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異世界外交官クラリス ~魔法が無い世界で魔法が生まれる瞬間に立ち会ってしまいました~  作者: 飯山知 春。


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第3話 迫る期限

局長室には、静かな緊張が漂っていた。


エリアスは机の上の封書を見つめる。


赤い封蝋には、プレアリア大ハン国の紋章が刻まれていた。


「届きましたか。」


ローウェンが静かに問う。


「ええ。」


エリアスは封を切り、文面へ目を通す。


部屋に、紙をめくる音だけが響いた。


やがてエリアスは書状を閉じ、二人へ視線を向ける。


「プレアリアからの正式な照会です。」


その一言で、クラリスの表情が引き締まる。


「向こうも、使節団が到着していないことを確認しました。」


局長室が静まり返る。


予想していたことだった。


それでも、実際に知らされると重みが違う。


エリアスは書状をローウェンへ差し出した。


ローウェンは目を通し、静かに頷く。


「延期の理由について、正式な説明を求めています。」


「まだ抗議ではありません。」


エリアスは穏やかに言った。


「ですが、回答を待っています。」


クラリスは書状へ目を落とした。


使節団は目的地へ到着していない。



それだけが、確かな事実だった。



エリアスはゆっくりと言う。


「現時点で分かっていることは、それだけです。」


「文書がすり替えられたとも。」


「内部に協力者がいるとも。」


「まだ断定はできません。」


クラリスは小さく頷いた。


昨日見つけた違和感も、あくまで違和感に過ぎない。


事実ではない。


「だからこそ。」


エリアスは静かに続ける。


「推測ではなく、事実を積み重ねます。」


その時、クラリスは改めて思った。


この調査は、答えを探すことではない。


まず、事実を集めることから始まるのだと。



国と国とを結ぶ一本の糸が、静かに軋み始めていた。



局長室には、重い静寂が流れていた。


ローウェンは受け取った書状を閉じ、机の上へ静かに置く。


「……プレアリア側も、使節団が到着していないことを確認したわけですね。」


「ええ。」


エリアスは頷いた。


「これで双方の認識は一致しました。」


「使節団は、目的地へ到着していない。」


「そして、その所在も分からない。」


クラリスは無意識に息を呑む。


昨日までは、一つの可能性だった。


今日、その可能性は現実になった。


エリアスは机の上の地図へ視線を落とす。


「問題は、この事実そのものではありません。」


「この事実が、どう受け取られるかです。」


クラリスは顔を上げた。


エリアスは続ける。


「和平会談には、多くの者が期待しています。」


「ですが、その一方で、快く思わない者もいます。」


ローウェンが口を開いた。


「和平によって利益を失う者たちですね。」


「その通りです。」


エリアスは静かに答えた。



「もし使節団失踪の話が広まれば。」


「和平そのものに疑念を抱かせるには十分でしょう。」


クラリスは地図を見つめる。


たった十人の行方が分からない。


それだけの出来事が、国全体を揺るがすことになる。


「ですから。」


エリアスは二人を見渡した。


「今、私たちに必要なのは犯人探しではありません。」


「まずは、事実を確認すること。」


「何が起きたのか。」


「どこまで分かっていて。」


「どこから先が分からないのか。」


「それを明確にしなければなりません。」


その言葉に、クラリスは静かに頷いた。


推測ではなく、事実。


それが、この調査の出発点になる。



エリアスは書状へ手を添える。


「もう一つ、忘れてはならないことがあります。」


「時間です。」


局長室の空気が、わずかに張り詰めた。


「プレアリアは、今は説明を求めているだけです。」


「ですが、それは永遠ではありません。」


「返答が遅れれば、王国としての意思を疑われます。」


ローウェンが静かに言う。


「残された時間は。」


「数日。」


エリアスは短く答えた。


「それまでに、少なくとも現状を説明できるだけの事実を集めなければなりません。」



数日。


その短い言葉が、クラリスの胸に重く響く。


外交とは、何年もかけて信頼を築く仕事だ。


けれど。


その信頼は、ほんの数日で揺らぐこともある。


クラリスは初めて実感した。


この事件は、誰か一人の失踪事件ではない。


王国の未来を左右する調査なのだと。



エリアスは静かに書状を閉じた。


局長室に、再び静寂が戻る。


誰もすぐには口を開かなかった。


やがてエリアスは、二人をゆっくりと見渡した。


「ここからは、調査について話します。」


クラリスは自然と背筋を伸ばいた。


「今回の件は、外交局だけでなく王国全体に関わる問題です。」


「そのため、大規模な調査は行いません。」


クラリスは少し意外そうな表情を浮かべた。


エリアスはその様子に気づき、小さく頷く。


「人が増えれば、それだけ情報も漏れます。」


「噂は、事実よりも速く広がるものです。」


先ほど聞いた言葉が、クラリスの胸によみがえる。


――真実が届くより早く、噂が国境を越える。


「ですから、調査に関わる者は最小限に留めます。」


ローウェンが静かに尋ねた。


「人選は、すでに。」


「決めています。」


エリアスは迷いなく答えた。


「責任者は、ローウェン課長。」


「承知しました。」


短い返答だった。


その声に迷いはない。


エリアスは続ける。


「そして、補佐をクラリスへ任せます。」



クラリスは思わず顔を上げた。


「……私ですか。」


「ええ。」


穏やかな返事だった。


しかし、その決定を覆す余地は感じられない。


「文書の照合。」


「記録の確認。」


「証言の整理。」


「あなたの観察力は、この調査に必要です。」


クラリスは言葉を探した。


「ですが、私より経験のある方が……。」


「もちろんいます。」


エリアスは即座に答えた。


「経験なら、あなたより優れた職員は何人もいます。」


クラリスは黙った。


否定されるとは思っていなかった。


だが、不思議と傷つきはしない。


エリアスは穏やかな表情のまま続けた。


「経験豊富な者ほど、自分の知識で物事を判断します。」


「それは悪いことではありません。」


「ですが今回は、小さな違和感を拾える目が必要です。」


ローウェンが静かに頷いた。


「君は先入観がない。」


「だから気づけた。」


クラリスは、 先ほど見つけた 敬称の違いを思い出した。


あれは知識ではなく、日々の仕事の積み重ねだった。


「私は。」


クラリスはゆっくりと言葉を選ぶ。


「期待に応えられるか分かりません。」


エリアスは小さく微笑んだ。


「応えようとする必要はありません。」


「見たものを見たまま伝えてください。」


「分からないことは、分からないと言いなさい。」


「推測は、私たちがします。」



その言葉に、クラリスの肩から少しだけ力が抜けた。


事実だけを積み重ねる。


それは、父が語っていた外交官の姿にも重なるように思えた。


エリアスは机の引き出しを開け、一枚の書状を取り出した。


王家の紋章が押された正式な辞令だった。


「本日付で、あなたを本件の調査補佐に任命します。」


クラリスは両手で書状を受け取る。


羊皮紙は思っていたよりも重かった。


その重さは紙のものではない。


任された責任の重さだった。


「なお、この件は極秘事項です。」


エリアスの声が少しだけ低くなる。


「調査内容は、必要最小限の者しか知りません。」


「家族であっても。」


「同僚であっても。」


「許可なく話すことを禁じます。」


「承知しました。」


クラリスは静かに答えた。


エリアスは満足そうに頷く。


「では、まず最初に確認すべきものがあります。」


そう言って立ち上がると、局長室の奥にある小さな扉へ歩き始めた。


普段は閉ざされたままの扉だった。


クラリスは、その存在すら意識したことがない。


エリアスは扉の前で立ち止まり、振り返る。


「こちらへ。」



重い鍵が回る音が、静かな局長室に響いた。



重い扉が開くと、ひんやりとした空気が流れ出した。


窓のない部屋には、壁一面に書棚が並んでいる。


外交局が保管する機密文書の資料室だった。


クラリスは思わず足を止める。


配属されて一年。


この部屋へ入るのは初めてだった。


「こちらです。」


エリアスは部屋の中央に置かれた机を示した。


そこには、いくつもの文書箱と帳簿が積まれている。


「今回の件に関係する資料です。」


クラリスは席に着くと、最も手前の文書箱を開いた。


羊皮紙を一枚ずつめくる。


使節団の名簿。


街道の報告。


各地から届いた定時連絡。


どれも丁寧に整理されている。


だが、目新しい情報は見当たらない。


「異常なし。」


同じ言葉が、何度も記されていた。


クラリスは次の帳簿へ手を伸ばす。


第一中継所までは記録がある。


その先がない。


ページをめくる。


もう一度戻る。


記録漏れではない。


そこで記録そのものが途切れている。


「……。」


クラリスは帳簿を閉じた。


消えたのは、人だけではない。


記録もまた、そこで止まっている。



「何か気になりますか。」


ローウェンが尋ねる。


「いいえ。」


クラリスは首を振った。


「まだ違和感だけです。」


エリアスが静かに頷く。


「それで構いません。」


「違和感を書き留めてください。」


「意味を考えるのは、その後です。」


クラリスは机の脇に置かれたメモ用紙へ羽根ペンを走らせる。


――第一中継所以降の記録なし。


短く書き残す。


それだけだった。


だが、後から見返したとき、小さな違和感が大きな意味を持つこともある。


父がそう話していたことを思い出す。


クラリスは次の帳簿を開いた。


『外交局 資料閲覧記録』


誰が、いつ、どの資料を閲覧したか。


その一覧だった。


何気なくページをめくっていた手が、不意に止まる。


一か所だけ、不自然な空白があった。


閲覧日時はある。


返却時刻もある。


けれど。


閲覧者の名前だけが書かれていない。



クラリスは目を細めた。


「課長。」


ローウェンが帳簿を覗き込む。


「どうしました。」


「ここです。」


クラリスは静かにその一行を指差した。


ローウェンの表情がわずかに変わる。


「……これは。」


エリアスも帳簿を受け取り、ゆっくりと目を通した。


部屋は静まり返る。


誰もすぐには口を開かなかった。


やがてエリアスは帳簿を閉じる。


「記入漏れとは考えない方がいいでしょう。」


その一言だけだった。


だが、クラリスには十分だった。


これは答えではない。


けれど、調査を進める価値のある、最初の違和感だった。



機密資料室を出る頃には、窓の外の陽光は少し傾き始めていた。


局長室へ戻ると、エリアスは静かに椅子へ腰を下ろす。


机の上には、確認を終えた資料が整然と積み重ねられていた。


「今日のところは、ここまでにしましょう。」


その言葉に、クラリスは小さく息をつく。


短い時間だったはずなのに、一日分以上の出来事があったように感じていた。


使節団の失踪。


文書の違和感。


そして、名前の記されていない閲覧記録。


どれも決定的な証拠ではない。


だからこそ、答えはまだ遠かった。


エリアスは二人へ視線を向ける。


「現時点では、事実だけが手元にあります。」


「その事実を、決して取り違えないこと。」


「それが、この調査で最も重要になります。」


「承知しました。」


ローウェンが短く答える。


クラリスも静かに頭を下げた。


「承知しました。」


エリアスは満足そうに頷く。


「明日から、本格的に資料の洗い直しを始めます。」


「外交局に残る記録。」


「街道警備隊の報告。」


「中継所の日誌。」


「関係者への聞き取り。」


「確認できるものは、すべて確認してください。」


「推測ではなく、事実を積み重ねる。」


「それが今回の調査方針です。」


「はい。」


クラリスは力強く返事をした。


もう迷いはなかった。


自分にできることは限られている。


剣は振るえない。


戦場へ立つこともない。


けれど、一枚の文書を見逃さないことならできる。


一つの記録を疑うことならできる。


その積み重ねが、争いを防ぐことにつながるのなら。


それが、自分の役目だった。



局長室を出ると、外交局の廊下には、いつもの静けさが戻っていた。


職員たちは変わらず書類を運び、羽根ペンを走らせている。


誰も、この建物の中で極秘の調査が始まったことを知らない。


クラリスは立ち止まり、窓の外を見つめた。


王都の空は穏やかだった。


市場には人々の声が響き、子どもたちが駆け回っている。


昨日までと何一つ変わらない景色。


だからこそ、その平穏を守らなければならない。


クラリスは静かに歩き出す。


その一歩は、昨日までとは違っていた。


補佐として書類を運ぶためではない。


一人の外交官として、事件の真相へ向かうための一歩だった。



その頃――



王都から遠く離れた街道では、一頭の馬が夕暮れの中を駆けていた。


馬上の伝令は胸元へ一通の封書を抱えている。


封蝋には、見慣れない紋章が刻まれていた。


その封書が王都へ届く頃。


事件は、さらに大きく動き始めることになる。

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