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木漏れ日の嘘  作者: reika1021


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第1章:消えた木の朝

夜の湿気がまだ舗装の奥に残っているころ、東京の大通りはいつもより少しだけ静かだった。工事用の白い囲いに沿って立つ大きなケヤキは、街が目を覚ます前の淡い光を受けながら、最後まで自分の場所を譲らないかのように枝を広げていた。


樹守雫葉は作業用手袋をしたまま、そっと幹に手を添えた。樹皮の溝には雨の名残が入り込み、冷たさとざらつきを指先に返してきた。何度も巡回で見慣れた木なのに、その朝は幹が急に遠いもののように思えた。


「おいおい、そんな顔してると俺まで泣きそうになるだろ」


背後から聞こえた声はいつもと同じ軽さを装っていた。朝凪伊吹だ。雫葉は振り返って目尻を少し下げて笑った。


「泣いているのはケヤキの方だよ。ほら、伊吹も触れてみなよ」


「遠慮しとく。俺、こういう立派な木の前だと、反省文を書かされている気分になるから」


「何を反省するの?」


「昨日、休憩中に雫葉のミニあんぱんをひとつ多く食べたこと」


「やっぱりあれ、伊吹だったんだ」


近くで資材を確認していた作業員たちから小さな笑いが起こった。緑景管理の現場で雫葉と伊吹の掛け合いは珍しいものではない。入社以来ずっと同じ班で、剪定バサミの置き場所から休憩中に買う缶コーヒーの好みまで、互いに知らなくてもいいことまで知っている。


誰かが張り詰めた顔をしていれば、どちらかが先に冗談を投げ、もう片方が拾う。それだけで現場の空気は少し柔らかくなる。周囲から見れば、気の合う同期、息の合った漫才コンビ、それ以上でもそれ以下でもないように見える。


しかし、笑い声が薄れていった後、幹に添えた手の温度だけが残り、雫葉は指先で樹皮の細かな破片を払った。手袋越しでも、そこに長く立ってきたものの重さが伝わってくるようだった。


道路拡張工事。説明としては簡単だった。歩道を広げ、見通しを良くし、通行の安全を確保する。そのために、このケヤキは今日、街から姿を消す。


「雫葉」


伊吹の声が少しだけ低くなった。


「無理に笑わなくていいぞ」


雫葉は枝先を見上げた。まだ朝の光は淡く、葉の裏側に触れるたびに緑が薄く透けた。小さな露が一粒、風もないのに落ちて工事用フェンスの金属に当たった。


「無理してないよ」


「してる時の顔だろ、それ」


「観察力を仕事以外で使わないで」


「仕事柄、見えるものは見えるんだよ」


雫葉は返す言葉を探して見つけられず、笑った。伊吹はそういう人だった。人が言葉にする前の疲れや笑いの奥に沈めた痛みに気づくのに、自分のことになると急に何も知らないふりをする。


その不器用さまで知っているから、雫葉はいつも言えなくなる。好きだと気づいている。とっくに気づいている。それでも同期だから、と胸の奥で何度も言い聞かせてきた言葉が今朝は、湿った樹皮みたいに重かった。


朝の空気にチェーンソーの整備音が混じり始め、硬い金属音が一度鳴ってすぐに誰かの咳払いに隠れた。近所の人たちが少しずつ集まり、フェンスの外に距離を取って立っていた。


犬を連れた年配の女性が木の根元をじっと見ている。ランドセルを背負う前の子どもが母親の手を引きながら葉を見上げている。通勤カバンを肩にかけた男性は立ち止まったままスマートフォンを出さず、ただ黙っている。


「この木、人気者だな」


伊吹がフェンスの外を見て言った。雫葉は幹から手を離し、手袋についた細かな樹皮を払った。


「みんな、ちゃんと見てたんだね」


「見てないようで見てるんだろ。木ってそういうところ、あるし」


「木にそういうところって何?」


「普段は背景なのに、なくなる時だけ主役になるところ」


軽口に聞こえるのに、その言葉は妙に胸の真ん中に落ちた。雫葉は伊吹を見た。彼はケヤキではなく、フェンスの外にいる人たちを見ていた。横顔に朝の光が細く差し込み、まつげの影が頬に落ちていた。


その横顔を見慣れていると思っていた。見慣れているから平気だと思っていた。けれど、ふとした角度からだと、知らない人みたいに見えることがある。そのたびに、雫葉は自分の中の何かが静かに一枚だけ剥がれる音を聞く。


「雫葉、道具確認した?」


「したよ。ロープ、カラーコーン、切削範囲の確認、全部」


「さすが。俺の分までしっかりしてる」


「伊吹の分はしていない」


「冷たいな。同期愛はどこに行った?」


「現場の安全管理に変換された」


「それはそれで愛が深いな」


また少し笑いが起きた。雫葉は笑いながら、胸の内側だけが遅れて痛むのを感じた。「同期愛」。その言葉は便利だった。冗談に紛れて何でも包める。近すぎる距離も、長すぎる視線も、帰り道で歩幅が合うことも、全部その箱に入れてしまえば誰にも怪しまれない。


伊吹も同じように笑っていたが、雫葉が目を逸らす前のほんの短い間、彼の瞳だけが少し静かだった。言葉にしないものは、時々こんな風に輪郭だけを持つ。


作業開始前の確認が進み、現場の空気は仕事特有の緊張感に包まれていった。フェンスの外の人々には丁寧に説明がされ、通行路が確保され、枝の落下範囲が示された。雫葉はいつもどおり動いた。動いていれば、気持ちの置き場所を探さずにすむ。


ケヤキの枝は高く、葉はまだみずみずしかった。伐採されると分かっていても木は最後まで生きている。幹の内側では水が通り、枝先では小さな葉が光を受け、根は地中で街の振動を受け止めている。雫葉にはその当たり前のことがひどく残酷に思えた。


「昔さ」


伊吹がロープの状態を見ながら言った。


「この木の下で迷子になったことがあるんだって。さっき外にいたおばあさんが教えてくれた」


「この木の下で?」


「うん。小さいころ、母親とはぐれて泣いてたらしい。そしたら、この木のところで待ってなさいって、誰かに言われたんだって」


「木が目印だったんだ」


「そう。それで、今日なくなるから見に来たんだって」


雫葉はフェンスの外へ目を向けた。犬を連れた女性は、まだそこにいた。犬は退屈そうに足元の匂いを嗅いでいたが、女性の視線は高いところにある木の枝から離れない。


人は、自分の記憶が置かれている場所に案外気づかずに暮らしている。駅の階段、曲がり角の店、雨の日だけ匂いの強くなる土、誰かと並んで歩いた細い道。なくなると聞いて初めて、そこに自分の一部が預けられていたことに気づく。


「そういう話、先に言わないでよ」


「なんで?」


「仕事しづらくなる」


「雫葉は元から仕事しながら泣きそうな顔してるだろ」


「してない」


「してる」


「してないってば」


「じゃあ、していないことにしとく」


その言い方が優しかった。からかっているふりをして、雫葉が引き返せる場所を残してくれる。伊吹はいつもそうだった。踏み込みすぎず、離れすぎず、ちょうどいいところに立つ。だから苦しい。


雫葉は手袋の指先をもう一度払った。樹皮の細かな粉が湿った空気の中でほとんど舞わずに落ちた。自分の気持ちもこんな風に誰にも見えない重さで落ちていけばいいのに、と思った。


作業が始まると、朝の静けさは少しずつ切り分けられていった。枝にロープがかけられ、確認の声が交差し、葉の束がゆっくりと揺れる。切り落とされた枝は、直接地面に落ちないように支えられ、慎重に人の手を介して下ろされていく。


ケヤキは大きかった。一度に失われるのではなく、上の方から少しずつ空へ返されていく。 枝が一本減るたびに、そこにあった緑の密度が薄くなり、背景のビルの壁面が見えてきた。 雫葉は、その白い壁が妙に冷たく感じられた。


「雫葉、そっち持てる?」


「持てる」


「無理すんなよ」


「現場で一番無理してるの、伊吹の軽口でしょ」


「俺の軽口は天然素材だから環境に優しい」


「剪定対象だね」


「切らないで。まだ芽吹くから」


雫葉は思わず笑った。声に出して笑うと、胸の痛みが少しだけ形を変える。笑っていれば楽になるわけではないが、笑いには一瞬だけ自分を外へ逃がす力がある。


伊吹も笑っていた。肩が小さく揺れ、目元に柔らかな線が浮かぶ。その笑い方を雫葉は何度も見てきた。現場で泥だらけになったときも、雨に降られて工具箱を抱えて走ったときも、社内で先輩にからかわれたときも、伊吹は同じように笑っていた。


「付き合えばいいのに」と、何度も言われた言葉がふいに耳の奥で蘇る。雫葉はそのたびに笑って否定してきた。「ないない、同期だから。伊吹とはそういうんじゃないから」と言い慣れた言葉は、言うたびに少しずつ自分の口に馴染んでいき、嘘なのか本当なのかわからなくなっていく。


でも本当は、同期のままでいいなんて一度も思ったことがない。そう気づくたびに雫葉は胸の奥で小さく息を止めた。言葉にした瞬間、今ある日常が別のものになってしまう気がした。


昼の気配が街に広がり、歩道の人通りも増えてきた。バスの排気ガス、コンビニの扉から漏れる揚げ物の香り、濡れた土が日差しで温められて立ち上る匂いが混ざり合い、東京の午前は少しずつ雑多になっていく。


ケヤキの影は枝が減るにつれて形を変え、歩道に落ちていた葉の模様は崩れて白いフェンスの内側にまだらな光だけが残った。雫葉は、その変化を目で追いながら一本の木が街に落としていた静けさの量に初めて気づいた。


「休憩、先に取るか?」


伊吹が缶コーヒーを二本持って近づいてきた。片方を雫葉に差し出した。冷たい缶の表面には水滴が浮いており、手袋を外した指にひやりと触れた。


「ありがとう」


「糖分ありの方。今日は必要そうだから」


「また観察力」


「これは同期としての配慮」


「便利な言葉だね、同期って」


雫葉はそう言ってから、少しだけ後悔した。冗談のつもりで言ったのに、声の底に本音が混じった気がしたのだ。伊吹は缶のプルタブに指をかけたまま、わずかに動きを止めた。


「まあ、便利ではあるな」


「でしょ」


「でも、たまに便利すぎる」


伊吹の声は街の音に紛れそうなほど静かだった。雫葉は缶コーヒーの飲み口を見つめた。開けたばかりの苦い香りが金属の冷たさと一緒に鼻先に届いた。


「どういう意味?」


「さあ、働きすぎで語彙が剪定された」


「そこは残しておいてよ」


「次の現場までに芽吹かせとく」


会話は笑いへと戻った。戻したのは伊吹だったのか、雫葉だったのかわからないが、たぶん両方だろう。危ない場所に指先が触れそうになると、どちらかがすぐに冗談を言う。そうやって、この関係は何度も転ばずに済んできた。


しかし、転ばずに済むこととどこにも進まないことは、似ているようで違う。雫葉は、今日のケヤキを見ながらその違いを嫌になるほど感じていた。守ってきた距離も、いつかは何かの理由で失われるかもしれない。


休憩を終えるころ、日差しはフェンスの白さを少し強く照らしていた。 ビルのガラスに映った空は薄く、雲の形は崩れながら流れていた。 通り向こうでは自転車のブレーキが短く鳴り響き、どこかの店先からは開店準備の水音が聞こえてきた。


作業は幹に近づいていった。枝が少なくなったケヤキは朝よりもずっと細く見えた。実際には太い幹が残っているのに、空を抱えていた部分を失うだけで木はこんなにも違う姿になるのだと、雫葉は胸が少し冷えるのを感じた。


「大丈夫か?」


伊吹が隣に立った。いつの間にか彼は、雫葉の歩幅に合わせるようにして近くにいた。近すぎるわけではない。肩が触れるほどでもない。それなのに、彼の体温がある方向だけ、空気の質が違っていた。


「大丈夫」


「本当に?」


「伊吹、今日それ何回目?」


「数えてないけど、必要な回数」


「過保護」


「現場スタッフの安全確認です」


「便利な言葉、増えたね」


雫葉は笑いながら視線を足元へ落とした。濡れた舗装の隙間に小さな葉が一枚貼りついていた。踏まれたのか、端が少し破れている。雫葉はしゃがんで指でそっとそれを拾い上げた。


「また拾ってる」


「見つけちゃったから」


「雫葉って、落ち葉に甘いよな」


「落ちたから終わりって感じがしないんだよね」


「じゃあ何?」


「どこかに残る感じ。匂いとか、色とか、手触りとか」


伊吹は少し黙った。雫葉は、葉についた水分を指先で払った。破れた葉の薄さが手の中で頼りなく震えた。こんなものを拾ってどうするのか、と自分でも思ったが、それでも見なかったことにはできなかった。


「そういうところ、雫葉らしい」


「褒めてる?」


「半分」


「残り半分は?」


「心配してる」


雫葉は葉を見つめたまま返事をしなかった。伊吹の言葉は軽く聞こえるようでいて、時々逃げ場のない場所へ届く。「心配してる」。そのたった一言が仕事仲間としてのものなのか、それ以上のものなのか考え始めると、足元が柔らかくなるのを感じた。


フェンスの外にいた人たちは昼の用事に押し流されるように減っていったが、それでも犬を連れた女性は残っていた。彼女は何度か時計を見たようだったが、結局その場を離れなかった。木を見送るという行為には予定よりも大切なものがあるのかもしれない。


太い枝が最後に下ろされたとき、周囲の空が一段と広くなった。雫葉は思わず顔を上げた。そこには今まで枝葉に隠れていたビルの角と白く乾き始めた空があった。空は広くなったはずなのに、見える景色は少し寂しかった。


「木が一本なくなるだけで、こんなに空って増えるんだね」


雫葉が言うと、伊吹は同じ場所を見上げた。


「増えたっていうより、見たくないところまで見えるようになった感じだな」


「伊吹って時々、ずるいこと言うよね」


「え、今のずるかった?」


「ちょっと」


「じゃあ、撤回しないでおく」


雫葉は伊吹を見た。彼は冗談のように笑っていたが、その目は空を向いたままだった。伊吹も何かを見たくないと思うことがあるのだろうか。雫葉は聞きかけてやめた。


聞いたら、自分も答えなければならない気がした。何を見たくないのか、何を失いたくないのか、誰の隣をこれからも歩きたいのか、と。


幹に刃が入る前、現場には一度だけ深い静けさが訪れた。機械の音も、人の声も、通り過ぎる車の音も、少し遠くなった。まるで街が息を止めたかのような時間だった。


雫葉はケヤキの幹を見つめた。切り口から立ち上る香りをまだ想像したくなかった。生木の香りはいつも少し甘く、少し青い。木の中に命があったことを切られて初めて人に知らせる香りだ。


「雫葉」


伊吹が小さく呼んだ。雫葉は返事をする前に、いつもの癖で少し息を吸った。


「何」


「終わったら、帰りにここ通るか」


「わざわざ?」


「うん」


「なくなった後を見るの?」


「見ないと、ずっと今のまま残る気がするから」


雫葉は胸の奥を押されたような気がした。なくなった後を見るのは、怖いと思った。同時に、それを伊吹が言ったことが少しだけ嬉しかった。自分だけでは見られない景色も、隣に伊吹がいれば見られるかもしれない。


「じゃあ、通る」


「決まり」


「伊吹が泣いても知らないよ」


「泣いたら雫葉のせいにする」


「なんで?」


「先にそんな顔したから」


雫葉は笑った。笑った拍子に胸の奥で何かが小さくほどけ、苦しさが消えたわけではないが、苦しいままでも笑える相手がいることを彼女はどうしても大切に思ってしまう。


作業は続いた。幹に入った刃の音は枝を切る時よりもずっと低く、腹の底に響くようだった。木くずが少しずつ舞い、湿った空気に混ざった。生木の香りが立ち上った瞬間、雫葉は唇を結んだ。


甘く、青く、かすかに苦い匂いだった。春でも夏でも秋でも冬でもない、木の内側そのものの匂い。普段は閉じ込められているものが切り開かれて外に出てくる、その匂いを嗅いだとき、雫葉はなぜか自分の胸の中まで見られたような気がした。


フェンスの外の女性がハンカチを目元にあてた。犬はその足元でじっとしている。子どもはもういない。通勤の人たちは通り過ぎていったが、それでも数人は足を止めていた。誰かにとっての背景が今ここで終わろうとしている。


伊吹は作業の合間に雫葉の方を見すぎないようにしているようだった。雫葉にはそれがわかった。見れば心配してしまう。心配すれば踏み込みすぎる。踏み込みすぎれば、二人が守ってきた名前のない距離が揺れる。


だから伊吹は仕事の顔をしていた。声を出し、確認し、道具を受け取り、必要なときだけ雫葉に短く言葉を投げかける。雫葉も同じように仕事の顔で返すしかなかった。


幹がゆっくりと傾くとき、街の音が一瞬だけ遠ざかった。支えられ、制御され、安全に倒されていく。しかし、立っていたものが横たわる瞬間には、どんなに手順を尽くしても消せない重さがある。


地面に下ろされたケヤキの幹は、立っていたときよりも大きく見えた。雫葉は、その年輪に目を落とした。幾重にも重なった年輪は、過ぎ去った季節の痕跡だった。雨が多かった年も、暑さが厳しかった夏も、誰にも褒められなかった春も、すべてそこに閉じ込められていた。


「すごいな」


伊吹が隣で言った。


「うん」


「ちゃんと生きてたんだな」


「当たり前なのにね」


「当たり前って、見えにくいからな」


雫葉はうなずいた。伊吹の声が静かだった。いつもの軽さはそこになく、ただ同じものを見ている人の声だった。雫葉はそれだけで泣きそうになり、慌てて視線を年輪に戻した。


年輪の中心は思っていたよりも少しずれていて、完璧な円ではなかった。街の片側から風を受け、建物の影に偏り、根元を何度も踏まれながらそれでも上へ伸びてきた形だった。きれいなだけではない、その歪みがやけに愛おしかった。


「雫葉」


「何?」


「今泣いたら、俺も危ない」


「泣いてない」


「じゃあ、泣いてないことにしとく」


「そればっかり」


「便利だからな」


雫葉は笑った。目尻が熱い。けれど、涙は落ちなかった。涙を落とさずにすんだのは、伊吹が隣で笑ってくれたからかもしれない。いつもの冗談で、ギリギリの場所に手すりを置いてくれたからかもしれない。


午後へ向かう街は、何事もなかったように動き続けていた。バスは停留所に止まり、信号は色を変え、歩道には昼の人波が増える。ケヤキが横たわるフェンスの内側だけが、別の時間に取り残されているようだった。


雫葉たちは片付けに入った。枝葉をまとめ、切り口を確認し、道具を片付ける。作業が終わりに近づくにつれ、感情を挟む余地がなくなっていく。確認事項、手順、そして次の現場へつながる報告。


それでも雫葉の指先には幹に触れたときの冷たさが残っており、手袋を外すと無意識に指先をこすった。樹皮のかけらなどもう残っていないのに、何かを払わずにはいられなかった。


「指、痛めた?」


伊吹がすぐに気づいた。


「違う。癖」


「知ってる」


「じゃあ、聞かなくていいじゃん」


「癖でも、今日は違うかもしれないだろ」


その言葉に雫葉は少し黙った。今日は違うかもしれない。何でもないしぐさも、何でもない会話も、失われるもののそばでは少しずつ意味を変える。伊吹がそれに気づいていることが雫葉をまた苦しくさせた。


「伊吹ってさ」


「うん」


「優しいよね」


と言ってから、雫葉は自分の声に驚いた。冗談に逃げるには少し遅かったのだ。伊吹も一瞬だけ目を伏せたが、その沈黙は長くは続かなかった。しかし、その間だけ周りの音が薄くなった気がした。


「急に褒められると、熱が出る」


「出せば。現場終わったし」


「冷たいな」


「優しさの在庫切れ」


「さっき俺に優しいって言ったのに」


「取り消そうかな」


「取り消し不可でお願いします」


二人は笑った。笑うことで、さっきの言葉を安全な場所に戻す。雫葉はそれが少し寂しかった。自分で戻しておきながら、戻ってしまったことを寂しく思う。人の心は面倒だと思う。特に恋をしているときは、どうしようもなく面倒だ。


夕方の色がビルの壁に薄くにじみ始めるころ、現場はほとんど片付いていた。白い囲いの内側には、ケヤキが立っていた場所だけがぽっかりと空いていた。根元の土は黒く湿っていて、まだ木の香りがした。


フェンスの外にいた女性は最後まで残っていたが、雫葉が近づくと小さく頭を下げた。作業への礼なのか木への別れなのか、はっきりとは分からなかった。


「ありがとうございました」


女性の声は柔らかく、少し掠れていた。雫葉は手袋を外し、深く頭を下げた。


「こちらこそ、見届けてくださってありがとうございました」


「この木ね、昔からここにあったの。私が迷子になったときも、結婚してこの街を離れたときも、戻ってきたときも」


「はい」


「なくなるのは寂しいけど、見ないまま終わる方がもっと寂しかったと思うわ」


雫葉は言葉を探した。仕事として伐採に関わる時、「寂しいですね」と簡単には言えない。安全や事情、そして未来の通行のこともある。けれど、その人の記憶が今日ひとつ形を変えたことだけが、確かに目の前にあった。


「この木のことを覚えている人がいる限り、全部なくなるわけではないと思います」


そう言ってから、少し言い過ぎたかなと思ったが、女性はゆっくり笑った。


「そうね。あなたたちみたいな人がいてくれてよかった」


胸の奥が熱くなった。雫葉はもう一度頭を下げる。横にいた伊吹も静かに頭を下げていた。いつもの冗談はなかった。その沈黙が今日の仕事に一番似合っていた。


会社に戻る車内では誰もが少し疲れていた。金属の道具の匂い、濡れたロープの湿り気、作業着に染みた木くずの青い匂いが車の揺れに混じっていた。窓の外では東京の街が夕方に傾き、ガラスのビルが低い光を細く反射していた。


雫葉は助手席の後ろで拾った葉を、作業日誌の間にそっと挟んだ。破れた端が少しはみ出していたが、伊吹はそれに気づいたようだった。しかし、何も言わず、ただ缶コーヒーを指先でゆっくり回していた。


「それ、持って帰るの?」


しばらくして伊吹が言った。


「だめ?」


「だめじゃない。雫葉らしいなと思って」


「またそれ」


「便利だから」


「今日、便利な言葉ばっかり使ってる」


「じゃあ、ちゃんと言う」


雫葉は窓から伊吹に視線を移した。伊吹は缶の側面を見つめたまま少し首を傾げた。


「そういう風に、なくなるものを雑に扱わないところ、いいと思う」


車内の揺れが急に小さく感じられ、雫葉は返事をしようとして言葉を失った。褒められたのだとわかる。仕事仲間として、人として、そう受け取ればいい。そう受け取るのが一番安全だ。


しかし、心は勝手に別のことを考えてしまう。伊吹の声の温度、言い終えた後に少し視線を逸らすしぐさ、缶を回す指の落ち着かなさ。恋心というものは、拾わなくていい落ち葉まで拾ってしまう。


「ありがとう」


やっと言えた声は、思ったより小さかった。


「どういたしまして」


伊吹も短く返した。それだけだった。たったそれだけなのに、雫葉はその会話を日誌の間に挟んだ葉のようにどこかへしまっておきたくなった。


会社に戻ると、緑景管理の事務所には昼間の熱気がまだ残っていた。誰かが置いた軍手、共有机に広げられた現場図面、壁際の観葉植物の鉢の土の匂い。窓の外では隣のビルの影がゆっくりと濃くなりつつあった。


報告作業を終える間、雫葉と伊吹はいつもの調子を取り戻した。切り替えなければ仕事が終わらない。樹勢診断の記録、伐採後の確認、住民対応のメモ。淡々とした言葉を並べるほど、今日の出来事が書類の中へ収まっていく。


「雫葉、ここ誤字」


伊吹が画面をのぞき込みながら言った。


「どこ?」


「ケヤキがケヤけになってる」


「そんな木はない」


「新種かもしれない」


「発見者、朝凪伊吹」


「命名:樹守雫葉」


「嫌だよ。責任重大すぎる」


事務所の奥から「また始まった」と誰かが笑った。雫葉はいつものように笑い返した。社内ではそれでいい。軽口を叩き合う同期。仕事ができて息の合った、少し騒がしい班の二人。


その枠の中にいれば安全だった。誰かが「付き合えばいいのに」と言っても笑って否定すれば済むし、否定するたびに胸が痛むことなど誰にも知られない。伊吹も同じように否定する。そのたびに彼がどんな顔をしているのか、雫葉は見ないようにしてきた。


けれど今日は、見ないようにすることが少し難しかった。一本の木がなくなっただけで街の空気が変わるなら、たった一言で日常が変わることもあるだろう。そう思うと、言葉が喉の奥で硬くなった。


夜の気配が窓の外に降りてくるころ、雫葉は作業着の袖を直してロッカーを閉めた。会社の蛍光灯は白く、外の暗さとは別の冷たさを持っていた。伊吹は隣のロッカーで剪定ばさみの手入れをしていた。


刃を布で拭く手つきは丁寧で、金属に残った水分を取り、汚れを落とし、油を薄くなじませていた。伊吹は道具を雑に扱わない。木を見る時も、人を見る時も、そういう慎重さがある。


「帰る?」


雫葉が聞くと、伊吹は剪定ばさみをケースにしまった。


「帰る。例の場所、通るんだろ?」


「覚えてたんだ」


「俺、仕事終わりの約束は忘れないタイプ」


「仕事じゃない約束は?」


「内容による」


「ずるい答え」


「じゃあ、雫葉との約束は忘れない」


雫葉はロッカーの取っ手に指をかけたまま、ほんの少し動きを止めた。冗談だとわかっている。いつもの流れだ。しかし、冗談の中に本物の感情が混じったとき、人はどう笑えばいいか分からなくなる。


「そういうこと言うから社内で誤解されるんだよ」


「誤解されるようなこと、したっけ?」


「してるでしょ、日々」


「雫葉も共犯だろ」


「巻き込まないで」


「巻き込まれてるの、俺かもしれない」


伊吹は笑った。雫葉も笑った。笑いながら、どちらもその先を言わない。社内の明かりの下では、言えない言葉が余計にはっきりと影を持つ。


会社を出ると、夜の東京は昼よりも少し湿っていた。歩道の端に残った水は、街灯の光を受けてところどころ淡く光っている。遠くの車の音は重なり合い、ビルの隙間から抜ける風には排気と濡れた土の匂いが混ざっていた。


雫葉と伊吹は並んで歩いた。自然と歩幅が合う。どちらが合わせたのか、もう分からない。入社したばかりの頃は、現場帰りの足取りが合わず、何度も互いに立ち止まった。それがいつの間にか、考えなくても同じ速度になっていた。


「疲れた?」


伊吹が聞いた。


「少し」


「珍しい。素直だ」


「今日くらいはね」


「じゃあ、明日はまた強がるのか?」


「明日のことは明日の枝ぶり次第」


「いい言葉っぽく言うな」


「伊吹に言われたくない」


昼間なら、ここで会話はもっと続いたはずだった。どちらかが余計な冗談を重ね、もう一方が呆れて、気づけば次の信号まで笑っている。けれど夜の道では、言葉が少しずつ減っていく。


仕事が終わった後の並木道には、昼間の人いきれが薄く残っていた。歩道のタイルは湿り、街路樹の葉から遅れて落ちる水滴が足元で小さく弾けた。どこかの飲食店から出汁の香りが漂い、すぐに車の風で消えていった。


「今日の木さ」


伊吹がぽつりと言った。


「うん」


「なくなったら、道が広くなるんだよな」


「うん」


「いいことなんだよな、たぶん」


「そうだね」


「でも、いいことだけじゃないんだよな」


雫葉は答えなかった。答えられなかった。いいことだけではない。安全のために必要なことでも、寂しさが消えるわけではない。誰かのための未来が、誰かの記憶を少し削ることもある。


恋も似ているのかもしれない、と雫葉は思った。好きだと伝えることは悪いことではないはずだ。しかし、その言葉で今ある関係が変わるなら、そこにはきっと喪失もある。


伐採された交差点に近づくと、遠目にも空が広くなっているのがわかった。朝まで枝が重なっていた場所に夜の暗さがそのまま落ちており、街灯の光は遮るものを失って歩道にまっすぐ届いていた。


雫葉は足を止め、伊吹も半歩遅れて止まった。そこにはもうケヤキはなく、白い囲いの一部は片付けられ、地面には新しい土と作業の跡だけが残っていた。


「本当に、ないね」


雫葉の声は、自分でも驚くほど静かだった。


「ないな」


伊吹も同じ方向を見ていた。


「朝はあんなに大きかったのに」


「大きいものでも、なくなる時は一日なんだな」


雫葉は、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。たった一日で、毎朝そこにあったものが過去になるのだ。見上げるくせも、日陰に入る足取りも、木の根元を避ける感覚も、明日から少しずつ失われていく。


「怖いね」


思わずこぼれた言葉だった。伊吹が雫葉を見る気配がした。


「何が?」


「変わらないと思っているものほど、変わる時は急なんだなって」


伊吹はすぐに返事をしなかった。街灯の光が彼の横顔を淡く照らしている。鼻筋の影、少し疲れた目元、作業で乾いた唇。雫葉は、見てはいけないものを見ている気がして視線を土の跡に戻した。


「そうだな」


伊吹の声は低かった。


「だから、ちゃんと見ておかないとな」


「なくなる前に?」


「なくなる前も、なくなった後も」


雫葉はその言葉を胸の中で繰り返した。なくなる前も、なくなった後も。今日のケヤキのことだけを言っているのだとわかっている。わかっているのに、別の意味が静かに重なってくる。


もしこの関係がいつか変わるなら、もし笑い合うだけではいられなくなる日が来るなら、その前に自分は伊吹の何を見ておくべきなのだろう。失ってから初めて気づくくらいなら、今ちゃんと見ておきたいと思ってしまう。


「雫葉」


伊吹が呼んだ。名前を呼ばれる前に、雫葉は小さく息を吸った。癖だ。伊吹に呼ばれるときだけ、胸が先に反応してしまう。


「何?」


「今日はよく頑張ったな」


「子ども扱い?」


「違う。同期扱い」


「また便利な言葉」


「うん。でも今日は、便利でもいいだろ」


雫葉は笑った。笑いながら目の奥が少し熱くなった。同期扱い。その言葉に守られてきたけれど、その言葉に閉じ込められてもいる。どちらも本当だった。


「伊吹も、おつかれさま」


「俺はほら、天然素材の軽口で環境に優しく頑張ったから」


「その軽口、明日剪定ね」


「残して。冬に芽吹くから」


「季節、間違えてる」


「じゃあ、春まで待って」


春。その言葉が夜の中で小さく光った。雫葉は伐採跡の土を見つめた。いつかここに新しい木が植えられるかもしれない。失われた木の代わりではなく、別の時間を育む一本の木が。


伊吹と自分の間にも、そんな風に別の何かが育つことがあるのだろうか。今までの時間を壊すのではなく、その続きとして少し違う形で枝を伸ばすような未来が。


しかし、雫葉はその問いを声には出さなかった。声に出せば、夜の空気が変わってしまう。今はまだ、隣に立って同じ場所を見るだけでよかった。少なくとも、そう思うことにした。


帰り道、二人はしばらく黙って歩いた。会話がないのに気まずくはなく、ただ昼間の笑いが遠くなった分、互いの気配が近く感じられた。伊吹の靴音、袖が擦れる音、鞄の中で缶コーヒーの残り液が揺れる小さな音。そんなものまで雫葉の耳は拾ってしまう。


並木道の葉が夜風に揺れ、今日失われたケヤキとは別の木々が暗がりの中でそれぞれの影を落としている。街灯に照らされた葉の縁は淡く、風が通るたびに光の粒が足元にほどけていく。


「雫葉」


また伊吹が呼んだ。


「何?」


「明日、早い現場だっけ?」


「うん、学校の緑地点検」


「じゃあ、寝坊すんなよ」


「伊吹に言われたくない。前に集合場所で、缶コーヒーを握ったまま寝てたでしょ」


「あれは瞑想」


「絶対違う」


「木と対話してた」


「缶コーヒーとでしょ」


夜道に小さな笑いが戻った。昼間のように明るくはなく、社内で聞かせるための笑いでもなかった。少し疲れていて、少し柔らかくて、誰にも見せない部分が混じった笑いだった。


雫葉は、その笑いが好きだった。軽くて、穏やかで、胸の奥に触れてくる。だから余計に怖い。好きなものほど失うときの音を想像してしまう。


駅へ向かう道の手前で伊吹が少し歩調を緩めたので、雫葉も自然に足が止まった。前から来た自転車が2人の間を避けるように通り過ぎ、風が作業着の裾を揺らした。


「雫葉、葉っぱ」


伊吹が言った。


「え?」


「日誌に挟んだやつ、落とすなよ」


「落とさないよ」


「明日、押し葉になってたりして」


「それはそれでいいかも」


「名前をつける?」


「つけない」


「ケヤけ」


「それは絶対つけない」


雫葉は笑いながら鞄の中の日誌をそっと押さえた。紙の間に挟まった一枚の葉は、破れていて濡れていて、もう木には戻れない。それでも今日ここにあった時間の欠片として、その葉は残る。


伊吹がその葉のことを覚えていてくれたのが嬉しかったが、何でもないふりをした。嬉しいと顔に出せば、伊吹はきっと気づく。気づいて、また優しく笑うだろう。その優しさが苦しいから、雫葉は少し先を歩いた。


「置いてくなよ」


伊吹が後ろから言った。


「伊吹が遅いんでしょ」


「今日は疲れてるんだよ」


「天然素材の軽口、使いすぎた?」


「そう。エコにも限界がある」


「じゃあ、明日は節約して」


「雫葉が笑わなかったら使う」


雫葉は足を止めそうになった。「笑わなかったら使う」。何気ない言葉なのに、どうして胸に響くのだろう。伊吹にとってはただの冗談かもしれないが、雫葉が笑うことを彼は見ている。そのことだけで、夜の空気が少し変わったように感じた。


「別に、伊吹がいなくても笑うよ」


「知ってる」


「じゃあ何?」


「でも、俺が笑わせた方がいい」


その言葉の後、二人とも黙った。遠くで車の音が響き、信号の変わる電子音が薄く聞こえる。言い過ぎたと思ったのか、伊吹は鼻の横を軽くかんだ。照れたときのしぐさだった。


雫葉はそれを見て胸の奥で小さく息を飲んだ。知っているしぐさなのに、今日ばかりは違う意味に思えた。伊吹も自分と同じように言葉の置き場所を間違えることがあるのだろうか。


「変なこと言った」


伊吹が先に笑った。


「うん。まあまあ変」


「忘れて」


「便利だね、『忘れて』って」


「今日は便利な言葉の日だから」


雫葉は笑った。忘れられるわけがないと思いながら笑った。忘れてと言われた言葉ほど、心は律義にしまい込む。今日の木の匂いも、年輪のゆがみも、なくなった交差点の空も、伊吹の声も、きっと簡単には消えない。


駅の明かりが近づくにつれ、人の流れが増えていった。スーツの肩、濡れた傘のビニール、イヤホンから漏れるかすかな音、パン屋から漂う閉店前の甘い香り。東京の夜は、誰かの疲れと帰る場所でできている。


雫葉と伊吹は、その流れの端を歩いた。肩先の距離は変わらない。近すぎず、遠すぎず、いつもの距離。けれど、雫葉には今日、その距離が少しだけ危うく見えた。守っているつもりのものは、実はいつも揺れているのかもしれない。


改札へ向かう分かれ道で伊吹が立ち止まったので、雫葉も止まった。ここで別れるのもいつものことだった。「おつかれ。また明日」たったそれだけで、二人はそれぞれの夜へ戻っていった。


「じゃあ、また明日」


雫葉が言った。


「また明日」


伊吹が返した。


その短いやりとりの後、二人ともすぐには動かなかった。いつもなら、どちらかが冗談を足す。明日寝坊するなよとか、ミニあんぱん返してよとか、そんな軽い言葉で済ませられる。けれど今夜は、軽い言葉を置く場所が少し見つからなかった。


「雫葉」


伊吹がもう一度呼んだ。雫葉はやはり、小さく息を吸ってしまった。


「何」


「今日のこと、たぶん忘れないと思う」


雫葉は伊吹を見た。駅の明かりが彼の後ろにあり、表情の一部は影になっているが、目だけがまっすぐこちらを向いていた。


「私も」


それ以上は言えなかった。今日のこと、木のこと、なくなった場所のこと、隣を歩いたこと、伊吹が変なことを言ったこと、雫葉がそれを忘れないと思ってしまったこと。


それらをすべてひとつの言葉にするには、まだ早すぎた。早すぎるというよりも、怖かった。言葉にした瞬間、今まで積み重ねてきた毎日の形が変わってしまいそうだった。


伊吹は少しだけ笑った。いつものように肩を揺らす笑いではなく、静かで疲れたような、でもどこか安心したような笑みだった。


「じゃあ、忘れない者同士、明日も現場で」


「何それ?」


「同期っぽいだろ」


「便利な言葉で締めようとしてる」


「ばれたか」


雫葉は笑った。今度はちゃんと笑えた。胸は苦しいままだったけれど、その苦しさを抱えたまま笑うことに少しだけ慣れてしまっている自分がいた。


伊吹が改札の方へ歩き出し、雫葉は反対側の通路へ進んだ。数歩進んでから振り返りたいと思ったが、振り返らなかった。振り返れば伊吹もこちらを見ている気がしたし、もし本当に目が合ったら何かがこぼれてしまう気がしたからだった。


地下へ降りる階段の入り口で夜の風が背中を押した。雫葉は鞄の中の日誌に触れた。紙の間に挟んだ葉はまだ少し湿っているだろう。今日失われた木の欠片は明日には少し乾いて色を変えていく。


変わることは失うことだけではない、と雫葉は思いたかったが、まだうまく信じることができなかった。大きなケヤキが消えた交差点の空は、今も胸の内側にぽっかりと残っていた。


電車の近づく音が地下から響いてくる。雫葉はゆっくり息を吐いた。伊吹の声が耳に残っている。「俺が笑わせた方がいい」。忘れてと言われた言葉ほど忘れられない。


その夜、東京のどこかで風が葉を揺らしていた。失われた木の場所にはもう影が落ちない。それでも雫葉の中では、まだあのケヤキの枝先が淡い光を受けている。隣にいた伊吹の横顔もその光の中に残っている。


同期のままでいいなんて一度も思ったことがなく、声にならない言葉が胸の奥で葉擦れの音のように響いた。雫葉はそれを誰にも聞かれずに改札に向かう人の波に溶け込むように、静かに歩き出した。


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