第1話 選ばれた者
朝の陽光が、外交局の窓から差し込んでいた。
磨き上げられた木の床に淡い光が落ち、整然と並ぶ机を柔らかく照らしている。
まだ慌ただしさの訪れる前の執務室には、紙をめくる音とペンを走らせる音だけが静かに響いていた。
エストラド王国外交局。
王都アストレアに置かれた、この国の外交を担う中枢機関である。
クラリス・ヴァインは、自席で書類へ視線を落としていた。
窓から吹き込んだ微かな風に、肩口までの黒髪がさらりと揺れる。指先でそれを耳へ払うと、青い瞳は再び文面の一文字一文字を追い始めた。
外交局へ配属されて一年。
新人と呼ばれる時期は過ぎたとはいえ、任される仕事はまだ補佐業務が中心だった。
それでも、一つひとつの書類に目を通し、誤字脱字や記載漏れがないか丁寧に確認する。
署名の位置、日付の表記、数字の並びまで、見落としはないか慎重に目を配る。その積み重ねが外交の信頼を支えることを、彼女は誰より理解していた。
地道な仕事ほど、重要になる。
学院で何度も教えられた言葉だった。
「クラリス。」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
同じ部署の先輩職員が、決裁書類を抱えて立っていた。
「この書類、局長室へお願いできる?」
「はい。」
書類を受け取り、軽く内容へ目を通す。
和平会談に向けた準備書類だった。
数日後、この王都では近隣三国による和平会談が予定されている。
長年続いてきた国境問題を話し合うための重要な会談だ。
外交局全体が慌ただしく動いているのも、そのためだった。
クラリスは書類の角を揃えて抱え直し、静かに立ち上がる。
窓の外では、穏やかな青空が広がっていた。
王都は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
◇
クラリスが書類を届け終え、執務室へ戻ると、 一人の男性が書類の束を抱えて入ってきた。
「おはよう。」
落ち着いた低い声に、部屋の空気が少し引き締まる。
「おはようございます。」
職員たちが一斉に頭を下げた。
ローウェン・ディルクは軽く頷くと、机へ書類を置いた。
四十代前半。
決して大柄ではないが、不思議と存在感のある男だった。
怒鳴ることはない。
褒めることも滅多にない。
それでも部下は彼を信頼していた。
「クラリス。」
「はい。」
「この文書を局長へ届けてくれ。」
差し出された封書を受け取り、クラリスは素早く内容を確認する。
宛名。
封印。
間違いはない。
指先で封書の角を揃え、折れや汚れがないことを確かめると、大切そうに胸元へ抱え直した。
「承知しました。」
外交局の廊下を歩く。
朝の光が長い窓から差し込み、磨き上げられた床に映っていた。
窓から吹き込む涼やかな風に黒髪がふわりと揺れ、クラリスは歩みを緩めることなく、それを耳へ払う。
局長室の前へ着くと、扉は固く閉ざされている。
中から、複数人の声が聞こえた。
「──プレアリア側は……」
「……国境付近の警備を……」
「和平会談まで、あと──」
扉が厚いため、言葉の多くは聞き取れない。
ただ、その空気だけは伝わってきた。
いつもの報告ではない。
重要な協議だ。
クラリスは静かに壁際へ下がり、封書を抱えたまま評議が終わるのを待った。
やがて扉が開く。
数人の幹部が足早に部屋を後にする。
最後に姿を現したのは、一人の女性だった。
年齢を感じさせる落ち着きと、商人らしい隙のなさを併せ持つその姿に、廊下にいた職員たちは自然と道を開ける。
エリアス・ラウゼン。
七大商家当主にして、外交局長。
クラリスは慌てて一礼した。
「おはようございます。」
エリアスは立ち止まり、差し出された封書へ視線を落とした。
「こちら、ローウェン課長よりお預かりしました。」
封書を受け取ったエリアスは、宛名を一瞥し、小さく頷く。
そして、ふとクラリスへ目を向けた。
「……あなたが書いたの?」
「はい。」
「読みやすい字ね。」
それだけ言うと、エリアスは静かに局長室へ戻っていった。
扉が閉まる。
ようやく息をついたクラリスの耳に、背後から声が飛ぶ。
「局長に名前を覚えられたら大したものだぞ。」
振り返ると、別の職員が笑っていた。
クラリスは少し照れたように笑い、 頬へかかった黒髪を指先で整えた。
「きっと、字のことしか見ていませんよ。」
そう答えると、職員は肩をすくめて笑った。
「謙遜するところまで真面目なんだから。」
クラリスは困ったように微笑み、胸の奥には、小さな嬉しさが残っていた。
◇
局長室を後にしたクラリスは、書類を届け終えた安堵から、小さく息をついた。
執務室へ戻る途中、廊下の角を曲がる。
そこには、一枚の大きな石板が据えられていた。
外交局の創設以来、功績を残した者たちの名が刻まれている記念碑だった。
忙しい朝に足を止める者は少ない。
それでもクラリスは、その前を通るたびに、ほんの数秒だけ視線を向ける。
石板の下から三段目。
右から六番目。
レオン・ヴァイン
父の名だった。
指先でなぞることはしない。
ただ静かに見つめるだけ。
それが、いつしか習慣になっていた。
父は外交官だった。
決して名高い英雄ではない。
華々しい功績を残したわけでもない。
だが幼いクラリスにとっては、誰よりも誇らしい父だった。
幼い日の記憶が、ふと胸によみがえる。
仕事を終え、疲れた顔で帰宅した父が、それでも笑って言った。
――外交官はね、剣を持たない兵士なんだ。
意味はよく分からなかった。
首をかしげるクラリスに、父は続けた。
――戦争は、始まってしまえば兵士が命を懸ける。
――だから私たちは、その前に止めなければならない。
――外交官は、戦争を止める最後の砦なんだよ。
その言葉だけは、今でも鮮明に覚えている。
クラリスは静かに石板へ一礼すると、再び歩き始めた。
父のような外交官になれたのか。
まだ分からない。
だからこそ、一つひとつの仕事を疎かにはしたくなかった。
廊下の窓から差し込む朝の光が、床へ長い影を落としていた。
クラリスは執務室への足を速めた。
◇
石碑の前を後にし、執務室へ戻ると、 職員たちはそれぞれの仕事に取りかかっていた。
羽根ペンの走る音。
紙をめくる音。
誰かが湯を注ぐ音。
いつもと変わらない、外交局の朝。
先ほどまで廊下を包んでいた慌ただしさも、いつしか執務室の静けさへ溶け込んでいる。
クラリスも席に着き、新たな書類へ手を伸ばした。
インク壺へペン先を浸し、
一文字目を書き始めようとした、その時だった。
廊下の奥から、慌ただしい足音が響く。
一人ではない。
何人もの職員が駆けている。
その足音は迷うことなく、まっすぐ外交局へ近づいてきた。
やがて、執務室の扉が勢いよく開いた。
「ローウェン課長!」
息を切らせた若い職員が飛び込んでくる。
額には汗が滲み、肩で大きく息をしていた。
部屋中の視線が一斉に集まった。
ローウェンは静かに立ち上がる。
「どうした。」
「伝令です!
本局より至急――」
言葉を最後まで聞くことなく、ローウェンの表情が変わった。
その変化はわずかだった。
だが、長く共に働く職員たちには、それだけで十分だった。
「分かった。」
短く答え、若い職員へ頷く。
「先に戻れ。」
職員は一礼すると、再び走り去っていった。
部屋の空気が重くなる。
誰も口を開かない。
ローウェンは静かに全員を見渡した。
「作業を中断しろ。」
それだけで十分だった。
椅子を引く音が重なる。
書きかけだった書類が閉じられ、羽根ペンが静かに置かれる。
誰も理由を尋ねない。
尋ねなくても分かる。
何かが起きたのだ。
クラリスも立ち上がり、ローウェンの前へ集まる。
数秒の沈黙。
ローウェンはゆっくり口を開いた。
「今朝未明、プレアリアへ向かった和平使節団との連絡が途絶えた。」
その一言で、室内から音が消えた。
「予定されていた定時連絡もない。」
「街道沿いの中継所にも到着していない。」
「現在、所在は不明だ。」
誰かが小さく息を呑む。
クラリスの胸もざわついた。
和平使節団。
今朝、局長室の前で耳にした言葉。
それが頭の中で繋がる。
ローウェンは続ける。
「本日予定されていた和平会談は、延期が決定した。」
延期。
その言葉に、何人かが顔を見合わせた。
外交において、その意味は決して軽くない。
互いの信頼は、たった一つの出来事で崩れることがある。
静まり返った執務室で、誰かが小さく呟いた。
「……まさか。」
その声が聞こえたのか、聞こえなかったのか。
ローウェンは何も答えない。
ただ静かに窓の外へ目を向けていた。
晴れ渡っていた朝空は、いつの間にか薄い雲に覆われ始めていた。
◇
執務室には、重苦しい沈黙が流れていた。
和平会談の準備中断。
その意味を理解できない者はいない。
誰もが最悪の事態を思い浮かべながらも、それを口にすることはなかった。
エリアスは静かに職員たちを見渡す。
その眼差しに焦りはない。
だからこそ、部屋の空気は張り詰めていた。
「現時点で分かっていることは多くありません。」
落ち着いた声が執務室に響く。
「憶測で動けば、混乱を招くだけです。事実だけを集めなさい。」
短い言葉だった。
だが、動揺しかけていた職員たちは、その一言で我に返る。
「ローウェン課長。」
「はい。」
「関係資料をすべて集めてください。使節団の名簿、移動経路、過去の交渉記録、警備計画書。確認できるものは、すべて。」
「承知しました。」
ローウェンは振り返り、職員たちへ指示を飛ばす。
静まり返っていた執務室が、一斉に動き始めた。
棚から資料が運び出される。
保管庫の鍵が開く。
書庫へ駆け出す職員の足音が廊下へ響いた。
誰もが自分の役割を果たそうと動き出す。
クラリスも立ち上がろうとした、その時だった。
「クラリス。」
ローウェンに呼び止められる。
「はい。」
「君は私と来てくれ。」
一瞬だけ、執務室の空気が止まったように感じた。
周囲の職員たちも、小さく視線を向ける。
書類を抱えたまま足を止める者。
保管庫の鍵を握ったまま振り返る者。
誰も声にはしない。
だが、その視線には同じ疑問が浮かんでいた。
――なぜ、クラリスなのか。
当のクラリスにも、その理由は分からない。
疑問が胸をよぎる。
だが、問い返すことはしない。
「承知しました。」
静かに答えると、ローウェンはその返事に小さく頷き、歩き出した。
向かった先は、局長室だった。
廊下を歩く二人の足音だけが静かに響く。
先ほどまで慌ただしく行き交っていた職員たちも、今は道を譲るように足を止めている。
クラリスは胸の鼓動が少しずつ速くなるのを感じていた。
局長室へ呼ばれる理由など、一つも思い当たらない。
それでも歩みを止めることなく、ローウェンの半歩後ろを進む。
やがて重厚な扉の前で、ローウェンが足を止める。
軽く扉を叩く。
「失礼します。」
中から落ち着いた声が返ってきた。
「入りなさい。」
扉がゆっくりと開いた。
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