第22話 崩落
石工は岩壁の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
亀裂へ指を添え、少し離れて上を見て、それから足元へ視線を戻す。
先ほど仲間たちへ離れるよう言った時と同じ、慎重な動きだった。
クラリスたちも馬のそばで待っている。
道の先へ進むには、この場所を通らなければならない。石工たちの作業が終わるまでは、急ぐ理由もなかった。
「どうだ?」
少し離れた場所から仲間の一人が声をかけた。
石工は答えず、岩壁の下へしゃがみ込んだ。
道に張り出している岩の根元には、拳ほどの石がいくつも積もっている。上から崩れてきたものらしく、その間には細かな砂も混じっていた。
男はその一つを拾い、割れた面を見る。
それから立ち上がった。
「下だけ片づける」
「上はそのままか?」
「ああ」
「通れるようになるのか」
「人と馬なら通れる」
石工は岩壁の上を見た。
「荷車はやめた方がいい」
仲間は短く返事をし、道具を持って戻っていった。
クラリスは岩壁を見上げる。
昨日なら、どこを見ればよいのかさえ分からなかった。
今日は少しだけ違う。
石工が何度も確かめている亀裂を目で追えば、その先に大きな岩の輪郭が見える。
岩壁の一部にしか見えないほど大きい。
その下側だけが、周囲からわずかに浮いている。
「昨日見たものと似ていますね」
クラリスが言うと、ローウェンも上を見た。
「ええ。ただ、こちらの方が大きい」
「落ちるんでしょうか」
その声が聞こえたのか、石工が振り返った。
「いつかはな」
「今日ですか?」
「それが分かれば楽なんだが」
男はそう言って、足元の小石を蹴った。
冗談を言った様子はなかった。
分からないから近づかない。
それだけなのだろう。
やがて作業が再開された。
岩壁そのものには手をつけず、道へ落ちている石だけを取り除いていく。
槌で砕く音。
石同士が擦れる音。
運ばれた石が道脇へ置かれる音。
昨日から何度も聞いてきた、山で働く人々の日常の音だった。
クラリスは少し離れた岩へ腰を下ろした。
昨日、精霊について話してくれた女も、背負籠を抱えたまま待っている。
「時間がかかりそうですね」
クラリスが声をかけると、女は肩をすくめた。
「急がせて岩が言うことを聞くなら、みんな苦労しないよ」
クラリスは笑った。
その時、石工が顔を上げた。
何かを聞いたようだった。
槌の音が続いている。
風も吹いている。
クラリスには、それ以外の音は聞こえなかった。
石工は岩壁を見たまま、片手を上げた。
「止めろ」
槌の音が消えた。
静かになった山の中で、小さな音がした。
ぱきり、と。
乾いた枝が折れるような音だった。
◇
石工たちは誰も動かなかった。
男だけが、岩壁を見上げている。
クラリスも視線を上へ向けた。
何も変わっていないように見えた。
先ほどまでと同じ岩。
同じ亀裂。
同じ灰色の壁。
だが石工は、ゆっくり後ろへ下がった。
「道具を置け」
仲間たちが槌や鉄棒を地面へ置く。
「離れるぞ」
誰も理由を尋ねなかった。
その時、一人が足元を見た。
「待ってくれ」
道具の入った革袋が、岩壁の近くに残っていた。
男が取りに戻ろうとする。
石工が腕を伸ばした。
「放っておけ」
「でも中に――」
「いい」
強い声だった。
若い男は一瞬止まった。
だが、革袋のすぐそばに転がっていた鉄の楔へ目をやる。
「これだけだ。すぐ取れる」
「行くな」
石工が言った時には、男はすでに二歩踏み出していた。
ほんの数歩の距離だった。
屈んで、楔へ手を伸ばす。
その瞬間だった。
岩壁の上から砂が落ちた。
わずかな量だった。
さらさらと、若い男の肩の向こうへ流れる。
石工の顔色が変わった。
「戻れ!」
若い男が顔を上げる。
岩壁の奥で、低い音がした。
先ほどとは違う。
石同士が内部で擦れ合う、腹に響くような音だった。
石工が走った。
ローウェンも同時に動く。
「クラリス、下がって!」
クラリスは反射的に馬の手綱を引いた。
馬が首を振り、後ろへ下がる。
岩の上にいた女も背負籠を抱えて立ち上がった。
若い男が逃げようとする。
その足元で、小さな岩が転がった。
足を取られた。
身体が前へ倒れる。
「っ――!」
片脚が石と石の間へ入り込んだ。
男は起き上がろうとしたが、抜けない。
石工は迷わずその方へ走った。
「動くな!」
「足が!」
「分かってる!」
石工がしゃがみ込み、挟まった脚の周囲へ手を入れる。
ローウェンも駆け寄ろうとした。
「来るな!」
石工が怒鳴った。
ほとんど同時に、岩壁から大きな音が響いた。
クラリスは見上げた。
亀裂が広がっていた。
黒い線だったものが、目に見える隙間へ変わっていく。
石工もそれを見た。
ほんの一瞬だった。
だが男には、その一瞬で分かったらしい。
「落ちる」
声は小さかった。
次の瞬間、岩壁の一部が前へ傾いた。
◇
音が消えたように感じた。
実際には、岩が崩れる轟音が響いていた。
細かな石が落ちる。
砂が舞う。
石工は若い男の腕を掴み、力任せに引いた。
脚は抜けない。
頭上では、岩壁から剥がれ始めた巨大な岩が前へ傾いていた。
ゆっくり見えただけだったのかもしれない。
クラリスには、何もできなかった。
「足を捻れ!」
石工が叫ぶ。
「無理だ!」
「膝をこっちへ!」
若い男が身体を捻る。
石工が足元の石を蹴り飛ばした。
一つ。
もう一つ。
脚がわずかに動く。
その上で、岩を支えていた部分が大きく砕けた。
クラリスにも分かった。
落ちる。
巨大な岩がさらに前へ傾く。
下端の一角だけが、岩壁側に残った小さな突起へ引っかかった。
それ以外の支えは、もう見当たらない。
石工は若い男の肩を掴んだまま、岩を見上げた。
逃げる時間はない。
男が片腕を上げた。
何かを支えようとしたわけではなかったのかもしれない。
ただ、頭上へ腕を出した。
その瞬間。
岩が止まった。
クラリスは息をすることさえ忘れた。
大きく前へ傾いた岩が、下端の一角だけを小さな突起へ掛けたまま静止している。
岩の下から砂が落ち続けていた。
小石も落ちる。
支えになっているように見える突起は、岩の大きさに比べればあまりにも小さい。
それでも、岩は動かなかった。
一呼吸。
二呼吸。
誰も動かなかった。
「何してる!」
石工の怒声が響いた。
若い男が我に返る。
石工がもう一度脚を引いた。
「捻れ!」
男が身体を捻る。
石の間から靴が抜けた。
「走れ!」
二人が転がるように岩の下から離れる。
ローウェンが若い男の腕を掴み、さらに引いた。
石工も地面を蹴った。
全員が岩壁から数歩離れた、その時だった。
止まっていた岩が動いた。
下端に残っていた一角が突起から外れた。
先ほどまで保たれていたことなどなかったように、巨大な岩が真下へ落ちる。
地面が揺れた。
耳を塞ぎたくなるほどの轟音が響く。
砂埃が一気に広がり、クラリスは腕で顔を覆った。
馬が激しく嘶いた。
手綱を握りしめる。
何も見えない。
ただ、砕けた石が転がる音だけが、しばらく山の中に続いていた。
◇
砂埃が薄れるまで、誰も口を開かなかった。
最初に見えたのは、ローウェンだった。
若い男を岩壁から離れた場所へ座らせている。
「怪我は?」
「足が……少し」
若い男は自分の脚を押さえた。
靴は擦れていたが、立てないほどではないらしい。
次に、石工の姿が見えた。
少し離れた地面へ片膝をついている。
クラリスは馬の手綱を近くの岩へ掛け、走った。
「大丈夫ですか」
石工は返事をしなかった。
先ほど岩へ向けて上げていた手を見ている。
怪我をした様子はない。
血も出ていない。
男は指を曲げ、開いた。
もう一度、曲げる。
「手を痛めましたか?」
クラリスが尋ねる。
「いや」
「では――」
「触ってない」
石工が言った。
クラリスは黙った。
男は自分の手を見たまま、もう一度言う。
「あの岩には、触ってない」
ローウェンがこちらへ歩いてきた。
「私にも、そう見えました」
石工が顔を上げる。
「見たのか」
「ええ」
「岩が?」
ローウェンはすぐには答えなかった。
少し離れたところでは、昨日の女が立ち尽くしている。
背負籠を地面へ置いたことにも気づいていないようだった。
他の石工たちも、崩れた岩と男を交互に見ている。
クラリスは落ちた岩へ目を向けた。
大きかった。
人の背丈よりはるかに高く、地面へ激突した部分は砕けている。
あれが、そのまま落ちていたら。
考えるのをやめた。
代わりに、直前の光景を思い出す。
岩が傾いた。
支えが砕けた。
下端の一角だけが、小さな突起へ残った。
そして。
止まった。
「出っ張りに掛かったんじゃないのか」
仲間の一人が言った。
石工が崩れた岩壁を見る。
「あれじゃ支えられん」
「でも止まった」
「分かってる」
「だったら――」
「分からん」
石工の声が強くなった。
仲間が黙る。
男は立ち上がり、落ちた岩を見た。
「俺は、落ちると思った」
誰も何も言わない。
「あの大きさで、あの掛かり方なら落ちる。止まるはずがない」
石工は自分の手を見る。
「なのに止まった」
昨日、男は言っていた。
分からない石は叩かない。
クラリスはその言葉を思い出した。
今、男は長い年月をかけて知ってきた石を前にしている。
その男自身が、分からないと言っていた。
◇
しばらくして、若い男が自分の足で立ち上がった。
痛みはあるらしいが、歩くことはできる。
それを確認すると、石工たちの間からようやく安堵の息が漏れた。
誰かが笑いかけたが、声にはならなかった。
普段なら、助かったことを喜んで終わったのかもしれない。
だが、誰も崩れた岩から目を離せずにいた。
クラリスも同じだった。
手帳を取り出す。
開いて。
ペンを持つ。
そこで手が止まった。
何と書けばいい。
『崩落が起きた』
それは書ける。
『一名が岩の下で動けなくなった』
それも事実だ。
『石工が救助した』
間違っていない。
だが、その間に起きたことを、どう記せばいいのか分からなかった。
クラリスは目を閉じた。
見た順番を思い出す。
岩が大きく傾いた。
支えの大半が砕けた。
下端の一角だけが、小さな突起へ掛かった。
石工が腕を上げた。
その状態のまま、岩が止まった。
数呼吸。
二人が逃げた。
その後、岩は落ちた。
クラリスは目を開け、書いた。
『崩落発生。救助中、本来なら支えきれない状態に見えた岩が一時停止した。停止後、再び落下。原因不明。』
読み返す。
石工なら、もっと正確に書けるのかもしれない。
どれほどの重さがあり、どこに力がかかり、なぜあの突起では支えられないのか。
だが今、自分に書けるのは見たことだけだった。
「クラリス」
ローウェンが隣に立っていた。
「はい」
「私も見ました」
クラリスは手帳から顔を上げる。
ローウェンは落ちた岩を見ている。
「あの岩は、止まりました」
「……はい」
「少なくとも、私はそう見ました」
クラリスは自分の書いた文字へ目を戻した。
少し離れた場所では、昨日の女が石工へ何かを尋ねている。
声は聞こえない。
石工は首を横へ振った。
女も崩れた岩を見る。
その表情には、恐怖とも驚きとも違うものがあった。
知っている言葉の中から、目の前で起きたことに合うものを探しているように見えた。
クラリスはペンを持ち直した。
『原因不明。』
その後ろには、何も書かなかった。
精霊。
昨日まで何度も耳にしてきた言葉が頭に浮かんだ。
けれど、それを書く理由はない。
石工は祈っていなかった。
何かを唱えたわけでもない。
岩へ触れてすらいなかった。
ただ、目の前で人を助けようとしていた。
そして、本来なら支えきれないはずの岩が止まった。
クラリスは手帳を閉じた。
山には風が吹いていた。
草も揺れている。
遠くでは水の流れる音がする。
いつもと同じ山だった。
ただ一つだけ。
今、自分たちが見たものだけが、これまで知っていたどの説明にも収まらなかった。
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