第17話 景色を重ねる板
朝露をまとった草が、足元で静かに揺れていた。
家々の煙突から立ち上る煙が朝の空へ溶けていく。鶏の鳴き声に混じって、遠くで馬が鼻を鳴らす音が聞こえた。
クラリスは馬の鞍を確かめ、革袋の口を締めた。その中には、長老から託された木板が納められている。
「準備はよろしいですか」
ローウェンが馬を引いて近づく。
「はい。できれば、日が高くなる前に山を越えたいですね」
クラリスは小さく頷いた。
「そのつもりです」
二人は馬へ荷を積み終えると、長老の家へ向かった。
戸口では、長老が静かに待っていた。
「もう、お発ちになるのですね」
「はい」
クラリスは頭を下げる。
「長い間、お世話になりました」
「こちらこそ。まさか、レオン殿のお嬢さんと話せる日が来るとは思いませんでした」
長老は穏やかに笑った。
その言葉に、クラリスも微笑んだ。
「父がここでお世話になったことも、昨日まで知りませんでした」
長老は小さく頷いた。
しばらく三人は黙って山道を眺めた。朝日が尾根を越え、旧王道を淡く照らしている。
「そうだ」
長老が思い出したように口を開いた。
「昨日、お話しし忘れていたことがあります」
クラリスとローウェンが顔を向ける。
「ほんの些細なことです」
「お父上のことですか」
「ええ。出発の朝、皆が馬や荷の準備をしている間、お父上だけが少し離れた場所へ歩いて行かれました」
「離れた場所へ?」
「集落の西外れです。道端に、小さな白い山花が咲いておりました」
クラリスは静かに耳を傾ける。
「お父上は、その花をしばらく眺めておられました」
「花を……」
「ええ。毎年、春になると咲く花です」
長老は目を細めた。
「ずっと忘れていたのですが、不思議と昨夜から、その光景だけが何度も浮かぶのです」
ローウェンが尋ねる。
「何か言っておられましたか」
長老は首を横へ振った。
「いいえ。何も。ただ、花を見て、静かに笑っておられました」
父は何を思って、その花を見ていたのだろう。
答えは分からない。だが、その姿を覚えていてくれた人がいる。それだけで胸が少し温かくなった。
「ありがとうございます」
クラリスは深く頭を下げた。
「それも、父の足跡ですね」
長老は頷いた。
「ええ。レオン殿のことは、これからも忘れません」
クラリスは馬へ跨り、ローウェンもそれに続いた。
長老は杖をつき、一歩前へ出る。
「どうか、ご無事で。父たちの歩いた道を、最後まで見届けてください」
「はい」
クラリスは真っ直ぐ頷いた。
二頭の馬はゆっくりと歩き始める。
朝日に照らされた旧王道へ。
十五年前、父たちが歩いた、その道へ。
◇
集落を離れると、旧王道はゆるやかに山肌を縫っていた。
両脇には背の高い木々が並び、朝の光が葉の隙間から細く差し込んでいる。馬の蹄が石を踏む音だけが、静かな山道へ響いていた。
しばらく進んだところで、ローウェンが歩調を緩める。
「少し見せていただけますか」
クラリスは頷き、革袋から木板を取り出した。
長老から託された一枚。
十五年前、西から来た男が残したものだった。
馬上で並んで眺める。表面に刻まれているのは一本の細い線と、その先にある小さな円。それだけだった。
「やはり、簡単な地図でしょうか」
クラリスが言うと、ローウェンは首を横へ振った。
「私も最初はそう思いました。ですが、妙なのです」
木板を受け取り、光へかざす。木目に沿って指を滑らせながら、ローウェンは続けた。
「地図なら縮尺があります。川や山、村など、何かしら基準になるものも描かれる」
クラリスも改めて木板を見る。
確かに、線と円しかない。
「これでは、どこを示しているのか分かりません」
「言われてみれば……方向も書かれていません」
「ええ。普通の地図ではありません」
クラリスは木板を縦にし、横にし、逆さにもしてみた。どの向きから見ても印象は変わらない。
二人はそのまま馬を進めた。
木々の間を風が吹き抜ける。鳥の声が一度だけ響き、また静けさが戻った。
「ですが、だからこそ一つ思ったことがあります」
ローウェンが再び口を開いた。
「何でしょう」
「これは、目的地を示すものではないのかもしれません」
クラリスは隣を見る。
「目的地ではない?」
「ええ。むしろ、歩き方を示すもの」
クラリスは木板を見つめた。
目的地ではなく、そこへ至る道。
「もしそうなら、この先で分かるかもしれません」
ローウェンは木板を返した。
「この板は、どこへ行くかではなく、どこで進路を変えるかを示している」
クラリスは革袋へ木板を戻した。
その時、道の脇に積まれた石へ、ふと視線が止まる。
人の腰ほどの高さで、自然に崩れたようにも見える。しかし、一番上の石だけが不自然なほど平らだった。
「ローウェンさん」
「ええ」
二人は馬を止め、石積みの前へ歩み寄った。
風雨に削られてはいるものの、平らな面には人の手で刻まれたような細い傷が一本だけ残っている。
ローウェンは指先でなぞった。
「自然の傷……でしょうか」
クラリスも屈み込む。
「分かりません」
二人は顔を見合わせた。
十五年前、この道を歩いた者たちも、この石を見ていたのかもしれない。
◇
昼が近づく頃には、山道の勾配も緩やかになっていた。
木々の間から吹き抜ける風は涼しく、夏の日差しを和らげている。旧王道は、人の往来が絶えて久しいとは思えないほど形を残していた。
石は苔に覆われながらも並び、道幅も馬が二頭並んで歩けるだけの広さがある。
「思ったより残っていますね。ここまで形が残っているとは思いませんでした」
クラリスが周囲を見回す。
「人が使わなくなれば、道は森へ還ります。ですが、この道は違う」
ローウェンは前方を見据えたまま答えた。
「誰かが手入れをしているのでしょうか」
「……そこまでは分かりません」
二人は馬を降り、少し歩くことにした。蹄よりも、自分の足で踏みしめた方が分かることもある。
クラリスは土へ目を落とした。
乾いた土に小石と落ち葉。どれも旅では見慣れたものだった。
「父も、ここを歩いたんですね」
「ええ」
ローウェンも足を止めない。
「私も、その頃は外交局へ入ったばかりでした」
クラリスは少し驚いた。
「父をご存じだったんですか」
「何度か廊下ですれ違う程度です」
ローウェンは苦笑する。
「若手には近寄り難い方でした」
クラリスは思わず笑った。
「家では、そんなことありませんでした」
「そうでしょうね」
「帰ると、よく庭の手入れをしていました。花も好きでした」
その言葉に、自分で少し驚く。
長老が話していた白い花と、それを見つめていたという父の姿が自然と重なった。
「外交官という仕事は、旅先だけでは分かりません」
ローウェンが静かに言う。
「帰った後の暮らしがあるからこそ、また旅へ出られる」
クラリスは小さく頷いた。
父も、きっとそうだった。
王都へ帰り、家族と食卓を囲み、また次の任務へ向かう。その繰り返しだったはずだ。
二人が再び馬へ戻ろうとした時、クラリスの視線が道端の一本の木で止まった。
幹に、小さな傷がある。
自然に裂けたものではない。刃物で刻まれたような、細い一本線だった。
「ローウェンさん」
ローウェンも近づき、しばらく無言で傷を見つめた。
「新しい傷ではありません」
指先でそっとなぞる。表面は風雨で丸くなっていた。
「ですが、先ほどの石と」
「同じですね」
クラリスも頷く。
一本だけ。
意味があるのか、偶然なのか。まだ分からない。
それでも、十五年前の足跡を追う旅を始めてから、これで二つ目の“不自然”だった。
クラリスは革袋の中の木板へ手を添えた。
この道は、まだ何かを隠している。
◇
午後の日差しが西へ傾き始めていた。
旧王道は尾根沿いを進み、やがて緩やかな下り坂へ変わる。
その先で、クラリスは馬を止めた。
「……分かれ道」
道は二つに分かれていた。
一方は旧王道らしく広く、石畳の跡も残っていて、荷馬車でも通れそうな幅がある。
もう一方は細い。草に覆われ、人ひとりが歩けるほどしかなかった。
「地図にはありませんでした」
クラリスが呟く。
「ええ。少なくとも、私の記憶にはありません」
ローウェンも周囲を見回した。
二人は馬を降りる。
クラリスは革袋から木板を取り出した。
一本の線。その先に、小さな円。
改めて見ても、それだけしか描かれていない。
「試してみましょう」
ローウェンは木板を手にし、広い道へ向けてみた。
何も変わらない。
次に向きを変え、細い道へ合わせる。
その瞬間、クラリスが息を呑んだ。
「円が……」
木板の円が、細い道の先に立つ一本の大木と重なっていた。
ローウェンはゆっくり木板を下ろし、もう一度合わせる。
やはり同じだった。
「地図ではありません」
静かな声だった。
「景色を重ねる板です」
クラリスは木板を受け取った。
立つ位置を少し変えると、重ならない。元の場所へ戻れば、再び大木と円が重なる。
「ここへ立つことまで、考えて作られています」
ローウェンは頷いた。
「だから、縮尺も方角も必要なかった」
「目印だけで十分だったのですね」
クラリスは細い道を見つめた。
十五年前、父たちもこの場所で立ち止まったのだろうか。
同じ木板を手に、同じ大木を見つめ、同じようにこの細い道を選んだのだろうか。
「進みますか」
ローウェンが尋ねる。
クラリスは迷わなかった。
「はい」
木板を革袋へ戻し、二人は馬の向きを変えた。
広い旧王道を離れ、草に覆われた細い道へ入る。
踏み跡は薄い。
だが、完全に消えてはいない。
誰かが、ときおり通っている。
そんな静かな痕跡だけが残されていた。
◇
細い道へ入ると、森の音が変わった。
鳥の声は遠くなり、代わりに風が梢を揺らす音だけが耳へ届く。
道幅は馬が一頭通るのがやっとだった。枝葉が肩をかすめ、草も深い。それでも、踏み跡は完全には消えていなかった。
「旧王道ではありませんね」
クラリスが周囲を見回す。
「ええ」
ローウェンは足元へ視線を落とした。
「獣道ではありません」
二人は慎重に馬を進める。
やがて木々が途切れ、小さな開けた場所へ出た。
そこには、大きな岩が横たわっていた。
自然の岩だったが、その表面だけは不自然なほど平らに削られている。風雨にさらされ、表面は白く擦れていた。
クラリスは馬を降り、岩へ近づいた。
その中央には、細い溝が一本、まっすぐ西を指すように刻まれている。
「これも……」
ローウェンが屈み込み、指先で溝をなぞった。
何も言わない。
クラリスは木板を取り出し、岩の前へ立って静かに掲げた。
円は、岩の向こうに立つ一本杉とぴたりと重なった。
ローウェンと目が合う。
言葉はなかった。
木板を下ろしたクラリスは、岩の反対側へ回った。
その時だった。
足元で、小さく乾いた音がした。
見下ろすと、土の中から何かが半ば露出している。
しゃがみ込み、そっと土を払う。
現れたのは、鉄だった。
錆びつき、赤黒く変色した小さな金具。
ローウェンも隣へ来る。
「馬具でしょうか」
クラリスは慎重に拾い上げた。土を払うと、革紐を通すための輪が見えた。
「古いですね」
ローウェンは静かに頷いた。
夕日が森の向こうへ沈み始め、木々の影が長く伸びていく。
クラリスは金具を革袋へしまい、もう一度西を見つめた。
森は、何事もなかったように夕闇へ沈み始めていた。
その静けさだけが、この道を歩いた者たちの行方を何も語ろうとはしなかった。
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