第16話 名のない使節団
翌朝。
集落には、薄い霧が残っていた。
家々の煙突から立ち上る煙が、木々の間へ静かに溶けていく。
クラリスは長老の家の前で、鞍袋を整えていた。
今日から、さらに西へ進む。
その準備を終えた時だった。
「クラリス殿。」
背後から、長老の声がした。
振り返ると、老人は杖を手に、家の入口に立っていた。
「少し、お時間をいただけますか。」
その表情は、昨夜とは違っていた。
穏やかではある。
だが、何かを決めた者の目だった。
クラリスは鞍袋から手を離す。
「もちろんです。」
ローウェンも近づいてきた。
二人が家へ戻ると、長老は囲炉裏の前へ腰を下ろした。
火はまだ小さい。
昨夜の灰の下で、赤い炭だけが静かに残っている。
長老はしばらく、その火を見つめていた。
「昨夜。」
「私は、知っていることはすべてお話ししたつもりでした。」
クラリスは黙って耳を傾ける。
「ですが。」
長老はゆっくり顔を上げた。
「あなたのお父上の名を聞いてから、思い出したことがあります。」
クラリスの指先が、わずかに動く。
「父のことですか。」
「ええ。」
長老は頷いた。
「十五年前。」
「あの方々がこの集落へ来た時、私はまだ長老ではありませんでした。」
「集落の馬と道を管理する役目を任されていたのです。」
当時の長老は別にいた。
目の前の老人は、その補佐として旅人を迎えていたという。
「大勢の人々が来たと、昨夜お話ししました。」
「ですが。」
長老は静かに首を横へ振る。
「一度に来たのではありません。」
クラリスとローウェンは顔を見合わせた。
「別々に来たのですか。」
ローウェンが尋ねる。
「はい。」
「最初に来たのは、王国の一行でした。」
長老の声が、十五年前をたどっていく。
「荷馬車が三台。」
「護衛を含めて、二十人ほど。」
「先頭にいたのが、レオン・ヴァイン殿でした。」
クラリスは息を止めた。
父がこの集落へ到着した日のことを。
目の前の老人は、覚えている。
「父は、何か話していましたか。」
「西へ向かう、とだけ。」
長老は答えた。
「目的は話しませんでした。」
「ですが、ただの外交使節には見えませんでした。」
「どういう意味でしょう。」
「荷が少なかったのです。」
長老は指を折りながら続ける。
「長い旅にしては食料が少ない。」
「贈答品もない。」
「国旗も掲げていない。」
「それなのに、書記と護衛は多かった。」
外交使節団であれば、相手国へ示す旗や贈答品を携える。
それがなかった。
「隠れて移動していた。」
クラリスが言う。
長老は小さく頷いた。
「少なくとも。」
「誰かに見られたくはなかったのでしょう。」
囲炉裏の炭が、小さく崩れた。
「そして。」
長老は続ける。
「王国の一行が到着した翌日。」
「草原から、別の一団が来ました。」
クラリスの表情が引き締まる。
「プレアリア。」
「ええ。」
「彼らは王国の一行を見た瞬間、武器へ手を掛けました。」
昨日まで味方であった者同士ではない。
互いに警戒し。
互いの目的すら知らず。
三国の者たちは、この集落へ集められていた。
「争いになったのですか。」
クラリスが尋ねる。
長老は首を横へ振った。
「なりませんでした。」
「お父上が、二つの一団の間へ立ったからです。」
◇
十五年前。
プレアリアの一団が集落へ入った時。
広場の空気は、一瞬で変わったという。
十数頭の馬。
草原での長旅に適した、軽い革鎧。
腰には湾曲した剣。
背には弓。
先頭を進む男が手を上げると、一団は音もなく広場で止まった。
エストラドの護衛たちも、すぐに動いた。
馬車を囲み。
槍を構え。
プレアリアの騎兵たちと向かい合った。
「誰も、互いが来ることを知らなかったようでした。」
長老は語る。
「少なくとも、護衛たちは。」
「では、代表者だけが知っていた。」
ローウェンが言う。
「おそらく。」
長老は頷いた。
プレアリアの一団から、一人の男が前へ出た。
髪には白いものが混じっていたが、背筋は伸びている。
武器には触れず。
ただ、エストラドの馬車を見つめていた。
その前へ歩み出たのが、レオンだった。
「父は、何と。」
クラリスが尋ねる。
長老は少し考えた。
「正確な言葉までは覚えていません。」
「ですが。」
老人の口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「まず、馬へ水を飲ませよう。」
「そう言いました。」
クラリスは目を瞬いた。
ローウェンが小さく笑う。
「レオン殿らしい。」
互いに武器を構えている者たちへ。
国の事情でも。
使節の目的でもなく。
馬の話をした。
「プレアリアの男は、しばらくお父上を見ていました。」
「そして。」
長老は右手を胸へ当てる仕草をした。
「草原の礼を返しました。」
その一言で。
張り詰めていた弦が、わずかに緩んだ。
プレアリアの者たちは馬を水場へ連れていき。
エストラドの護衛たちも、槍を下ろした。
だが。
互いに言葉を交わす者はいなかった。
同じ集落にいながら。
広場の東と西へ分かれ。
夕食も別々に取った。
「その夜は、何も起きませんでした。」
「ですが、誰も眠ってはいなかったでしょう。」
長老の声に、当時の緊張が蘇る。
そして翌朝。
北側の旧道から、三つ目の一団が現れた。
荷を背負った馬。
厚い外套。
鉄で補強された革鎧。
バルクの者たちだった。
「北の人々も、他の二国がいるとは知らなかったようです。」
三つの国。
三つの護衛。
三つの代表。
広場は、再び武器を構える者たちで埋まった。
「その時は、さすがに争いになると思いました。」
長老は苦く笑う。
「プレアリアの者は、バルクの者を睨み。」
「バルクの者は、王国の馬車を調べようとした。」
「王国の護衛は、その間へ入ろうとした。」
誰かが剣を抜けば。
その場で三国の争いが始まっていた。
「父は。」
クラリスが静かに尋ねた。
「今度は、何をしたのですか。」
長老はクラリスを見た。
「三国の代表者を。」
「自分たちが泊まっていた家へ招きました。」
「護衛は、一人も入れずに。」
ローウェンの眉が動く。
「危険なことを。」
「ええ。」
長老も頷いた。
「私たちも止めました。」
「ですが、レオン殿は笑っておられました。」
老人は、遠い日の声を思い出すように目を細める。
「武器を持たずに話せない者が。」
「武器を持って話せるはずがない。」
「そう言って。」
クラリスは俯いた。
聞いたことのない父の言葉だった。
だが。
父なら、そう言ったのかもしれない。
「三人は、昼を過ぎても出てきませんでした。」
長老は続ける。
「何を話していたのか。」
「私たちには分かりません。」
「ただ。」
「夕暮れ前に扉が開いた時。」
「三人は、同じ卓で食事を取ることを決めていました。」
◇
その日の夕食は、集落の広場で用意された。
長い卓が三つ。
本来は、国ごとに分けるつもりだった。
だが。
レオンは、そのうち二つを片づけるよう頼んだ。
残されたのは、一つだけ。
「三国の者を、同じ卓へ座らせたのです。」
長老は言う。
最初に席へ着いたのは、三人の代表だった。
レオン。
プレアリアの男。
バルクの女。
その左右へ、それぞれの護衛が座った。
誰も隣国の者へ背中を向けなかった。
剣は腰に残したまま。
食器へ伸ばす手すら、互いを警戒していた。
「会話は、ほとんどありませんでした。」
長老は苦笑する。
「食事の音だけが聞こえていました。」
肉を切る音。
木椀を置く音。
馬が鼻を鳴らす音。
誰も口を開かないまま、時間だけが過ぎていく。
やがて。
プレアリアの若い戦士が、卓上の黒パンを手に取った。
硬く焼かれた、エストラド式のパンだった。
戦士は少し齧ると、顔をしかめた。
それを見て。
向かい側に座っていたバルクの男が笑った。
「山の石より硬いか。」
プレアリアの戦士は、男を睨んだ。
「石なら、もう少し味がある。」
広場にいた誰もが、息を止めた。
次の瞬間。
バルクの男が声を上げて笑った。
プレアリアの戦士も。
わずかに口元を緩めた。
「それが最初でした。」
長老は言う。
小さな笑いだった。
国を結ぶには、あまりにも些細なものだった。
それでも。
その笑いを境に。
卓の上では、少しずつ言葉が交わされ始めた。
馬の話。
武器の話。
山の寒さ。
草原の風。
互いの国の食事。
政治でも。
歴史でもない。
そこにいた者たち自身の話だった。
「お父上は。」
長老がクラリスを見る。
「ほとんど話しておられませんでした。」
「人の話を聞いていたのですか。」
「ええ。」
「誰かが黙れば話を振り。」
「争いになりそうなら、別の話をした。」
「全員が卓を離れないように。」
クラリスは静かに息を吐いた。
外交局で父の記録を読んだことはある。
交渉結果。
合意内容。
相手国の評価。
だが。
その記録には残らない父の姿が、長老の言葉から見えてくる。
「その夜。」
長老の表情が変わった。
「三国の代表は、再び家へ集まりました。」
今度はレオンだけではない。
各国の書記も、一人ずつ呼ばれた。
卓上には地図が広げられ。
何枚もの文書が並べられた。
「私は、湯を運ぶために中へ入りました。」
長老は杖を握り直す。
「地図を見たのですね。」
ローウェンが尋ねる。
「はい。」
「どこの地図でしたか。」
「分かりません。」
「王国の地図ではありませんでした。」
川。
山。
街道。
いずれも描かれていなかった。
代わりに。
幾本もの線と。
三つの印だけが記されていたという。
「三つの印。」
クラリスが身を乗り出す。
「どのような印ですか。」
長老は卓上へ指を置いた。
一つ。
二つ。
三つ。
互いに離れた場所を示すように、指を置く。
「形は覚えておりません。」
「ですが。」
「それぞれの代表が、自分の前に一つずつ置いていました。」
三国それぞれが持ち寄った何か。
地図なのか。
記録なのか。
あるいは、別のものなのか。
「話していた内容は聞こえましたか。」
ローウェンが尋ねる。
長老は目を閉じた。
「すべてではありません。」
「ですが、何度も同じ言葉が聞こえました。」
囲炉裏の火が、静かに揺れる。
「どの国が先に知ったかは関係ない。」
「どの国のものかを争っている場合ではない。」
「三国が、それぞれ確かめなければならない。」
クラリスは羽根ペンを取った。
その言葉を、羊皮紙へ書き留める。
「何を確かめるのかは。」
「聞こえませんでした。」
長老は首を横へ振った。
「ですが。」
「夜が明ける頃には。」
「三つの一団は、一つになっていました。」
◇
集落へ到着した時。
三国の一行は、互いに別の集団だった。
命令を受けた国も違う。
率いる者も違う。
目的さえ、すべて共有していたとは限らない。
だが。
翌朝。
彼らは一つの列を作った。
先頭には、集落の道案内。
その後ろに、三国の代表者。
さらに書記と護衛が続く。
国ごとに分かれていた馬も荷も、混ざり合っていた。
「どの国の旗もありませんでした。」
長老は語る。
「出発の前に、すべて外されたのです。」
「誰の使節団でもないように。」
クラリスが言う。
「あるいは。」
ローウェンが続けた。
「三国すべての使節団として。」
公式記録には。
エストラド王国第三使節団としか残っていない。
プレアリアの者も。
バルクの者も。
同じ道を進んだことすら、記されていなかった。
「人数を覚えていますか。」
クラリスが尋ねる。
「正確には。」
長老は少し考えた。
「四十人には届かなかったと思います。」
「三十人よりは多かった。」
「馬は。」
「人より多かったでしょう。」
「荷馬もいましたから。」
クラリスは手元の記録を見た。
エストラド第三使節団。
公式名簿に記されていた人数は二十一名。
それだけでは、長老の記憶と合わない。
プレアリアとバルクの同行者を加えれば。
三十人を超える。
「一つ、確認させてください。」
クラリスは長老を見る。
「父たちは、どのような様子で出発しましたか。」
「不安そうでしたか。」
「それとも、急いでいましたか。」
長老はすぐには答えなかった。
十五年前の朝を思い出すように、窓の外へ目を向ける。
「急いではいました。」
「ですが。」
「逃げる者の姿ではありませんでした。」
「では。」
「行かなければならない者たちの顔でした。」
誰かに追われていたのではない。
何かから逃げていたのでもない。
危険を知りながら。
自ら西へ向かった。
「お父上は、出発前に集落を歩いておられました。」
長老は続ける。
「一軒ずつ、礼を述べて回っていた。」
「戻るつもりがなかったのでしょうか。」
クラリスの声が、わずかに低くなる。
「いいえ。」
長老は首を横へ振った。
「戻ると、おっしゃっていました。」
クラリスは顔を上げる。
「父が。」
「ええ。」
「帰りには、王都の菓子を持ってくると。」
老人は小さく笑った。
「この集落の子どもたちへ約束していました。」
父は。
戻るつもりだった。
少なくとも、出発した時には。
死を覚悟した旅ではなかった。
「それでは。」
ローウェンが静かに言う。
「西へ向かった後で、何かが起きた。」
長老は頷いた。
「そうなのでしょう。」
「ただ。」
「出発の直前に、一つだけ妙なことがありました。」
クラリスの手が止まる。
「妙なこと。」
「はい。」
「三国の一行が出発しようとした時。」
長老は声を落とした。
「西から、一人の男が来たのです。」
クラリスとローウェンの視線が、同時に長老へ向く。
「西から。」
「ええ。」
「一人で。」
「馬にも乗らず。」
「旧王道を歩いて来ました。」
男は灰色の外套をまとっていた。
武器は持っていなかった。
荷物も。
旅に必要な水袋すらなかった。
「その男は、父と話したのですか。」
「はい。」
長老は頷いた。
「お父上だけではありません。」
「三国の代表者全員と話しました。」
「何と。」
長老は静かに首を振る。
「遠くて、聞こえませんでした。」
「ですが。」
「男が来るまで動かなかった一行が。」
「話を終えると、すぐに出発しました。」
◇
長老の話が終わっても。
クラリスは、すぐには口を開かなかった。
西から来た男。
三国の代表者と話し。
一行を出発させた人物。
公式記録には存在しない。
長老の記憶にしか残っていない人物だった。
「その男の顔を覚えていますか。」
クラリスが尋ねる。
長老は眉間へ皺を寄せた。
「外套の頭巾を深く被っていました。」
「顔は、ほとんど見えませんでした。」
「声は。」
「低い声でした。」
「ですが、訛りはなかったと思います。」
エストラドでも。
プレアリアでも。
バルクでもない。
「年齢は分かりますか。」
ローウェンが尋ねる。
「若くはありませんでした。」
「ですが、老人でもない。」
「歩き方は、しっかりしていました。」
長老は杖の先で、床を一度叩いた。
「そして。」
「右手に、手袋をしていました。」
「片手だけですか。」
「はい。」
「夏でしたが。」
「右手だけを、革の手袋で隠していました。」
クラリスは羊皮紙へ書き加える。
灰色の外套。
片手の手袋。
西から来た。
三国の代表と面識があった可能性。
「ほかに、何か持っていませんでしたか。」
長老はしばらく黙り込んだ。
やがて。
何かを思い出したように、顔を上げる。
「木の札を。」
「木の札。」
「首から下げていました。」
「小さなものでした。」
「表に、印が刻まれていた。」
クラリスは鞍袋へ手を伸ばした。
中から。
これまでに集めた木片の一つを取り出す。
円の中で交差する、二本の葦。
それを卓上へ置いた瞬間。
長老の目が大きく開いた。
「これです。」
クラリスの呼吸が止まる。
「間違いありませんか。」
「ええ。」
長老は木片へ手を伸ばしかけ。
触れる直前で止めた。
「同じ印でした。」
宿場町を囲んだ者たち。
旧王道へ導いた者たち。
第二中継所へ残された書状。
そして。
十五年前。
三国の一行を西へ導いた男。
一本ずつだった線が。
静かに繋がっていく。
「十五年前から存在していた。」
ローウェンが低く呟く。
クラリスは木片を見つめた。
彼らは。
父たちが失踪する以前から。
旧王道に関わっていた。
「彼らは。」
クラリスが静かに言う。
「十五年前に何が起きたのかを知っています。」
ローウェンは小さく頷いた。
家の外から、馬のいななきが聞こえた。
長老が窓へ目を向ける。
「出発されるのですか。」
クラリスは木片を革袋へ戻した。
「はい。」
「父たちが向かった場所へ行きます。」
長老は静かに頷いた。
そして立ち上がると。
部屋の奥にある古い箱を開く。
中から取り出したのは、一枚の薄い木板だった。
長い年月で黒ずみ。
端にはいくつもの傷が付いている。
「これは。」
クラリスが尋ねる。
「十五年前。」
長老は木板を卓上へ置いた。
「西から来た男が、私に預けたものです。」
クラリスは息を呑んだ。
木板の表には、旧王道を示す細い線。
その先に、小さな円が刻まれている。
「なぜ、今まで。」
ローウェンが尋ねる。
長老は二人を見た。
「男は言いました。」
「ヴァインの名を持つ者が。」
「十五年前を尋ねて来た時だけ渡せ、と。」
囲炉裏の炭が、小さく弾けた。
クラリスは木板から目を離せなかった。
十五年前。
西から来た男は。
ヴァインの名を持つ誰かが、この場所へ辿り着く日を待っていた。
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