第20.5話
宿の女主人が、空になった皿を取りに来た時だった。
クラリスは食堂の隅で、昼間に聞いた話を手帳へ書き直していた。
向かいにはローウェンがいる。こちらも何かの書類を読んでいて、二人の卓だけがまだ仕事場のようだった。
「ねえ、お姉ちゃん」
声をかけたのは、女主人の後ろについてきた少女だった。
十歳になるかどうかという年頃だろう。
クラリスはペンを止めた。
「はい?」
「外交官なんでしょ?」
「そうですよ」
少女は少し考えてから、クラリスの隣の椅子へ手をかけた。
「何する人?」
クラリスは答えようとして、止まった。
国と国の間で交渉を行う者。
必要ならそう説明できる。
けれど、それで目の前の少女に伝わる気はしなかった。
「外国の人と話をする仕事です」
「何を話すの?」
「いろいろです」
「いろいろって?」
クラリスはまた止まった。
向かいで、紙をめくる音がした。
ローウェンは顔を上げない。
「……困っていることとか。これからどうするかとか」
「喧嘩した時も?」
「そういう時もあります」
「喧嘩、強い?」
今度こそ、クラリスは答えに詰まった。
ローウェンの紙をめくる音が、一瞬だけ止まった。
「喧嘩をしないようにする仕事、と言った方が近いですね」
「じゃあ弱いんだ」
「どうしてそうなるんですか」
思わず聞き返すと、少女が笑った。
ローウェンがとうとう書類で口元を隠した。
クラリスはそちらを見る。
「ローウェンさん」
「何でしょう」
「今、笑いました?」
「いいえ」
絶対に笑っていた。
少女はそんな二人を交互に見てから、今度は卓上の手帳を指した。
「それ、何書いてるの?」
「今日聞いたことです。忘れないように」
「全部?」
「できるだけ」
「今日のご飯も?」
「それは書きません」
「おいしかったのに?」
クラリスは、空になった自分の皿を見た。
山で採れたという茸を煮込んだ料理だった。王都では食べたことのない香りがして、パンまで追加している。
「……おいしかったですね」
「おかわりしてた」
「見てたんですか?」
少女が大きく頷いた。
また、向かいから小さな音がした。
今度は間違いなく笑い声だった。
「ローウェンさん」
「私は何も」
「まだ何も言ってません」
クラリスが睨むと、ローウェンはようやく書類を下ろした。
少女はますます楽しそうだった。
「外国にも、おいしいものある?」
「ありますよ」
「いっぱい?」
「たぶん」
「食べた?」
クラリスは少しだけ考えた。
これまで仕事で口にしたものを思い出す。
知らない香辛料。
見たことのない焼き方をした肉。
土地ごとに違うパン。
名前を聞いても最後まで覚えられなかった菓子。
「はい。いろいろ食べました」
「じゃあ外交官、いいね」
あまりに迷いのない結論だったので、クラリスは笑ってしまった。
「それだけで決める仕事ではないと思います」
「でも、お姉ちゃん楽しそう」
クラリスの笑みが、わずかに止まった。
少女はもう別のことに興味を移したらしく、母親に呼ばれて椅子から手を離した。
「おやすみ、外交官のお姉ちゃん」
「おやすみなさい」
少女が食堂の奥へ消えていく。
静かになった卓で、クラリスは開いたままの手帳へ目を落とした。
そこには今日聞いた山の話が並んでいる。
精霊。
岩。
分からないことばかりだった。
「楽しそうに見えるそうですよ」
ローウェンが言った。
「子供の言うことです」
クラリスはペンを持ち直した。
「それに、食べ物の話をしていただけです」
「そういうことにしておきましょう」
「そういうことです」
クラリスは手帳へ目を戻した。
しばらく止まっていたペン先が、また紙の上を走り始めた。
「続きも読みたい!」と思っていただけたら、ブックマークや★★★★★で応援していただけるとうれしいです!




