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異世界外交官クラリス ~魔法が無い世界で魔法が生まれる瞬間に立ち会ってしまいました~  作者: 飯山知 春。


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第25話 二人目

楔の赤みが消えてからも、鍛冶場では誰もすぐには動かなかった。


炉の中では炭が燃え、時折、小さく爆ぜる音がする。


つい先ほどまでなら、それだけで満たされていたはずの場所だった。


クラリスは手帳へ書いた一文を読み返した。


『炉から離れ、冷え始めていた鉄が、再び熱を帯びた。』


その下には何もない。


原因も、その現象と鍛冶職人がどう関わっているのかも、昨日の岩との関係も、まだ書けなかった。


「もう冷えてるぞ」


石工の一人が言った。


鍛冶職人は金床の上に置いた楔へ手を近づけ、今度は慎重に指先で触れた。


「普通だ」


持ち上げて眺める。


鉄はもう赤くない。見慣れた黒い楔へ戻っていた。


ローウェンが尋ねた。


「先ほどと同じことを、もう一度できますか」


鍛冶職人が彼を見る。


「何をすればいい」


「それが分からないので、先ほどしていた作業を繰り返せる範囲でお願いします」


職人は不満そうに眉を寄せたものの、拒みはしなかった。


楔を炉へ入れる。


熱する。


取り出す。


金床へ置き、槌を振るう。


甲高い音が何度か響いた。


先ほどまで続けていた、ごく普通の仕事だった。


やがて鉄の赤みが薄れてくる。


職人は槌を止めた。


「このくらいだったか」


「たぶん」


クラリスが答える。


同じ楔。


同じ炉。


同じ金床。


そして同じ職人だった。


しばらく待つ。


鉄はゆっくり暗くなっていった。


何も起きない。


「もう一度、炉へ戻そうと思ってみてください」


クラリスが言う。


「思うだけか」


「先ほども、冷えたから戻そうと思ったんですよね」


「ああ。それだけだ」


職人は楔を見つめた。


数秒が過ぎる。


さらに待つ。


赤みは戻らない。


「だめだな」


職人が言った。


落胆というより、自分でも何を期待していたのか分からないような声だった。


「さっきは何だったんだ」


誰も答えられなかった。


クラリスは手帳へ書き加える。


『同一人物・同一の鉄・同一作業による再現を試みる。変化なし。』


昨日の石工と同じだった。


一度起きた。


もう一度やろうとしても、起きない。


ただし今度は、二人目がいる。


一度きりの奇妙な出来事として片づけるには、状況が変わっていた。



クラリスは鍛冶場の壁際へ移り、二人の男を見比べた。


一人は岩を扱う石工。


もう一人は鉄を扱う鍛冶職人。


体格も違えば、使う道具も違う。


石工の手には細かな傷が多く、指先は厚い。鍛冶職人の腕には火のそばで働き続けた痕跡があり、手の甲には古い火傷の跡が残っていた。


「お二人とも、この仕事は長いんですよね」


石工が先に答えた。


「長いと言われてもな」


「若い頃から?」


「ああ」


鍛冶職人も頷く。


「俺もだ」


「どのくらいですか」


石工は少し考えた。


「数えたことはない」


鍛冶職人が鼻で笑った。


「さっき俺にも聞いてたな」


「二人とも同じ答えなんですね」


「仕事の年数なんか数えてどうする」


石工が言った。


クラリスは手帳を開く。


「昨日、あなたの近くで起きたのは岩に関係することでした」


石工を見る。


次に、鍛冶職人へ視線を移す。


「今日は、あなたが扱っていた鉄に変化が起きました」


「それが?」


「お二人とも、長い間扱い続けてきたものです」


鍛冶職人が金床へ目を落とす。


ローウェンが口を開いた。


「偶然かもしれません」


「はい」


クラリスは頷いた。


「二人しかいませんから」


昨日までは一例しかなかった。


岩が止まった。


それだけなら、たまたま説明できない崩れ方をした可能性を完全には捨てられなかった。


だが今日は、冷えかけた鉄が再び熱を帯びた。


違う場所。


違う人間。


違う現象。


それでも、目につく共通点が一つある。


「腕のいい職人だからってことか?」


近くで聞いていた石工の一人が言った。


クラリスは少し迷ってから答えた。


「可能性の一つにはできます。でも、まだそれだけです」


「二人ともそうなんだろ」


「そう見えます」


「なら――」


「二人しかいません」


クラリスが重ねると、男は口を閉じた。


二人しかいない。


それは自分自身にも言い聞かせておく必要があった。


クラリスは新しい頁へ書く。


『共通点候補――長期間にわたり特定の仕事に従事。』


少し考え、その前に小さく書き足した。


『仮説』


まだ答えではない。



「じゃあ、俺も鉄を熱くできるのか?」


石工が言った。


鍛冶職人が顔を上げる。


「やめろ。炉に手を突っ込む気か」


「そういう意味じゃない」


「ならどういう意味だ」


石工はクラリスを見る。


「こいつに起きたことが俺にも起きるか、試せるだろ」


クラリスも同じことを考えていた。


危険なことをする必要はない。


鍛冶職人が、火にも炉にも触れていない鉄片を一本選び、金床の上へ置いた。


「これならいいだろ」


「熱くなったら触らないでくださいね」


「熱くなればな」


石工が鉄片の前へ立つ。


「で、どうすればいい」


「分かりません」


「またそれか」


「鍛冶職人さんの時は、冷えた鉄をもう一度熱くしたいと思っていたそうです」


石工は鉄片を睨む。


「熱くなれ」


何も起きなかった。


しばらく待ってから手を近づける。


冷たいままだ。


「もういいか」


「はい」


クラリスは記録した。


今度は石工が、床に落ちていた掌ほどの石を拾った。


「次はこいつだな」


鍛冶職人へ差し出す。


「俺が?」


「俺に鉄をやらせたんだ。お前もやれ」


鍛冶職人は嫌そうな顔をしたが、石を受け取った。


昨日の崩落をそのまま再現することはできない。


するべきでもない。


だが、この大きさなら危険はなかった。


石工は低い木箱を指した。


「そこから落としてみるか」


箱の上から床までは数寸ほどしかない。


クラリスも頷いた。


鍛冶職人が石を箱の端へ置く。


「落ちるのを止めればいいのか?」


石工が肩をすくめる。


「俺だって昨日は何をしたのか知らん」


職人が指先で石を押した。


石は落ちた。


こつん、と乾いた音を立てて床へ転がる。


何も起きない。


もう一度。


今度は石工が落とし、鍛冶職人が腕を伸ばして見つめる。


石はそのまま床へ落ちた。


三度目も同じだった。


「俺は石屋じゃない」


鍛冶職人が言う。


石工が鼻を鳴らした。


「俺だって鍛冶屋じゃない」


周囲から笑いが漏れた。


クラリスは二人を見た。


二人に起きていることを、同じ一つの力だと考える必要はないのかもしれない。


いや。


それもまだ早い。


「ローウェンさん」


「はい」


「二人に起きたことが同じ仕組みだとしても、同じことができるとは限らないんでしょうか」


「今の二例だけなら、どちらとも言えませんね」


「そうですよね」


クラリスは手帳へ書いた。


『石工による鉄の加熱――確認できず。』


『鍛冶職人による落下する石への干渉――確認できず。』


同じことは起きなかった。


今は、それだけを残せばよかった。



鍛冶職人は仕事へ戻り、石工たちも修理を頼む楔の整理を始めた。


クラリスとローウェンは鍛冶場の外へ出た。


陽は山の向こうへ傾き、昼間より風が冷たくなっている。


クラリスは入口脇の木箱へ腰を下ろし、手帳を膝に開いた。


一頁を縦に二つへ分ける。


左に石工。


右に鍛冶職人。


「並べるんですか」


ローウェンが尋ねる。


「その方が見やすいので」


左へ書く。


『長年、岩を扱う』


右へ、


『長年、鉄・火・熱を扱う』


次の行。


『岩の崩落時』


『鉄の加工時』


さらに、


『岩が一時的に保持された』


『冷え始めた鉄が再び熱を帯びた』


クラリスはペンを止めた。


「共通点より、違うところの方が多いですね」


「そうですね」


一方は山。


一方は鍛冶場。


一方は人命の危機。


一方は普段の仕事。


一方は岩。


一方は鉄と熱。


クラリスは表を眺めた。


「それでも、二人とも自分の仕事に関係するところで起きている」


「今のところは」


ローウェンの言い方に、クラリスは顔を上げた。


「今のところ」


「大切でしょう?」


「はい」


クラリスは表の下へ書いた。


『仮説――長年の仕事・経験が関係する可能性。』


もう一行。


『起きる現象と本人の経験に関係がある可能性。』


書いてから、しばらく眺める。


「これも早いでしょうか」


「仮説であることを忘れなければ」


「石工さんが、岩にしか関わらないとも分からない」


「鍛冶職人が鉄しか扱えないとも分かりません」


「そもそも二人に起きたものが同じものなのかも、まだ分からない」


ローウェンが頷く。


クラリスは手帳の余白へ、小さく書き加えた。


『二例のみ。』


たった四文字だった。


けれど今は、それが一番大切な注意書きに思えた。



夕食を終えた後も、クラリスは手帳を開いていた。


この日は鍛冶場の近くで夜を越す。


崩落した道はまだ通れず、石工たちが安全を確認するまでは西へ進めない。


火の向こうではローウェンが湯を沸かしていた。


クラリスは昼間に作った表をもう一度見る。


石工。


鍛冶職人。


二人とも、若い頃から一つの仕事を続けてきた。


そして、それぞれが長く触れてきたものの近くで、説明できない現象が起きた。


「熟練者……」


クラリスが呟く。


ローウェンが顔を上げた。


「もう名前を付けるんですか」


昨日交わした会話を思い出し、クラリスは苦笑した。


「危ないですね」


「何がです?」


「名前を付けると、それだけで分かった気になるので」


ローウェンは湯を器へ注いだ。


「では、『熟練者かもしれない』くらいにしておきますか」


「それなら手帳には書けます」


「報告書には?」


「もう少し人を増やしてからです」


器を受け取り、両手で包む。


温かさが指へ伝わった。


「他の人でも確かめたいです」


「石工でも鍛冶職人でもない、長く仕事を続けている人を?」


「はい」


「何も起きなければ?」


「それも記録します」


「何人試しても起きなければ?」


クラリスは少し考えた。


「少なくとも、熟練していれば起きる、とは言えなくなります」


「逆に別の熟練者にも起きれば?」


「少しだけ、この仮説が強くなります」


ローウェンが火へ枝を足した。


クラリスは手帳の最後へ一行を書く。


『現時点の共通点――両名とも長年、一つの仕事を続けている。』


その下に、


『ただし二例のみ。条件とは断定できない。』


と続けた。


父の足跡だけを追っていた時とは、調べているものが変わり始めている。


過去の事件には、残された記録や証言があった。


今起きていることには、それがない。


誰かが記録しなければ残らない。


比べなければ、共通点も違いも見えない。


そして、間違っていれば捨てなければならない。


クラリスはペンを置いた。


「明日は忙しくなりそうですね」


ローウェンが言う。


「はい」


「長く何かを続けている人を見つけるたびに質問するんでしょう」


「嫌われそうです」


「もう慣れたのでは?」


「慣れたくはないです」


二人の間に小さな笑いが落ちた。


やがて会話が途切れる。


クラリスは暗い山の方角を見た。


一人目は石工。


二人目は鍛冶職人。


同じことはできなかった。


それでも今のところ、二人には一つの共通点がある。


長い時間をかけ、一つのことを積み重ねてきたこと。


次に起きるのも、同じような人なのだろうか。


それを確かめるまでは、この仮説を答えにするわけにはいかなかった。

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