいる」


「本人が言っていました。坂では揺らさないようにできる、と」


クラリスは先ほどの子供を思い出した。


小さな体で桶を持ち、坂を下りていた。


重さを知っている。

歩けば水が揺れることを知っている。

傾ければこぼれることも知っている。


それは鍛冶職人の何十年という仕事とは比べものにならない。


けれど、本人にとっては何度も繰り返してきた日常だった。


クラリスは手帳へ書き加えた。


『日常的に水汲み。桶の重さ、揺れ、こぼれ方に慣れている。』


書いてから、前の二人の記録を開く。


石工は岩を見ていた。


表面の亀裂だけではない。重さや傾き、どこへ力がかかっているのかを、長年の経験から判断していた。


鍛冶職人は鉄の色を見ていた。


熱し方、冷え方、叩く時機。本人にとっては、考えるより先に身体が動くほど繰り返してきた仕事だった。


そして今日の子供は、水を運んでいた。


「職業じゃない」


クラリスは呟いた。


ローウェンは答えなかった。


「でも、まだ分かりません」


クラリスは自分で続けた。


三人とも、よく知っているものに関わる時に現象が起きた。


そう見える。


だが三例しかない。


しかも、石工と鍛冶職人には再現できなかった。子供にも、もう一度やらせる理由はない。


「仮説にも早いですね」


「ええ」


ローウェンは頷いた。


「今は、共通して見える点が一つ増えただけです」


クラリスはその言葉を手帳へ書いた。


答えではない。


けれど、昨日まで答えに見えかけていたものが、一つ消えた。


それだけでも前進だった。



夕方、クラリスは一人で宿の裏手へ出た。


石造りの水槽があり、山から引かれた水が細い樋を伝って流れ込んでいる。昼間の子供が使っていた井戸とは別のものだったが、絶えず落ちる水の音を聞いていると、どうしてもあの瞬間を思い出した。


桶が落ちた。


水が飛び出した。


そして、一瞬だけ散らなかった。


クラリスは水槽の縁へ手を置いた。


冷たい。


それだけだった。


もちろん、何かが起きるとは思っていない。


石工の時も、鍛冶職人の時も、本人たちは起こそうとして起こしたわけではなかった。


「何してるんですか」


背後から声がして、クラリスは振り返った。


ローウェンが立っていた。


「水を見ています」


「それは見れば分かります」


「では、聞かないでください」


ローウェンは隣まで来ると、水槽を覗き込んだ。


二人でしばらく流れる水を見た。


「石工は石」


クラリスが言った。


「鍛冶職人は鉄と熱」


「今日の子は水」


ローウェンが続ける。


クラリスは頷いた。


「三人とも違う」


「ええ」


「年齢も、仕事も、暮らし方も」


「そうですね」


「それなのに、自分が普段からよく触れているものに関わる時だけ、何かが起きたように見える」


ローウェンはすぐには答えなかった。


やがて水槽から目を離し、山の方を見た。


「見える、というところまでにしておきましょう」


「分かっています」


クラリスは手帳を開いた。


今日の頁の最後に、一行だけ書く。


『三例。職業では説明できない。』


そこまで書いて、少し考えた。


石工は何十年も岩と向き合ってきた。

鍛冶職人も何十年も鉄と火を扱ってきた。


けれど、今日の子供には、そんな年月はない。


あるのは毎日の水汲みだけだ。


同じなのは、長く生きたことでも、職人であることでもない。


では、何なのか。


クラリスはペンを置いた。


答えはまだ書かなかった。


書けるだけのものを、まだ自分は知らない。


水槽へ落ち続ける水が、夕暮れの静かな中庭に同じ音を繰り返していた。

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