第23話 精霊の御業
若い石工が立ち上がると、仲間の一人がすぐ肩を貸した。
足首には布が巻かれている。歩くたびに顔をしかめてはいるものの、自分の足で立てていることを確かめるように、男は二、三歩進んだ。
「無理するな」
救助に入った石工が言う。
「今日はもう下りろ」
「でも、道が」
「道より足だ」
それ以上の反論を許さない声だった。
若い男は口を閉じた。
周囲にいた者たちから、ようやく張り詰めていた息が抜けていく。
クラリスも少しだけ肩の力を抜いた。
巨大な岩はすでに地面へ落ち、道の一部を塞いでいる。つい先ほどまで頭上にあったものが、今は砕けた石の塊として横たわっていた。
若い男がそれを見た。
「死んでたな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
仲間の一人が、
「馬鹿なことするからだ」
と返した。
「分かってるよ」
「分かってないから戻ったんだろ」
「楔一本くらい――」
「一本で死んだら笑えん」
叱っている声にも、どこか安堵が混じっていた。
若い男は言い返しかけ、やめた。
その視線が、救助に入った石工へ向く。
「親方」
「何だ」
「……ありがとう」
石工は片手を上げただけだった。
若い男は、次に崩れた岩を見た。
しばらく黙っていたが、やがて小さな声で言う。
「でも、俺だけじゃないよな」
「何がだ」
「助けたの」
石工が眉を寄せる。
若い男は頭上を見るように顔を上げた。
そこには、もう何もない。
岩壁と、薄い雲の流れる空だけだった。
「だって、あれが落ちてたら、親方だって間に合わなかった」
誰も答えなかった。
「止まっただろ」
その一言で、先ほどまで戻りかけていた空気が変わった。
石工たちの視線が、再び落ちた岩へ集まる。
若い男は言った。
「山の精霊が、助けてくれたんじゃないか」
誰かが笑うかと思った。
クラリスも、ほんの一瞬そう思った。
だが、誰も笑わなかった。
一人の石工が腕を組む。
「……そういうことなのかもしれんな」
別の男も、ゆっくり岩壁を見上げた。
「他に、どう言えばいい」
精霊。
昨日まで昔話の中にあった言葉が、初めて目の前で起きた出来事へ向けられていた。
◇
「精霊の御業だ」
誰かがそう言った。
最初に口にした者が誰だったのか、クラリスには分からなかった。
若い石工だったかもしれない。
その隣にいた男だったかもしれない。
ただ、一度その言葉が出ると、不思議なほど自然に皆の会話へ入り込んだ。
「山で長く働いてるから、見てたんだろ」
「親方は無茶な石を叩かないからな」
「だから守られたのか」
「守られたのはこいつだろ」
「二人ともだ」
話す者たちの声には、先ほどまでの怯えが少しずつ薄れていた。
理由の分からない出来事に、知っている言葉が与えられたからなのかもしれない。
救助に入った石工だけは、納得していないようだった。
「勝手なこと言うな」
「でも止まったじゃないか」
「それは俺も見た」
「なら――」
「見たことと、精霊がやったってことは別だろ」
仲間の男が困った顔をする。
「じゃあ何だったんだ」
「知らん」
即答だった。
その返事に、クラリスは顔を上げた。
石工は落ちた巨岩を見ていた。
「知らんものを、知ってることにするな」
それだけ言うと、足を痛めた若い男の方へ向き直る。
「お前は下りる準備をしろ」
「親方は?」
「残ったところを見る」
「また崩れないか」
「だから見るんだ」
精霊という言葉が出ても、石工の仕事は変わらなかった。
岩を見る。
危険なら近づかない。
分からなければ触らない。
昨日までと同じだった。
ただ、その周囲では会話が変わっている。
「御業」という言葉を使う者。
「加護」と呼ぶ者。
何かに守られたのだろうと考える者。
クラリスは手帳を開いた。
書きかけて、ペンを止める。
岩が止まったことは、すでに記録した。
今ここで起きているのは、それとは別のことだった。
クラリスは新しい行へ書いた。
『目撃者の一部より、現象を山の精霊によるものとする解釈が出る。』
一度読み返す。
「精霊が岩を止めた」とは書かなかった。
それは事実ではない。
今確かに起きているのは、人々がそう考え始めたことだった。
◇
昨日、精霊について話してくれた女は、少し離れたところに立っていた。
クラリスはそのことに気づいてから、しばらく様子を見ていた。
石工たちの会話へ入ろうとしない。
精霊の名が出ても、頷きもしなかった。
背負籠を足元へ置き、崩れた岩をじっと見ている。
クラリスは手帳を閉じ、女の方へ歩いた。
「精霊の御業だそうです」
女がクラリスを見る。
「聞こえてるよ」
「昨日、山には精霊がいると話していましたよね」
「ああ」
「だったら、今のこともそうだと思いますか」
女はすぐには答えなかった。
落ちた岩へ目を戻す。
「昔から言うよ。山で死にかけて助かった者がいれば、精霊に守られたって」
「では――」
「でも、それは話だ」
クラリスは言葉を止めた。
女は続ける。
「崖から落ちて助かった。嵐の中で道を見つけた。獣に襲われたのに生きて帰った。そういう時に、あとから精霊に守られたと言う」
「今日も、人が助かりました」
「そうだね」
「違うんですか」
女は腕を組んだ。
「分からない」
昨日と同じ言葉だった。
だが、今度は答えへ逃げているようには聞こえなかった。
むしろ、知っているものと知らないものの境目を確かめているようだった。
「あの岩は止まった」
女が言う。
「私は見た」
クラリスは黙って聞いた。
「昔話で、精霊が人を守ったって話ならいくらでも知ってる。でも、落ちてる岩があんなふうに止まったなんて話は、私は知らない」
「誰かから聞いたことも?」
「ないね」
女は石工たちを見る。
彼らはまだ何か話している。
「だから、あの連中が精霊だって言うのが間違いだとも言えない」
「はい」
「私だって、他に何だって言われたら答えられない」
女はそこで少し眉を寄せた。
「だけどね」
クラリスは待った。
「分からないものが起きたからって、昔から知ってる名前を付ければ、それで同じものになるのかい?」
風が二人の間を抜けた。
クラリスは何も答えられなかった。
女も答えを求めてはいなかった。
しばらくして、もう一度岩を見た。
「本当に、これを精霊と呼んでいいのかね」
クラリスはその言葉だけを、忘れないように頭の中で繰り返した。
◇
石工たちは、午後の作業を取りやめることにした。
理由は精霊ではなかった。
崩落した場所の上部をもう一度調べなければ、安全だと言えないからだ。
「今日は誰も通すな」
救助に入った石工が言う。
「向こうから来る奴がいたら止めろ。馬もだ」
「明日は?」
「見てから決める」
「精霊が守ってくれたんだから、大丈夫なんじゃないか」
一人が半分冗談のように言った。
石工は振り返った。
「じゃあ、お前があの下で寝るか?」
「嫌だよ」
「俺も嫌だ」
それで話は終わった。
クラリスは思わず笑いそうになったが、隣にいたローウェンが先に僅かに口元を緩めた。
「現実的ですね」
「昨日も聞いた気がします」
「この山では、それが一番大切なのかもしれません」
怪我をした若い男は、仲間の一人に付き添われて先に山を下りることになった。
出発する前、クラリスのところへ来る。
「役人さん」
「はい」
「さっき、何か書いてたよな」
クラリスは手帳を持ち上げた。
「見たことを記録しています」
「精霊のことも?」
「皆さんが、そう話していたことは」
若い男は少し不満そうな顔をした。
「そう話した、じゃなくて、本当に助けてくれたんだと思う」
クラリスはすぐには返さなかった。
「そう思うんですね」
「ああ」
「では、それも記録しておきます」
「信じないのか?」
問われて、クラリスは少し考えた。
「まだ、何が起きたのか分からないので」
「見ただろ?」
「岩が止まったところは見ました」
「だったら」
「岩が止まったことと、誰が止めたのかは、同じことではありません」
若い男は黙った。
怒った様子ではない。
ただ、自分が考えたことのない分け方を聞いたような顔をしていた。
やがて頭を掻く。
「役人って面倒なんだな」
「たぶん、そういう仕事なんです」
若い男は笑った。
足を庇いながら仲間のところへ戻っていく。
クラリスはその背中を見送った。
同じものを見た。
それでも、そこから先は同じではない。
精霊に助けられたと思う者。
理由は分からないと言う者。
昔から精霊を信じながら、今回の出来事には疑問を持つ者。
出来事は一つだった。
だが、その意味はすでに一つではなくなっていた。
◇
二人が野営の準備を始めた頃には、崩落現場から人の声がほとんど聞こえなくなっていた。
道が塞がれたため、この日は先へ進めない。
石工たちは危険な場所へ印を置き、最低限の見張りだけを残して山を下りていった。
クラリスは火を起こす前に、もう一度手帳を開いた。
今日の頁には、岩が止まった時の記録が残っている。
その下へ、午後に聞いた言葉を書き足した。
『山の精霊が救った』
少し間を空ける。
『精霊の御業』
さらに、その下。
『本当に、これを精霊と呼んでよいのか』
三つとも、今日この場所で人間が口にした言葉だった。
ローウェンが薪を置きながら、手帳を覗く。
「ずいぶん違いますね」
「同じものを見たのに」
「だからでしょう」
クラリスは顔を上げた。
「だから?」
ローウェンは火打ち石を手に取った。
「誰も説明できない。だから、自分が持っている言葉で説明するしかない」
火花が散る。
一度では火がつかず、ローウェンはもう一度石を打った。
「精霊を知っている人は精霊と言う。石を知っている人は、分からないと言う」
「では、私たちは?」
「記録するのでは?」
クラリスは少し笑った。
「そうでした」
小さな火がついた。
ローウェンが細い枝を重ねる。
クラリスは手帳へ視線を戻した。
父たちの足跡を追い始めた時、自分が調べているのは十五年前に起きたことだった。
今は、自分の目の前で起きたことを書いている。
それでも、やることは変わらない。
見たこと。
聞いたこと。
考えられること。
分からないこと。
それらを混ぜない。
クラリスは三つの言葉の下へ、一行だけ加えた。
『現時点で原因を示す根拠なし。』
ペン先を止める。
精霊の御業。
その言葉を使えば、今日の出来事には名前がつく。
名前がつけば、人へ話すこともできる。
きっと今日ここにいた者たちは、山を下りた先で誰かに話すだろう。
巨大な岩が止まったこと。
一人の男が助かったこと。
そして、山の精霊が人を守ったのだと。
クラリスは手帳を閉じた。
「ローウェンさん」
「はい」
「名前を付けることと、分かることは、違うんですね」
ローウェンは火を見ながら答えた。
「同じなら、仕事はずいぶん楽でしょうね」
クラリスは小さく笑った。
火が少しずつ大きくなっていく。
山はもう静かだった。
鳥の声は、今日も聞こえない。
けれど今、クラリスの頭に残っているのは、その静けさではなかった。
岩を止めたのは何だったのか。
精霊の御業と呼ばれ始めたその出来事を、実際には何が起こしたのか。
それを知る者は、まだ誰もいなかった。
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