第19話 山へ入る人々
尾根を越えてから、道は少しずつ岩の多い斜面へ入っていった。
昨日まで周囲を覆っていた木々はまだ残っているものの、その間隔は明らかに広くなっている。土の上には大小の石が転がり、ところどころで灰色の岩肌が地表へ露出していた。
クラリスは馬を慎重に進めながら、足元と前方を交互に見る。
道そのものは続いている。
草の間に残る踏み跡も、まだ消えてはいない。
ただ、森の中を進んでいた時とは違い、少しずつ空が広くなっていた。木々の隙間から見える西の斜面は高く、その向こうにも岩の多い土地が幾重にも重なっている。
鳥の声は、朝から一度も聞こえていなかった。
クラリスはそれを手帳へ書き加えようとはしなかった。昨日からすでに記録している。今のところ、新しく分かったことはない。
「道が悪くなってきましたね」
クラリスが言うと、前を行くローウェンが振り返った。
「馬を急がせない方がよさそうです」
「はい」
二頭の馬は、岩を避けながらゆっくりと斜面を上っていく。
しばらく進んだところで、クラリスは顔を上げた。
音がした。
乾いた、硬い音。
少し間を置いて、もう一度。
風に揺れる枝の音ではない。
金属が石へ当たるような響きだった。
「ローウェンさん」
「聞こえています」
二人は馬を止めた。
音は西寄りの斜面から聞こえてくる。
一定ではない。二度続いたかと思えば途切れ、しばらくすると再び響く。
ローウェンは周囲を見回した。
「人がいるようですね」
「行ってみますか」
「道から大きく外れないなら」
二人は再び馬を進めた。
道はやがて岩壁に沿うように曲がった。
その先で、初めて人影が見えた。
何人かの人間が、道脇の岩場に集まっている。
派手な服装ではない。荷の中には縄や鉄の道具が見え、背負籠を下ろしている者もいた。
旅人には見えなかった。
二人に気づいた一人が作業の手を止める。
それにつられて、何人かが顔を上げた。
ローウェンは先に馬を止めた。
「仕事中に失礼します」
男が二人の姿を見、それから馬へ目を向けた。
「この先へ行くのか」
「そのつもりです」
ローウェンが答える。
男は道の先を一度見た。
「なら、少し待った方がいい」
クラリスもそちらを見る。
道の脇には、人の背丈を超える岩が斜面から張り出していた。
その下で、一人の男が岩肌をじっと見ている。
手には、小さな槌が握られていた。
◇
男はすぐには槌を振るわなかった。
岩の前へ立ち、表面へ顔を近づける。指先で深く走った亀裂をなぞったあと、少し離れて全体を見上げた。
やがて槌を軽く当てる。
乾いた音が響く。
位置を変えて、もう一度。
今度は少し低い音だった。
クラリスは馬上から、その様子を眺めていた。
男は岩の周囲を半周すると、足元の小石を退けた。別の者が鉄の楔を持って近づこうとしたが、男は片手を上げて止める。
「そこじゃない」
短く言って、張り出した岩の下部を指す。
「こっちへ入れろ。上を先に割ると残った方が落ちる」
楔を持った者が場所を変えた。
男はさらに別の場所を示す。
「もう一本、こっちだ」
二本の楔が、もともと走っていた亀裂に沿って打ち込まれていく。
男は縄を見て言った。
「縄もそっちじゃない。割れた時に引かれる」
言われた男が縄を掛け直し、岩が動くと見込まれる側を避けて張り直した。
それを確かめてから、男は自分の槌を構える。
楔を交互に叩く音が、岩場へ響いた。
何度も打っては亀裂を確かめ、位置を変える。すぐに割れる様子はない。
やがて、亀裂の一部がわずかに広がった。
男は手を止め、割れ目へ顔を近づける。
「離れろ」
周囲の者たちが数歩下がった。
男はもう一度二本の楔を確かめると、その片方へ槌を振り下ろした。
一度。
続けて、もう一度。
鈍い音とともに、すでに亀裂の入っていた張り出し部分が岩本体から割れ、斜面側へ傾いた。
張り直されていた縄が動きを抑える。
割れた岩は道へ転がることなく、その場で止まった。
クラリスは思わず息を吐いた。
男は岩へ近づき、割れた面を確かめる。
「これでいい」
周囲にいた者たちが再び動き始めた。
縄を掛け直し、小さくなった岩を道の外へ移していく。
ローウェンが馬を降りた。
クラリスもそれに続く。
先ほど二人へ声をかけた男が言った。
「もう通れる。馬なら一頭ずつだ」
「ありがとうございます」
クラリスは頭を下げた。
その間も、槌を持った男は別の岩を見ていた。
クラリスは少し迷ってから声をかける。
「今の、どうして分かったんですか」
男が振り返った。
「何がだ」
「どこへ楔を入れればいいのか。それに、どちらへ岩が動くのかも」
男は自分が割った岩を見る。
「亀裂がある」
「それだけで?」
「それだけじゃない」
男は槌の柄で岩を指した。
「割れ目の向きと、上に乗っている重さ。それから、下でどこが支えているかを見る」
クラリスも岩を見る。
言われれば亀裂は見える。
だが、そこから先は分からない。
男はもう一度、槌で岩を軽く叩いた。
「音も違う」
クラリスには、先ほど聞いた二つの音の違いしか分からなかった。
「長くやっていると、分かるものなんですか」
男は少し考えた。
「分からない時もある」
そう言って、次の岩へ歩いていった。
「だから、分からない石は叩かない」
◇
作業が一段落するまで、クラリスとローウェンは道脇で待つことにした。
馬へ水を与えていると、先ほどの男たちもそれぞれ荷をまとめ始める。岩を割っていた男は槌や楔を布で拭い、他の道具と一緒に収めていた。
山の中へ仕事に入る者たちらしい。
縄。
槌。
楔。
背負籠。
どれも珍しいものではない。
だが、クラリスには先ほどの岩の見方が印象に残っていた。
同じ岩を見ていたはずなのに、自分には一本の亀裂しか見えなかった。
あの男には、重さや支え方まで見えていた。
ローウェンが作業を終えた男へ近づいた。
「少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
男は荷を背負いながら二人を見る。
「何だ」
ローウェンは調査命令書を取り出し、必要な部分だけを見せた。
「エストラド王国外交局の者です。十五年前にこの辺りを通った人々について調べています」
男は文書へ目を落としたあと、ローウェンへ返した。
「十五年前?」
「はい」
今度はクラリスが口を開く。
「三つの国から来た人たちが、一つの隊列になって西へ向かいました。三十人より多く、馬はそれ以上いたそうです。国旗は外されていました」
男はしばらく考えた。
だが、やがて首を横へ振る。
「心当たりはない」
クラリスは小さく頷いた。
「そうですか」
「十五年前の旅人を、一人ずつ覚えているわけじゃない」
「もちろんです」
クラリスは手帳を取り出したが、男の名前を尋ねることはしなかった。
得られた情報はない。
それも結果だった。
ローウェンが尋ねる。
「この先にも、人が暮らしている場所はありますか」
男はすぐには答えず、道の先へ目を向けた。
「山へ入る人間はいる」
それだけを言った。
具体的な場所や距離までは口にしない。
ローウェンも追及しなかった。
「ありがとうございます」
男は荷を背負い直す。
クラリスは手帳へ短く記した。
『山中で作業する人々と接触。十五年前の一行について心当たりなし。』
書いたところで、男がクラリスの手元を見た。
「何でも書くんだな」
「忘れますから」
クラリスが答える。
男は少しだけ口元を緩めた。
「石も同じだ」
「え?」
「見たつもりでいると、次に見た時には違って見える」
男は先ほど割った岩を指した。
「だから、仕事を始める前にまた見る」
クラリスは手帳から顔を上げた。
男はもう歩き始めていた。
◇
二人は、山へ入る人々としばらく同じ道を進むことになった。
話し合って決めたわけではない。
西へ向かう道が一つしかなく、自然とそうなっただけだった。
先頭を歩く者は背負籠を背負い、その後ろを道具を持った者たちが続く。馬に乗ったクラリスとローウェンは距離を空け、歩調を合わせて進んだ。
岩場へ入るたびに、先ほどの石工が足を止める。
一度は道の中央に転がる小さな石を蹴って脇へ退けただけだった。
別の場所では、何もせずに通り過ぎた。
さらに進んだところで、男が突然立ち止まった。
後ろの者たちも止まる。
クラリスは何事かと前を見る。
道の右側に岩壁がある。
見たところ、それまでと大きな違いはない。
男は岩壁へ近づき、少し上を見た。
それから道の左側を指す。
「寄って通れ」
一人ずつ、岩壁から離れて左側を進み始めた。
クラリスも馬をそちらへ寄せる。
通り過ぎてから振り返ると、男はまだ岩壁を見ていた。
「何かあるんですか」
クラリスが尋ねる。
男は上方を指した。
「浮いている」
見上げる。
大きな岩の下に、黒い筋のような隙間があった。
言われなければ気づかなかっただろう。
「落ちるんですか」
「今日は落ちないかもしれない」
男は答えた。
「明日も落ちないかもしれない」
そこで荷を背負い直す。
「だから真下を歩いていい、とはならない」
クラリスはもう一度岩を見上げた。
「直さないんですか」
「今は道具が足りない。手を出して余計に崩す方が危ない」
淡々とした答えだった。
怖がっているわけでもない。
石を特別なものとして敬っている様子もない。
ただ、危険なものを危険なものとして見ている。
ローウェンがクラリスの隣へ馬を進めた。
「よく見ていますね」
「はい」
クラリスは頷いた。
岩がどこで割れるか。
どちらへ重さが掛かっているか。
何が支えているか。
いつ手を出し、いつ手を出さないか。
男は一度も、自分の勘が特別だとは言わなかった。
長い間、同じものを見続けてきた人間の仕事だった。
やがて道は再び開けた。
西から吹く風が、岩の間を抜けてくる。
人々の足音と、荷の金具が触れ合う音が続いていた。
鳥の声は聞こえなかった。
◇
午後も遅くなった頃、山へ入る人々は道を外れた。
本道と呼べるほど立派なものではないが、クラリスたちが進んできた道から、さらに岩の多い斜面へ細い踏み跡が分かれている。
石工が足を止めた。
「俺たちはこっちだ」
ローウェンも馬を止める。
「私たちは西へ進みます」
男は一度、西へ続く道を見た。
「なら、そのままだ」
クラリスは手帳を閉じ、鞍へしまった。
十五年前の一行について、新しい証言は得られなかった。
けれど、この山が人の暮らしと無縁ではないことは分かった。
道を歩き、石を見て、危険な岩を避け、必要なら割る。
山へ入ることそのものが、彼らにとっては特別な出来事ではない。
クラリスは石工を見る。
「ありがとうございました」
「何も教えてないぞ」
「道を通してもらいました。それに、石の見方も少し」
男は首を横へ振った。
「少し見たくらいじゃ分からない」
「そうですよね」
クラリスは笑った。
男は返事をせず、仲間たちの方へ向き直った。
一人が先に斜面を上り始める。
石工はその足元を見て声をかけた。
「そっちは乗るな。右へ回れ」
言われた者が素直に進路を変える。
クラリスには、何が違うのか最後まで分からなかった。
やがて彼らは岩の向こうへ姿を消していった。
槌や金具の音も、少しずつ遠ざかっていく。
残ったのは、クラリスとローウェンの二人だった。
「行きましょうか」
クラリスが言う。
「ええ」
二頭の馬が西へ歩き始める。
しばらく進んだところで、クラリスは振り返った。
先ほどまで人々がいた斜面は、もう岩の陰に隠れている。
十五年前の三国合同隊がどこを通ったのかは、まだ分からない。
この先に何があるのかも分からない。
その一方で、今この山では、人々が石を割り、道を歩き、いつもの仕事を続けている。
十五年前を追う旅と、今ここで営まれている日常。
その二つが、同じ山の中にあった。
クラリスは前へ向き直る。
西へ続く道には、二頭の馬の足音だけが響いていた。
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