第18話 旧王道へ
朝日が森の梢を越え、細い道へ斜めに差し込んでいた。
昨夜は、大岩のそばで野営した。
焚き火の跡へ土をかけ、灰を土で覆う。
ローウェンが火の気が残っていないことを確かめると、小さく頷いた。
「これでよし。」
クラリスも荷をまとめ、馬の背へ鞍袋を固定する。
革袋の中では、長老から託された木板が静かに収まっていた。
十五年前。
父たちも、この板を手に旅を続けたのだろうか。
「行きましょう。」
クラリスは馬の手綱を取った。
二人は再び、西へ向かって歩き始める。
細道は森の奥へ続いていた。
枝葉が頭上を覆い、朝だというのに薄暗い。
朝露をまとった草が、馬の脚へ触れる。
風は弱く。
聞こえるのは、草を踏み分ける音と、ときおり鳥が羽ばたく音だけだった。
「十五年前も。」
クラリスが前を見たまま言う。
「父たちは、この道を歩いたのでしょうか。」
「木板が同じなら。」
ローウェンは頷いた。
「おそらく。」
それ以上は続けなかった。
答えを知る者は、もう誰もいない。
二人は言葉を交わさず、歩みを進める。
しばらくすると、道を塞ぐように一本の倒木が現れた。
幹は太く。
馬では乗り越えられない。
クラリスは足を止め、倒木の先へ目を向けた。
森は静まり返っている。
風も届かない。
「回りましょう。」
左側へ視線を移した、その時だった。
ローウェンが倒木の根元へ近づく。
しゃがみ込み、静かに木肌へ触れた。
「切られています。」
クラリスも近寄る。
倒木の根元には、斧で切ったような跡が残っていた。
新しくはない。
木口は黒く変色し、長い年月を経ていることが分かる。
だが、自然に倒れた木ではなかった。
「誰かが道を塞いだ。」
クラリスが呟く。
ローウェンは首を横へ振る。
「違います。」
倒木の脇を指差した。
そこだけ枝が払われ、人ひとりと馬一頭が通れる幅だけ残されている。
草も踏み固められ、かすかな道になっていた。
クラリスは細く残された道を見つめる。
偶然ではない。
通れる者だけが通れるように。
そう考えて残されたような幅だった。
「木板。」
クラリスは革袋へ手を添えた。
「あれがなければ。」
「私たちは、ここまで来なかったでしょう。」
ローウェンは静かに頷く。
二人は馬から少し離れ、枝が引っ掛からないよう手綱を引きながら倒木の脇を抜けていく。
馬も狭さを感じたのか、慎重に足を運んでいた。
倒木を越えると、再び細い道が西へ続いている。
森は何事もなかったように静まり返っていた。
◇
倒木を越えると、道は再び森の奥へ続いていた。
木漏れ日が揺れ。
足元には落ち葉が積もっている。
人の気配はない。
それでも。
歩き続けるうちに、クラリスは違和感を覚え始めた。
「……不思議ですね。」
前を歩くローウェンが振り返る。
「何がですか。」
「この道です。」
クラリスは周囲を見回した。
「人が歩いていないように見えるのに。」
「消えていません。」
ローウェンも足元へ目を落とす。
草は伸びている。
落ち葉も積もっている。
それなのに。
道だけは、人ひとりが歩ける幅を保っていた。
「普通なら。」
ローウェンが静かに言う。
「十数年も使われなければ、もっと荒れます。」
クラリスは小さく頷いた。
道の両脇では若木が伸び始めている。
それでも道の上だけは、大きな木が育っていない。
誰かが切ったのか。
それとも。
別の理由があるのか。
答えは見つからなかった。
二人は馬を進める。
やがて、小さな沢へ行き当たった。
橋はなかった。
幅は飛び越えられるほどではない。
馬を渡すには、水へ入るしかない。
「少し見てきます。」
ローウェンは馬を預けると、沢沿いを歩き始めた。
水音だけが静かな森へ響く。
ほどなくして、声が返ってきた。
「こちらへ。」
クラリスが馬を引いて向かう。
そこには、浅瀬があった。
底には平たい石がいくつも並べられている。
自然に転がったものではない。
人が足場として置いた石だった。
ローウェンは一つの石へ足を乗せる。
ぐらつかない。
長い年月を経ても、しっかりと据えられていた。
「橋を架けなかったのですね。」
クラリスが呟く。
「橋は目立ちます。」
ローウェンは川面を見つめた。
「ですが、これなら。」
「遠くからは気付きません。」
クラリスも石へ足を乗せる。
靴底の下で、水が静かに流れていく。
馬は一瞬ためらったが、二人が先に渡ると、後を追うように浅瀬へ足を踏み入れた。
水しぶきが小さく跳ねる。
やがて四頭の脚は無事に対岸へ届いた。
土の上へ上がったクラリスは、何気なく足元へ目を落とす。
そこには、細かな蹄の跡が残っていた。
新しくはない。
雨で半ば消えかけている。
それでも。
蹄鉄の形だけは、かすかに土の上へ残されていた。
◇
沢を渡ってしばらく進むと、森が少しだけ開けた。
陽光が地面へ届き、一面に短い草が広がっている。
近くでは小鳥が枝から枝へ飛び移り、どこかで虫の羽音が聞こえていた。
「ここで休みましょう。」
ローウェンが言った。
クラリスも頷く。
二人は馬から荷を下ろし、水を飲ませる。
馬たちは鼻を寄せ合い、静かに草を食み始めた。
長旅にも慣れたのか、昨日までより落ち着いて見える。
クラリスはその首筋を軽く撫でる。
「あなたも、ずいぶん旅人らしくなりましたね。」
馬は小さく鼻を鳴らした。
ローウェンが、その様子を見て笑う。
「気に入られていますね。」
「そうでしょうか。」
「ええ。」
「旅では、人より先に馬が相手を選びます。」
クラリスは少し照れたように笑った。
革袋から干し肉と黒パンを取り出す。
旅へ出てから、何度も口にした昼食だった。
「王都では。」
クラリスが黒パンを割りながら言う。
「こんなに黒パンを食べることはありませんでした。」
「外交局の食堂は、少々贅沢ですから。」
ローウェンも小さく笑った。
「局長が食には厳しい方でした。」
「ああ。」
クラリスも思い出す。
「厨房の方が、新しい料理を出すたびに局長へ感想を聞きに来ていましたね。」
「ええ。」
「味が落ちると、すぐ分かるそうです。」
「一度だけ。」
ローウェンが懐かしそうに目を細める。
「料理人が塩を入れ忘れたことがありました。」
クラリスは思わず笑う。
「局長は何と。」
「『今日は疲れているのですか。』と。」
「怒りはしませんでした。」
「ですが。」
「翌日には、きちんと塩が利いていました。」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
森を渡る風が心地よい。
束の間、十五年前のことも。
旧王道のことも頭から離れていた。
しばらくして。
クラリスは手にした黒パンを見つめる。
「父も。」
ぽつりと呟く。
「旅先で、こんな昼食を取っていたのでしょうね。」
「そうでしょう。」
ローウェンは頷く。
「外交官の旅は、華やかなものではありません。」
「馬に揺られ。」
「歩き。」
「同じような食事を繰り返す。」
「それでも。」
クラリスは顔を上げる。
「誰かと向き合うためには。」
「まず、その土地を歩かなければならない。」
クラリスは静かに頷いた。
食事を終えたローウェンが立ち上がる。
馬へ近づき、手綱を取ろうとした時だった。
「……クラリスさん。」
視線は地面へ向いている。
クラリスも立ち上がり、歩み寄る。
草の間に、小さな石が半ば埋まっていた。
踏まれた跡がある。
その表面には。
一本の細い線が刻まれていた。
石積み。
木の幹。
そして今度は、小さな石。
また一つ。
同じ印が残されていた。
◇
休息を終えた二人は、再び西へ向かった。
森は次第に深くなり、木々の間を吹き抜ける風も冷たさを帯び始める。
細道は尾根へ向かってゆるやかに続いていた。
ときおり木漏れ日が差し込むものの、足元は薄暗い。
馬も自然と歩みを緩めていた。
「気付きましたか。」
ローウェンが歩きながら言った。
「何をですか。」
「これまで見つけた印です。」
石積み。
木の幹。
小さな石。
クラリスは一つずつ思い浮かべる。
「どれも一本線でした。」
「ええ。」
ローウェンは頷く。
「ですが。」
「向きが違います。」
クラリスは足を止めた。
「向き。」
ローウェンは近くの地面へ枝を走らせる。
一本の線を描く。
続いて、少し角度を変えてもう一本。
さらに角度を変えて一本。
「石積み。」
「木。」
「先ほどの石。」
「同じ印ですが。」
「どれも少しずつ向きが違っていました。」
クラリスは枝で描かれた線を見つめる。
偶然。
そう片づけるには、数が多い。
「方角を示しているのでしょうか。」
「まだ分かりません。」
ローウェンは枝を置いた。
「ですが。」
「意味のない違いとは思えません。」
二人は再び歩き始めた。
しばらくすると。
道は再び左右へ分かれていた。
左は緩やかな下り坂。
右は尾根へ向かう登り坂。
どちらにも、人が通ったような跡が残っている。
クラリスは革袋から木板を取り出した。
一本の線。
その先に、小さな円。
景色へ重ねる。
左では合わない。
右でも合わない。
立つ位置を少し変える。
さらに半歩。
息を止める。
その時だった。
円が、尾根の上へ突き出た一本の枯れ木と重なった。
「ここです。」
クラリスが静かに言う。
ローウェンも木板を見つめ、小さく頷いた。
クラリスは木板を革袋へ戻す。
二人は枯れ木へ近づいた。
幹へ手を添える。
ざらついた樹皮の奥に。
風雨で丸くなりながらも、一本の細い傷だけが残されていた。
クラリスは指先でそっとなぞる。
十五年前。
父たちも、この傷へ気付いたのだろうか。
そのまま何も言わず。
二人は馬の手綱を引き、尾根へ続く道を静かに登り始めた。
◇
尾根へ続く道は、思っていた以上に険しかった。
馬を降り。
二人は手綱を引きながら、一歩ずつ登っていく。
木々の間から吹く風は冷たく。
汗ばんだ頬を静かに撫でた。
やがて。
視界が開ける。
二人は尾根の上へ辿り着いた。
クラリスは思わず足を止める。
「これは……。」
森が途切れ。
西の山並みが幾重にも重なっていた。
その谷間を縫うように。
一本の細い道が続いている。
遠くから見れば、獣道と見間違えてしまいそうな細さだった。
「旧王道。」
ローウェンが静かに呟く。
「いえ。」
クラリスは首を横へ振った。
「あれは違います。」
旧王道ほど広くはない。
荷馬車も通れそうにない。
それでも。
山肌へ一本の筋を描くように、道は西へ伸びていた。
クラリスは革袋へ手を添える。
木板がなければ。
あの道を見つけることはなかっただろう。
その時だった。
尾根を渡る風が、突然強く吹き抜けた。
草が大きく揺れる。
乾いた葉が舞い上がり、クラリスの足元を流れていく。
その下から。
石が覗いた。
「……ローウェンさん。」
二人はしゃがみ込み、周囲の土を払う。
少しずつ姿を現したのは、人の膝ほどの高さしかない古い道標だった。
苔に覆われ。
半ば土へ埋もれている。
正面には、風雨で薄れた一本線。
側面には。
円のような彫り跡が、かすかに残っていた。
ローウェンは静かに道標へ手を添える。
何も言わない。
クラリスもまた、道標から視線を上げた。
夕日に照らされた細道は。
山並みの向こうへ静かに消えている。
その先には。
まだ見ぬ景色が待っていた。
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