第2話 小さな違和感
扉が閉まると、部屋は静かな空気に包まれた。
外交局長室。
執務机の上には、いくつもの書類が整然と並び、その奥の壁には王国と周辺諸国を描いた大きな地図が掛けられている。
窓から差し込む朝の光が室内を照らしていたが、その明るさとは裏腹に、部屋を満たす空気は重かった。
クラリスは扉の脇で静かに一礼する。
「失礼します。」
ローウェンも一歩前へ出た。
机の向こうでは、エリアス・ラウゼンが一枚の報告書へ目を落としていた。
視線を上げると、二人を順に見渡す。
「来ましたか。」
落ち着いた声だった。
だが、その響きには普段よりわずかな緊張が混じっている。
「お呼びとのことでしたので。」
ローウェンが答える。
エリアスは静かに頷き、机の前に置かれた椅子へ目を向けた。
「二人とも、掛けてください。」
クラリスは一瞬戸惑った。
局長室で椅子を勧められるなど、一度も経験がない。
ローウェンが先に腰を下ろすのを見届けてから、小さく頭を下げ、恐る恐る椅子へ腰掛けた。
机の上には、封を切られた報告書が何通も積まれている。
その隣には、王都からプレアリアへ続く街道図が広げられていた。
どれも普段の補佐業務では目にすることのない資料ばかりだった。
クラリスは無意識に膝の上で両手を揃える。
静かな部屋に、時計の針だけが規則正しく時を刻んでいた。
やがてエリアスは手元の報告書を閉じる。
その動きに合わせるように、部屋の空気がさらに張り詰めた。
「まず、現状を説明します。」
◇
エリアスは机の上へ一枚の地図を広げた。
王都アストレアから、隣国プレアリアへ続く街道。
主要な中継所には赤い印が付けられ、その一つひとつへ細かな書き込みが添えられている。
「和平使節団は、昨日の朝、予定通り王都を出発しました。」
静かな声が部屋に響く。
「使節は六名。護衛が四名。合わせて十名です。」
クラリスは思わず地図へ目を向けた。
王都からプレアリアまでは、およそ三日。
途中には三か所の中継所が設けられている。
「第一中継所までは予定通り到着しています。」
エリアスは細い指先で地図の一点を示した。
「問題は、その先です。」
指先が次の中継所へ移る。
「第二中継所には、誰一人として現れませんでした。」
部屋が静まり返る。
「定時連絡もありません。」
「街道沿いを巡回していた警備隊にも目撃情報はない。」
ローウェンが言葉を継いだ。
「荷馬車も。」
「護衛も。」
「使節団も。」
「何一つ見つかっていません。」
ローウェンは地図へ視線を落としたまま続けた。
「護衛は王国でも経験豊富な者たちだ。」
「道を誤るような顔ぶれではない。」
「それに、街道は一本道です。」
「第二中継所へ向かう途中で分かれる道はありません。」
「にもかかわらず、誰一人として姿を消した。」
「街道には争った痕跡もない。」
「荷物一つ落ちていない。」
「まるで最初から、そこを通らなかったかのようだ。」
クラリスは小さく息を呑んだ。
十人もの人間が、跡形もなく消えた。
そんなことが本当にあり得るのだろうか。
エリアスは机の上の報告書を一枚手に取る。
「これが、現在判明しているすべてです。」
短い沈黙が流れる。
誰も口を開かなかった。
クラリスは、目の前の事実をどう受け止めればいいのか分からなかった。
◇
クラリスは言葉を失っていた。
使節団十名が消息を絶った。
それだけでも十分な衝撃だった。
けれど、その場に自分が呼ばれている理由は、まだ分からない。
やがてエリアスが口を開く。
「クラリス。」
「はい。」
「あなたを呼んだ理由を話します。」
背筋が自然と伸びる。
エリアスは机の上から一通の封書を取り上げた。
「この封書を覚えていますか。」
クラリスは小さく頷いた。
「今朝、ローウェン課長からお預かりし、お届けしたものです。」
「ええ。」
エリアスは封書を机へ戻した。
「これは和平使節団へ渡す最終指示書でした。」
クラリスは思わず目を見開く。
今朝、自分が運んだ封書。
それほど重要なものだったとは思っていなかった。
「ローウェン課長から聞いています。」
エリアスは続けた。
「あなたは補佐業務だけでなく、文書の確認や清書も担当しているそうですね。」
「はい。」
「誤字や記載漏れだけではなく、印章や署名の位置まで確認していると。」
「それが私の仕事です。」
ローウェンが静かに口を開いた。
「局長。」
「彼女は配属されて半年ほどで、通商協定の文書にあった記載の食い違いを見つけています。」
クラリスは思わずローウェンを見た。
「あれは偶然です。」
反射的にそう答えると、ローウェンは首を横に振った。
「偶然ではない。」
「数字の誤記かと思われたが、確認したところ、過去の改訂時に残った古い条文だった。」
「そのまま締結されていれば、後に解釈の違いが生じていた。」
エリアスは静かに頷く。
「報告は受けています。」
「あなたのおかげで修正できた案件でした。」
クラリスは返す言葉を失った。
自分では、当然の確認をしただけだった。
「細部まで見落とさない、その観察力を見込んで、あなたにも協力してもらいます。」
クラリスは戸惑いを隠せなかった。
「私に……ですか。」
「ええ。」
エリアスは一枚の書類を取り出し、机の上へ置いた。
「使節団へ渡した文書の控えです。」
「もう一度、一緒に確認しましょう。」
クラリスは書類へ視線を落とした。
何かがある。
そうでなければ、自分がここへ呼ばれる理由はない。
部屋の空気が静かに張り詰める中、クラリスはゆっくりと最初の一枚へ手を伸ばした。
◇
クラリスは書類を両手で受け取り、机の上へ静かに広げた。
外交文書は一文字の違いが意味を変える。
学院で何度も教えられたことだった。
だからこそ、自然と細かな部分へ目が向く。
差出人。
宛名。
日付。
印章。
文面。
一枚ずつ、順番に確認していく。
部屋には紙をめくる音だけが響いていた。
ローウェンもエリアスも口を挟まない。
クラリスは二枚目をめくる。
三枚目。
四枚目。
どれも見慣れた外交文書だった。
形式に乱れはない。
文章にも不自然な点は見当たらない。
「……。」
五枚目へ手を伸ばした、そのときだった。
指先が止まる。
クラリスはもう一度、最初から文面を読み返した。
そして隣の書類と見比べる。
「どうしました。」
エリアスが静かに尋ねる。
「いえ……。」
クラリスは少し考え込む。
「気のせいかもしれません。」
「構いません。続けてください。」
促され、クラリスは書類へ視線を戻した。
「この文書だけ、敬称の使い方が違います。」
ローウェンが眉を動かす。
「敬称?」
「はい。」
クラリスは該当箇所を指差した。
「他の文書はすべてプレアリア側の役職名を統一しています。」
「ですが、この一枚だけ表記が異なっています。」
部屋が静まり返る。
「外交文書として間違いではありません。」
「意味も変わりません。」
「ただ……。」
クラリスは小さく息をついた。
「ローウェン課長なら、普段はこの表記を選ばないと思います。」
ローウェンは黙って書類を見つめた。
その表情から感情は読み取れない。
やがてエリアスは静かに書類を手に取り、ゆっくりと目を通す。
そして、ローウェンへ視線を向けた。
二人は短く目を合わせる。
その沈黙だけで、クラリスは悟った。
自分が見つけた違和感は、気のせいではなかった。
◇
部屋には静かな緊張が漂っていた。
エリアスはクラリスを真っすぐ見つめる。
「クラリス。」
「はい。」
「ここから先は、外交局内でも限られた者しか知りません。」
その声は穏やかだったが、重みがあった。
「今回の件は、単なる失踪ではない可能性があります。」
クラリスは息をのむ。
「文書の差し替えが行われた形跡があります。」
机の上の書類へ視線が向けられる。
「その意図も、誰が関わっているのかも、まだ分かっていません。」
ローウェンが静かに続けた。
「だからこそ、一つひとつ確認していくしかない。」
「小さな違和感が、この事件を解く鍵になるかもしれない。」
「君には、その目を貸してほしい。」
クラリスは机の上の文書へ視線を落とした。
自分はまだ外交局へ配属されて一年足らず。
周囲には、自分より経験も知識も豊富な職員が大勢いる。
その中で、なぜ自分なのだろう。
期待に応えられるのだろうか。
自分にできるのは、書類を確認することだ。
剣を振るえるわけでもない。
交渉の席で国を動かせるわけでもない。
胸の奥に、小さな不安が広がっていく。
外交官になれば、人の役に立てる。
そう信じて王都へ来た。
けれど、この一年は補佐業務や文書確認に向き合う毎日だった。
もちろん、それも外交局を支える大切な仕事だ。
そう信じて、一つひとつの仕事に向き合ってきた。
それでも心のどこかで思っていた。
自分は、本当に外交官として誰かを守れているのだろうか、と。
そのとき、不意に父の言葉が脳裏によみがえった。
――外交官は、戦争を止める最後の砦なんだよ。
幼い日の記憶。
記念碑の前で聞いた、あの穏やかな声。
父なら、この状況でどう判断しただろう。
きっと迷いはしたはずだ。
それでも、自分にできることから決して目を背けなかった。
だからこそ、多くの人に信頼されていたのだ。
クラリスは静かに息を吸った。
まだ父のような外交官にはなれていない。
この事件の真相を解ける自信もない。
それでも、一枚の文書が誰かを守ることはある。
一つの違和感が、大きな争いを防ぐこともある。
だからこそ、自分はこの仕事を選んだのではなかったか。
一つひとつの仕事を疎かにしない。
その積み重ねが、誰かを守ることにつながるのなら。
今、自分が迷い続ける理由はない。
クラリスは顔を上げ、エリアスを真っすぐ見つめた。
「承知しました。」
その返事には、先ほどまでの迷いはもう残っていなかった。
エリアスは穏やかに頷く。
「よろしくお願いします。」
クラリスも静かに頷き返す。
机の上の文書へ手を伸ばす。
その小さな違和感を見逃さないこと。
それが今、自分にできる外交官としての第一歩だった。
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