第21話 十五年前と現在
その夜、クラリスは火のそばで手帳を広げていた。
陽が落ちる前に見つけた岩陰は、二人と二頭の馬が夜を越すには十分な広さがあった。背後を岩壁に守られ、風もそれほど強くない。火の向こうではローウェンが馬具を確かめている。
夕食を終えてから、クラリスは今日までの記録を最初から読み返していた。
旧王道から分かれた細い道。
西へ進むにつれて聞こえなくなった鳥の声。
山で仕事をする石工たち。
そして、山や岩、水や風に精霊がいると語った女。
どれも、それだけなら珍しい話ではない。
山には山の暮らしがあり、土地ごとの言い伝えがある。鳥の姿が見えなくなることにも、人間の知らない理由はいくらでも考えられる。
クラリスは頁を一枚戻した。
そこには、十五年前に集落の長老から聞いた証言が記されている。
エストラド、プレアリア、バルク。
別々に集落へ到着した三国の一行が、一つの隊列となって西へ向かったこと。
国旗を外していたこと。
西から現れた灰色の男が、三国の代表者と話していたこと。
そして男が残した木板によって、今、自分たちがこの道を進んでいること。
そこまでは繋がっている。
だが、十五年前と現在の間には、まだ大きな空白があった。
クラリスは新しい頁を開いた。
上の方へ、小さく書く。
『十五年前』
少し間を空け、その下へもう一つ。
『現在』
それぞれの下に、確かめられたことだけを書き出していく。
十五年前――三国の一行が西へ進んだ。
現在――同じ方向へ続く道で、鳥の声が途切れている。
筆が止まった。
並べてみると近く見える。
けれど、近く見えることと、関係があることは違う。
「整理できましたか」
ローウェンの声に顔を上げる。
いつの間にか馬具の確認を終え、向かい側へ腰を下ろしていた。
「整理したつもりなんですけど」
クラリスは手帳を見た。
「余計に分からなくなりました」
「それなら、順調でしょう」
「そういうものですか?」
「調べている途中で何もかも綺麗に繋がる方が、私は怖いですね」
ローウェンは火へ小枝を一本放り込んだ。
炎がわずかに高くなる。
クラリスはもう一度、二つの見出しへ目を落とした。
十五年前。
現在。
同じ頁の上にはある。
だが、その間にはまだ一本の線も引けなかった。
◇
火が小さくなる頃、クラリスは集落で聞いたもう一つの話へ戻っていた。
十五年前、三国の代表者と、それぞれの国から選ばれた書記が一つの卓を囲んだ夜のことだ。
そこに広げられていたのは、普通の地図ではなかった。
川も山も街道も描かれていない。
複数の線と、三つの印。
そして会談では、長老の記憶に残る言葉が交わされていた。
どの国が先に知ったかは関係ない。
どの国のものかを争っている場合ではない。
三国がそれぞれ確かめなければならない。
クラリスは手帳の記録を指で追った。
「やっぱり、ここが気になります」
ローウェンが火の向こうから覗き込む。
「三国の会談ですか」
「はい」
クラリスは頁を彼の方へ向けた。
「父たちは、何かを確かめるために西へ向かった」
「少なくとも、そう受け取れる証言ではあります」
「三国が別々に同じものを知っていたのか、それとも違うものを持ち寄ったのかも分かりません」
「ええ」
「何を確かめようとしていたのかも」
ローウェンは頷いた。
長老が見たのは会談の断片だけだった。
三つの印が何を示していたのかも分からない。
三国の代表者たちが、それ以前に何を知っていたのかも分からない。
確かなのは、その話し合いのあと三国が国旗を外し、一つの隊列となって西へ向かったことだけだ。
クラリスは『十五年前』の下へ書き加えた。
『三国が何かを確かめるため、西へ向かった可能性。対象は不明。』
ペン先が止まる。
「ローウェンさん」
「はい」
「もし、父たちが確かめようとしていたものが、一度きりの出来事ではなかったとしたら?」
ローウェンはすぐには答えなかった。
「今の鳥のことと結びつけますか」
「まだ結びつけません」
クラリスは首を横に振った。
「鳥がいないだけなら、いくらでも理由は考えられます。でも、十五年前に父たちがこの方向へ何かを確かめに来ていて、今、私たちも同じ道で説明できないことに出会っている」
言葉にすると、それでも薄い。
十五年という時間を繋ぐには、あまりにも足りなかった。
「偶然かもしれません」
「その通りです」
「でも、別のものだと決めてしまう理由もない」
ローウェンは火を見つめながら、少し考えた。
「では、両方を見ましょう」
「両方?」
「十五年前の足跡と、現在の山です」
クラリスは手帳へ視線を戻した。
父の答えだけを探すのではない。
今、自分の目の前にあるものも見る。
それなら、できる。
そして今のところ、それ以上のことをするべきでもないのだろう。
◇
翌朝も、鳥の声はしなかった。
二人は夜明けとともに野営地を離れ、西へ向かった。
空には薄い雲が広がっていたが、雨の気配はない。朝の風は冷たく、馬の吐く息が一瞬だけ白く見える場所もあった。
道の周囲には低い草が生え、岩の割れ目には小さな植物が根を張っている。虫の姿もあり、水の流れる細い沢もあった。
クラリスはそれらを見ながら進んだ。
鳥だけがいない。
だからといって、山全体から生き物が消えているわけではなかった。
「昨日より先へ来ましたが、変わりませんね」
クラリスが言う。
「鳥ですか」
「はい」
ローウェンは空を見上げた。
「姿も見ません」
「私もです」
クラリスは手帳を取り出さなかった。
すでに記録している。
同じことを書き続けても、新しい情報にはならない。
道はやがて緩やかな登りとなり、左右の岩が大きくなっていった。
ところどころに、人が歩いた跡がある。
昨日の女が言っていたように、道端へ寄せられた石もあった。誰がやったのかは分からないが、人がこの道を使っていることだけは確かだった。
しばらく進んだ時、クラリスが顔を上げた。
遠くから音がする。
乾いた、硬い音。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
「聞こえますか」
「ええ」
ローウェンも前を見た。
金属が石を叩く音だった。
クラリスには聞き覚えがある。
「昨日の人たちでしょうか」
「行ってみれば分かります」
二頭の馬を進める。
音は少しずつ近くなった。
道が岩壁を回り込んだところで、人影が見えた。
数人の男たちが、道の先の岩場に集まっている。
その中央にいた男を、クラリスはすぐに見つけた。
昨日、亀裂の入った岩を割っていた石工だった。
男もこちらへ気づいた。
一度だけクラリスたちを見たあと、すぐ岩へ視線を戻す。
「また会いましたね」
クラリスが声をかけると、男は槌を手にしたまま答えた。
「山じゃ、道が少ないからな」
それだけ言って、岩肌へ近づいていく。
昨日と変わらない。
石を見て。
触れて。
軽く叩く。
長く仕事を続けてきた人間の、ごく普通の朝だった。
◇
石工たちが作業している場所では、道が少し狭くなっていた。
右手は岩壁、左手は緩い斜面になっている。大きな岩を割っているわけではなく、道へ張り出した部分や、上から落ちてきた小石を片づけているようだった。
クラリスとローウェンは邪魔にならない場所へ馬を寄せた。
その時、少し離れた岩の上から声がした。
「また会ったね」
振り向く。
昨日、精霊の話を聞かせてくれた女が座っていた。背負籠を足元へ置き、石工たちの作業が終わるのを待っているらしい。
「こんにちは」
クラリスが頭を下げる。
「ずいぶん先まで来るんだね」
「もう少し西へ行くつもりです」
「仕事熱心なことで」
女は笑った。
クラリスも少し笑い返した。
「あなたも西へ?」
「この道を使うだけさ。あそこを通れるようになるまで待ってる」
女が顎で石工たちを示す。
特別なことではないらしい。
道を使う人間がいて、危険な場所を直す人間がいる。
昨日見たのと同じ、山の日常だった。
クラリスは石工へ目を戻した。
男は岩壁の前でしゃがみ込み、地面へ手を置いていた。
やがて立ち上がり、仲間の一人へ声をかける。
「こっちは触るな。下だけ片づける」
「上は?」
「今日はやらない」
「危ないのか」
「分からんから、やらない」
仲間はそれ以上聞かず、別の場所へ移った。
クラリスは思わず、昨日の言葉を思い出す。
分からない石は叩かない。
男にとっては、格言でも教訓でもないのだろう。
ただ仕事をするための判断だった。
その一方で、岩の上に座る女は、山には精霊がいると語る。
同じ山を見ながら、二人は違う言葉を使っている。
けれど、どちらも目の前の岩を軽く扱ってはいなかった。
「不思議です」
クラリスが呟いた。
ローウェンが隣で尋ねる。
「何がですか」
「昨日までは、精霊の話と石工さんの仕事は、別々のものだと思っていました」
「今は?」
クラリスは少し考えた。
「まだ別々です」
ローウェンが僅かに笑った。
「そうでしょうね」
クラリスも笑った。
「ただ、同じ山を見て生まれたものなのかもしれないと思っただけです」
それ以上は言わなかった。
信仰も。
経験も。
十五年前の記録も。
今の静けさも。
見えているものを急いで一つの答えにする必要はない。
石工の槌が、乾いた音を響かせた。
◇
作業が続く間、クラリスは道脇の平たい岩へ腰を下ろした。
ローウェンは少し離れた場所で馬の様子を見ている。
クラリスは手帳を開いた。
昨夜書いた二つの見出しが、そのまま残っている。
『十五年前』
『現在』
十五年前の下には、三国の一行、灰色の男、木板、そして三国が何かを確かめようとしていたという証言。
現在の下には、鳥の声が途切れた場所と、山に暮らす人々から聞いた精霊の伝承。
クラリスはしばらく頁を眺めた。
これまでは、十五年前の出来事を追えば、その先に父の消息があると思っていた。
今も、それは変わらない。
父たちがどこへ行ったのか。
何を見たのか。
なぜ帰らなかったのか。
それを知るために、ここまで来た。
だが、その道の上で起きていることを、過去とは関係がないものとして通り過ぎていいのだろうか。
クラリスは『現在』の下へ一行を書き加えた。
『十五年前との関係――不明。継続して観察する。』
書いた文字を見つめる。
これなら事実を越えてはいない。
関係があるとは書いていない。
ないとも書いていない。
ローウェンが戻ってきた。
「何を書いたんですか」
クラリスは手帳を見せる。
ローウェンは一読し、小さく頷いた。
「いいと思います」
「父たちが見たものは、まだ終わっていないんでしょうか」
今度の問いに、ローウェンはすぐには答えなかった。
前方では石工たちが仕事をしている。
少し離れた岩の上では、昨日の女が空を見ながら待っている。
風が吹き、草が揺れる。
それでも鳥の声は聞こえない。
「その可能性を調べるところまで、来たのかもしれません」
ローウェンはそう答えた。
断定ではなかった。
クラリスには、それで十分だった。
十五年前の事件を追うこと。
現在の山を見ること。
昨日までは、別々の仕事だった。
今は少しだけ違う。
どちらか一方を見落とせば、もう一方も見誤るかもしれない。
クラリスは手帳を閉じた。
その時、石工の声が飛んだ。
「そこ、少し離れてろ」
仲間たちが岩壁から距離を取る。
昨日の女も立ち上がり、背負籠を持って数歩下がった。
クラリスとローウェンも馬のそばへ移動する。
石工は岩の前へ立った。
すぐに槌を振るうことはせず、亀裂へ指を添え、上を見て、足元を確かめる。
昨日と同じだった。
何度も見てきた、ごく普通の仕事。
クラリスはその姿を見ながら、ふと手帳へ触れた。
十五年前と現在。
その間に線を引くには、まだ何も足りない。
だが、別々の頁へ閉じてしまうには、二つは少し近づきすぎていた。
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