第20話 精霊の山
山へ入る人々と別れてから、道はしばらく岩の斜面を縫うように続いていた。
木々はさらに少なくなり、代わりに低い草と灰色の岩が目立つようになっている。ところどころで地面そのものが大きな岩盤となり、馬の蹄が触れるたび、乾いた音を返した。
西へ進むにつれて空は広くなったが、山の向こうまで見通せるわけではない。尾根と尾根が幾重にも重なり、その間を細い道が折れながら奥へ消えている。
クラリスは手綱を握りながら、時折空を見上げていた。
鳥は、やはりいない。
石工たちと別れるまでは、そのことばかりが気になっていた。
今は別のものが耳に残っていた。
――分からない石は叩かない。
先ほど出会った石工の言葉だった。
危険な岩を見抜きながらも、彼は何でも分かるとは言わなかった。
クラリスは鞍の脇に収めた手帳へ目を落とした。
鳥がいない。
十五年前、父たちがこの先へ向かった。
その二つが同じ場所に重なっているからといって、すぐに結びつけてはいけない。
「何か見えましたか」
前を行くローウェンが振り返った。
「いえ。考えていただけです」
「鳥のことを?」
「それもあります」
クラリスは少し笑った。
「さっきの石工さんの言葉が、少し残っていて」
「分からない石は叩かない、ですか」
「はい」
ローウェンは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。
その時、前方の岩陰から人影が現れた。
クラリスは手綱を引いた。
背負籠を背負った、年嵩の女だった。
こちらに気づいた女も足を止めたが、驚いた様子はない。二頭の馬と二人の服装を順に眺め、それから道の脇へ身体を寄せた。
「先へ行くのかい」
「はい」
ローウェンが答える。
「通らせていただいても?」
「道は私のものじゃないよ」
女はそう言って笑った。
クラリスとローウェンは馬を進めかけた。
その時だった。
女が、二人の背後へ目をやった。
「ずいぶん静かなところを通ってきたね」
クラリスは思わず手綱を止めた。
「……静かなところ?」
女は山の斜面を見上げた。
「鳥が鳴かないだろう」
◇
クラリスとローウェンは馬を降りた。
道端には腰を下ろせそうな平たい岩があり、女は背負籠をそこへ置いた。長く山道を歩いてきたのか、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。
「いつから鳥がいないんですか」
クラリスが尋ねると、女は少し考えた。
「いつから、と言われると困るね」
「最近ではない?」
「それも分からない」
意外な答えだった。
女は背負籠から水筒を出し、一口飲んだ。
「山にいると、毎日同じところばかり見ているわけじゃない。昨日は東へ行った。今日は西へ行った。雨が降れば出ない日もある。鳥だって、いつも同じ場所にいるわけじゃない」
「では、鳥が少ないこと自体は以前から?」
「少ない日があったことなら、いくらでもあるよ」
クラリスは手帳を出しかけ、止めた。
それだけでは記録にならない。
女がその様子を見て笑う。
「何を調べてるんだい」
ローウェンが調査命令書を見せた。
「十五年前、この辺りを西へ向かった人々を調べています」
「十五年前」
「三つの国から来た人々が、一つの隊列になっていたと考えられています」
女の表情がわずかに変わった。
だが、何かを思い出したというより、話の大きさに驚いたようだった。
「そんな昔の旅人まで追ってるのか」
「はい」
クラリスが答える。
「父が、その中にいました」
「そうかい」
女はそれ以上、父について尋ねなかった。
しばらく山の斜面を眺めたあと、ぽつりと言う。
「なら、ここでは昔の話をいろいろ聞くだろうね」
「昔の話?」
「山の話さ」
女は足元の岩を軽く叩いた。
「山には精霊がいる。岩にもいる。水にも風にもいる。子どもの頃には、そんな話を散々聞かされたよ」
クラリスは女を見た。
精霊。
その言葉そのものは珍しくない。
王都でも、昔話や古い言い伝えの中で耳にする言葉だった。
ただ、目の前に広がる山と結びつけて語られると、少し印象が違った。
「この山では、精霊を信じている人が多いんですか」
女は首を傾げた。
「信じる、っていうのがどのくらいかにもよるね」
そう言って、足元の石を見た。
「石を割る時は石を見る。雨が降りそうなら空を見る。腹が減れば飯を食う。それで困らない」
クラリスは思わず笑った。
女も笑う。
「でも、山には人間の都合じゃどうにもならないことがある。だから昔の人は、それを精霊の仕業だと言ったんだろうさ」
◇
女の話し方には、熱心な信仰者らしいところはなかった。
かといって、昔話を馬鹿にしているわけでもない。
長く使ってきた道具について話すように、精霊という言葉を口にしている。
「精霊は、どんなことをするんですか」
クラリスが尋ねた。
「さてね」
女は肩をすくめる。
「昔話なら何でもするよ。道に迷った人間を帰したとも、逆に霧の中へ連れていったともいう。岩が崩れれば山が怒ったと言うし、無事に帰ってくれば精霊に守られたと言う」
「同じ山で、ですか」
「人間の話なんて、そんなものだろう」
女はあっさり答えた。
「助かった者は守られたと言う。怪我をした者は怒らせたと言う。何も起きなければ、誰も話にはしない」
ローウェンが静かに尋ねる。
「あなた自身は、どう考えているのですか」
女はすぐには答えなかった。
風が尾根を越え、乾いた草を揺らした。
「いるかもしれないと思ってるよ」
やがて女は言った。
「いないとも言い切れない」
「では、この辺りで鳥が鳴かないことも?」
クラリスが尋ねる。
女は西の空を見た。
「精霊のせいか、って?」
「そう考える人もいるのでしょうか」
「いるだろうね」
女はそこで言葉を切った。
「でも、私は知らない」
その答えは迷いなく出た。
「鳥のことは鳥に聞かなきゃ分からない。餌がないのかもしれないし、別の場所に集まっているのかもしれない。人間が知らないだけの理由なんて、山にはいくらでもある」
クラリスは手帳を開いた。
しばらく考えたあと、一行だけ書く。
『当地では山・岩などに精霊を語る伝承あり。ただし鳥の減少との関係は不明。』
書き終えてから、その一文を読み返した。
精霊という言葉を知っていることと、山で起きていることを知っていることは、どうやら同じではないらしい。
クラリスは手帳を閉じた。
◇
話を終える頃には、陽はさらに低くなっていた。
女も同じ方向へしばらく進むというので、三人は道を歩いた。
クラリスとローウェンは馬の手綱を引き、女の歩調に合わせる。
山道には、人の手が入った痕跡がところどころに残っていた。転がった石が道脇へ寄せられ、踏みやすい場所だけ土が固くなっている。誰が整えたのか分からない程度の、小さな手入ればかりだった。
女は途中、道の中央へ転がっていた拳ほどの石を拾い、何気なく脇へ放った。
「こういうのを放っておくと、馬が脚を取られる」
それだけ言って、また歩き出す。
精霊がいると語られる山であっても、目の前の石は人の手でどける。
クラリスはその後ろ姿をしばらく見ていた。
「先ほど、石を割っている人たちに会いました」
「ああ。この先の岩場で?」
「はい。一人、とても石を見るのが上手な人がいました」
「石を見ない石工じゃ困るよ」
また当然のように返され、クラリスは笑った。
「その方も、精霊を信じているんでしょうか」
「本人に聞いた方がいい」
女は少し考えてから続けた。
「信じていたって、仕事は仕事さ。精霊がいるから岩が落ちない、なんて考えていたら長生きできない」
ローウェンが小さく笑った。
「ずいぶん現実的ですね」
「山が現実的だからね」
女は足元を確かめながら歩く。
クラリスは周囲を見回した。
道脇へ寄せられた石。人の足で踏み固められた土。雨水を逃がすために掘られたらしい浅い溝。
どれも小さなものだったが、この道を使う人間が手を入れ続けてきた痕跡だった。
昔話の中では、精霊が人を守る。
現実の山道では、人が石をどけ、道を直し、自分の足で歩いている。
その二つは、この土地では矛盾していないらしい。
やがて道の先で、女が立ち止まった。
「私はここから外れるよ」
岩の間に、人ひとりが通れるほどの踏み跡が延びている。
先ほどの石工たちが入っていった道とは別の方角だった。
クラリスは一礼した。
「ありがとうございました」
「大した話はしてないよ」
女は背負籠を背負い直した。
「昔話を聞きたいなら、山にはいくらでもある。信じるかどうかは、自分で決めればいい」
そう言って歩き出しかけたところで、クラリスが呼び止めた。
「もう一つだけ、いいですか」
女が振り返る。
「十五年前のことです」
◇
女は踏み跡の入口に立ったまま、クラリスの次の言葉を待った。
「十五年前、この山で何か変わったことはありませんでしたか」
尋ねてから、クラリスは質問が広すぎたことに気づいた。
それでも女は笑わなかった。
「変わったこと、ねえ」
視線を山へ向ける。
長い沈黙があった。
「十五年前なら、私はもうここにいたよ」
クラリスは黙って待った。
「だから何か覚えている、と言いたいところだけどね」
女は腕を組んだ。
「雨の多い年もあった。崩れた道もあった。獣を見なくなった場所もあれば、次の年には戻ってきた場所もある。山なんて毎年どこかが違う」
「では、今のように鳥がいなかったことは?」
「分からない」
女ははっきり答えた。
「一日だけ静かな日があったとして、十五年も覚えていると思うかい?」
クラリスは答えられなかった。
父たちがこの道を歩いた。
十五年前に何かが起きた。
そして今、鳥がいない。
事件を追っている自分には、その三つがどうしても同じ線の上にあるように見えてしまう。
だが、この山で十五年間暮らしてきた人にとっては、その間に雨も降り、岩も崩れ、獣も移り、数えきれない日々が過ぎている。
「昔のことは、あとから意味がつくこともある」
女が言った。
クラリスは顔を上げた。
「あとから?」
「何かが起きると、人は昔のことを思い出すんだよ。そういえば、あの日も鳥が鳴かなかった。あの時も風がおかしかった。そんなふうにね」
女は少し困ったように笑った。
「本当にそうだったのかもしれない。でも、あとからそう思っただけかもしれない」
ローウェンは何も口を挟まなかった。
クラリスも、しばらく黙っていた。
やがて手帳を開きかけ、そのまま閉じる。
証言として残すには、曖昧すぎる。
けれど、忘れてはいけない話だとも思った。
「ありがとうございます」
「役に立ったのかい」
「はい」
クラリスは頷いた。
「昔のことを調べる時に、気をつけなければならないことを聞けました」
女はクラリスをしばらく見て、それから笑った。
「変な役人だね」
「よく言われます」
ローウェンが横から言う。
「初めて聞きました」
「ローウェンさん」
女は二人を見て、まだ笑っていた。
やがて手を上げ、岩の間の踏み跡へ入っていく。
数歩進んだところで、ふと振り返った。
「嬢ちゃん」
「はい」
「精霊の話を知っているからって、精霊のことまで知っているわけじゃないよ」
クラリスは女を見つめた。
女はそれ以上何も言わず、岩陰の向こうへ姿を消した。
二人だけになった道へ、風が吹き抜ける。
クラリスは西を見た。
山は何も答えない。
鳥が消えた理由も。
十五年前に父たちが見たものも。
精霊について語られてきた話の、どこまでが確かなものなのかも。
ただ一つ、これまでとは違う重さを持った言葉が残った。
精霊。
幼い頃から耳にしてきた言葉だった。
それなのに今は、以前より少しだけ遠い言葉に思えた。
「行きましょうか」
ローウェンが言った。
「はい」
二人は再び馬へ跨がった。
西へ続く山道を、蹄の音がゆっくりと進んでいく。
その日も最後まで、鳥の声は聞こえなかった。
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