第24話 もう一度
翌朝、崩落した岩は昨日と同じ場所にあった。
当然のことなのに、クラリスは遠くからその姿を見た時、少しだけ妙な気持ちになった。
昨日、あれほど理解できないものに見えた岩も、地面へ落ちてしまえばただの大きな岩だった。
夜の間に新しい崩落はなかったらしい。
先に現場へ来ていた石工たちは、岩壁を見上げたり、離れた場所から亀裂を確かめたりしている。誰も昨日の岩へ近づこうとはしなかった。
救助に入った石工もいた。
クラリスに気づくと、男は少し嫌そうな顔をした。
「また聞くのか」
「今日は、少し違います」
「昨日だけで随分聞かれた気がするが」
「私もそう思います」
男が鼻を鳴らした。
ローウェンが隣で小さく笑う。
クラリスは手帳を開いた。
「昨日、岩が止まる直前に何をしていたか、順番に確認したいんです」
「仲間を引っ張ってた」
「その前は?」
「石をどかしてた」
「腕を上げましたよね」
男は自分の右腕を見る。
「ああ」
「岩には触れていない」
「触れる距離じゃなかった」
「何か声を出しましたか」
石工は少し考えた。
「覚えてないな」
「祈ったりは?」
今度は即答だった。
「してない」
クラリスは記録する。
「昨日と同じ場所に立つことはできますか」
男の目が細くなった。
「また岩を落とす気か?」
「まさか」
クラリスは慌てて首を振った。
「危険なことはしません。立つ位置や姿勢が関係したのかを確かめるだけです」
「それで何が分かる」
「何も起きなければ、それが分かります」
男はしばらくクラリスを見た。
「役人ってのは、何も起きないことまで調べるのか」
「必要なら」
「面倒な仕事だな」
「昨日も似たようなことを言われました」
石工はようやく笑った。
危険がないことを確認してから、昨日救助を行った場所に近い位置まで移動する。
崩落した岩そのものには近づかない。
男は地面を見回し、自分の足の位置を確かめた。
「たぶん、この辺だ」
「腕は?」
「こうだったと思う」
右腕を上げる。
昨日。
落ちてくる巨岩へ向かって伸ばされた腕。
クラリスは思わず息を止めた。
何も起きなかった。
風が吹き、男の袖を揺らしただけだった。
石工は腕を下ろす。
「これでいいか」
「もう少しだけ、付き合ってください」
「やっぱり面倒だな」
そう言いながらも、男は帰ろうとはしなかった。
◇
試すことは、どれも小さなものに限った。
石工の一人が、拳ほどの石を緩い斜面へ置く。
下には誰もいない。
転がっても数歩先で止まる程度の場所だった。
「これを止めろって?」
救助に入った石工が聞いた。
「昨日と同じように、腕を向けてみてください」
「昨日だって止めようと思って腕を出したわけじゃないぞ」
「分かっています」
男は納得していない顔のまま、石へ腕を向けた。
別の石工が足先で軽く押す。
石が転がった。
一度。
二度。
小さく跳ね、そのまま斜面の下へ落ちて止まる。
何も起きない。
今度は石工自身が押した。
同じだった。
場所を少し変えた。
右手を使った。
左手も試した。
石へ触れてから離した。
触れずに腕だけを向けた。
昨日と同じ種類に見える岩も選んだ。
結果は変わらなかった。
石は転がれば転がった。
手を離せば落ちた。
支えを外せば倒れた。
当たり前のことが、当たり前に起きる。
「もういいだろ」
何度目かの試みのあと、石工が言った。
額にはうっすら汗が浮いていた。
作業より疲れたというより、意味の分からないことを繰り返すのにうんざりしているようだった。
クラリスも手帳を見た。
成功した記録は一つもない。
「昨日は場所が違ったからじゃないのか」
見ていた石工の一人が言った。
「場所?」
クラリスが尋ねる。
「岩の真下だよ」
「そこでは試せません」
「分かってる」
男は肩をすくめた。
「じゃあ、同じにはできないってことだ」
確かにそうだった。
昨日と完全に同じ状況を作ることはできない。
そして、作るべきでもない。
人が逃げ遅れる。
巨大な岩が落ちる。
誰かが助けに飛び込む。
その条件まで揃えなければならないのなら、確かめる方法そのものが間違っている。
「昨日は、あいつが死にそうだった」
別の男が言った。
足を怪我した若い石工は、今日は来ていない。
「命がかかってたからじゃないのか」
救助に入った石工が顔をしかめる。
「だからって、誰かを岩の下に置く気か?」
「そんなこと言ってないだろ」
「なら確かめようがない」
クラリスは二人のやり取りを聞きながら、手帳に一行加えた。
『危機的状況の有無との関係――確認不能。』
昨日までなら、原因が分からないことが気になった。
今日は少し違う。
条件を変えれば、何も起きない。
その事実にも、意味があるように思えた。
◇
「精霊に頼めばいいんじゃないか」
昼近くになって、誰かが言った。
石工たちは作業の合間に腰を下ろし、簡単な食事を取っていた。
昨日なら冗談で終わったかもしれない。
今日は何人かが真面目な顔で考え込んだ。
「昨日は精霊が助けたんだろ」
「そう決まったわけじゃない」
救助に入った石工が答える。
「だったら試してみればいい」
「どうやって」
そこで皆が黙った。
クラリスは少し離れたところで話を聞いていた。
昨日まで、この山で精霊について語る言葉はいくらでもあった。
だが、精霊に何かをさせる方法となると、誰も知らないらしい。
「頼むだけならできるだろ」
一人が言った。
石工が嫌そうな顔をする。
「俺が?」
「昨日助けてもらったのは、お前なんだから」
「助けられたのはあいつだ」
「二人ともだろ」
石工はしばらく黙っていた。
やがて、小さな石を一つ拾う。
掌へ載せ、眺める。
「何て言えばいい」
「知らん」
「お前が言い出したんだろ」
周囲から小さな笑いが起きた。
昨日の緊張が、ようやく少しだけ薄れたようだった。
石工はため息をつく。
それから、掌の石へ向かって言った。
「……止まれ」
何も起きない。
男は石を落とした。
石は普通に地面へ落ちた。
「ほらな」
「頼み方が悪い」
「じゃあお前がやれ」
今度は別の男が試す。
結果は同じだった。
誰かが精霊へ頼む。
誰かが山へ向かって声をかける。
目を閉じて試す者もいた。
だが、石は石のままだった。
「気まぐれなんじゃないか」
「精霊が?」
「昔話じゃ、そういうものだろ」
「都合のいい話だな」
救助に入った石工が言う。
昨日、精霊の伝承を語った女の言葉をクラリスは思い出した。
助かれば守られたと言う。
怪我をすれば怒らせたと言う。
何も起きなければ、話にはならない。
今まさに、その形になろうとしている。
クラリスは手帳へ書いた。
『祈り・呼びかけによる変化なし。』
その下へ、
『「精霊の気まぐれ」とする意見あり。根拠なし。』
と続ける。
ローウェンが横から覗いた。
「随分はっきり書きましたね」
「根拠がないので」
「昨日より厳しくなりましたか」
クラリスは少し考えた。
「昨日、名前を付けることと、分かることは違うと知りましたから」
ローウェンは何も言わず、小さく頷いた。
結局、その日の午前中に奇妙なことは一度も起きなかった。
昨日の岩が止まったことだけが、ますます遠い出来事のように思えてきた。
◇
昼を過ぎる頃、石工たちは作業を切り上げた。
崩落した場所は上部の確認が終わるまで通行を再開できないらしい。
クラリスとローウェンも、この日は西へ進むことを諦めた。
「道具を直してくる」
石工の一人が、鉄の楔をまとめながら言った。
昨日の崩落で傷んだものもあり、先端が潰れたり、曲がったりしている。
救助に入った石工も何本かを選び、袋へ入れた。
クラリスはふと思った。
「どこで直すんですか」
「下の鍛冶場だ」
それだけの答えだった。
石工たちが日常的に使う道具を直す場所らしい。
クラリスとローウェンは、山を下る彼らにしばらく同行することにした。
西へ進めない以上、急ぐ理由はない。
何より、昨日から何度も付き合ってもらった石工たちの話を、途中で終わらせるのも気が引けた。
鍛冶場へ着く頃には、午後もかなり進んでいた。
炉の中では炭が赤く燃えている。
壁際には大小の槌や鋏、鉄棒が並び、床の隅には修理を待つ道具が積まれていた。
鍛冶職人は、石工たちが持ち込んだ楔を一本ずつ確認していった。
「これは先だけでいい」
一本を脇へ置く。
「こっちは曲がってるな」
別の一本を持ち上げ、目の高さで眺めた。
「無理に使ったか?」
石工が答える。
「昨日、岩が崩れた」
「それで?」
「置いて逃げた」
鍛冶職人は楔をもう一度見る。
「逃げたなら正解だ」
崩落について、それ以上は聞かなかった。
山では珍しい話ではないのかもしれない。
炉へ鉄を入れる。
しばらく待つ。
引き出した鉄の色を見て、また戻す。
クラリスはその様子を眺めていた。
鍛冶職人は時計を見るわけでもない。
鉄の色。
炎の様子。
槌を打った時の感触。
それだけで、次に何をするかを決めているようだった。
石工が岩を見る時と似ている。
「長くやっている方なんですか」
クラリスが尋ねると、職人は鉄から目を離さず答えた。
「長いかどうかは知らん」
「何年くらい?」
「数えてない」
石工たちから笑い声が上がる。
「こいつは昔からこうだ」
「聞いても何も教えん」
鍛冶職人は気にする様子もなく、赤くなった鉄を炉から取り出した。
金床へ置く。
槌が振り下ろされた。
高い金属音が鍛冶場に響く。
クラリスはその音を聞きながら思った。
今日一日、何度試しても何も起きなかった。
昨日の出来事は、本当に一度きりだったのかもしれない。
そう考える方が、ずっと自然だった。
◇
鍛冶職人は、曲がった楔を何度か打ち直した。
赤かった鉄は少しずつ暗くなっていく。
職人は一度手を止め、鉄を横から眺めた。
「冷えたな」
再び炉へ戻すつもりなのだろう。
鋏で楔を挟み、持ち上げる。
その時だった。
「待ってください」
クラリス自身、なぜ声をかけたのか分からなかった。
鍛冶職人が止まる。
「何だ」
クラリスは楔を見ていた。
先ほどまで黒くなりかけていた鉄の一部が、わずかに赤い。
見間違いかと思った。
炉の明かりが映っているだけかもしれない。
クラリスは位置を変えた。
赤みは消えない。
むしろ、少しずつ広がっている。
「それ……」
鍛冶職人も気づいた。
鋏に挟まれた楔を見る。
「炉に戻しましたか?」
ローウェンが尋ねる。
「まだだ」
職人の声が低くなった。
鉄は炉から離れている。
炎にも触れていない。
それなのに、暗くなっていた表面へ赤みが戻っていく。
鮮やかな炎の色ではない。
鉄が熱を持った時に現れる、鈍い赤だった。
鍛冶職人は無意識に楔を金床へ戻した。
赤みはまだ残っている。
男が手の甲を近づける。
すぐに引いた。
「熱い」
石工たちが集まってくる。
「さっきまで冷えてただろ」
一人が言う。
鍛冶職人は答えない。
楔を見つめている。
「炭でも付いたか?」
「付いてない」
「金床が熱かったとか」
「他の鉄は冷えてる」
誰かが炉を見る。
楔との間には、何歩もの距離がある。
熱が届くような近さではなかった。
クラリスは手帳へ手を伸ばしかけ、止めた。
昨日と同じだった。
違う。
同じなのは、説明できないということだけだ。
岩ではない。
崩落でもない。
人の命が危険にさらされてもいない。
精霊へ祈ってもいない。
鍛冶職人はただ、自分の仕事をしていただけだった。
「何かしましたか」
クラリスが尋ねる。
鍛冶職人が顔を上げる。
「何を?」
「その鉄に」
「打ってた」
「それ以外は?」
職人は楔を見る。
「冷えたから、炉へ戻そうとした」
「熱くなれ、と考えましたか」
男は眉を寄せた。
「鉄を打ってりゃ、冷えれば熱くしたいとは思う」
その程度のことなら、これまで何千回も考えてきたはずだった。
楔の赤みが、ゆっくり薄れていく。
やがて、普通の黒い鉄へ戻った。
鍛冶場の中が静まり返る。
昨日の岩は、山の精霊が助けたのだと誰かが言った。
だが今度は、岩さえない。
クラリスはようやく手帳を開いた。
ペン先が紙へ触れる。
『炉から離れ、冷え始めていた鉄が、再び熱を帯びた。』
そこまで書いて手を止める。
原因は書かなかった。
まだ、書けるはずがなかった。
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