第三十七陣 水杯の誓い
大日本皇國皇都の片隅、細い路地にひっそりと佇む食堂「夕凪亭」。
普段ならば、常連の喧騒と食欲をそそる匂いが表まで漂う夕飯時。だが今宵、軒先に垂らされた暖簾はすでに片付けられ、戸口も閉められている。皇國特務隊の総司令官――大鳥居景虎が訪れるのに合わせ、お千代が早々に店じまいを済ませたためだ。
静まり返った店内、黄色い電灯の下、カウンターには大鳥居が一人座っていた。
軍服の詰襟をしっかりと締めた大鳥居は、二十代の若さで国を背負う重圧をその肩に滲ませながら、硬い表情で小さく告げた。
「……お千代。インペトラル帝国の大軍が迫ってきている。明日には北方沿岸部に侵攻して来るだろう。私は――最前線の指揮官を拝命した。これが今生の別れになるやもしれん。……水杯を交わしに来た」
その陰鬱な告白を聞いて厨房から出てきたお千代は、小さく息を吐くと静かに微笑んで、一対の小さな盃をカウンターの前に置いた。
お千代と大鳥居は、同じ長屋で産声を上げた幼馴染だった。カウンターを挟んで白い盃を見つめる二人の間には、お互い胸の奥に秘めた特別な想いが存在していた。けれど、激動の時代は彼らにそれ以上の踏み込みを許さず、指先が触れそうで触れない距離のまま、今日まで時を重ねていた。
共に盃を掲げ、無言で見つめ合う二人。大鳥居がそれを一気に喉に流し込む。
その直後、喉を焼くような熱さと、鼻を突き抜ける芳醇な清酒の香りが大鳥居を襲う。
「っ、ごほっ、ごほっ……! お、おい、お千代、これは――!」
「冷酒です。この店で一番上等な大吟醸ですよ」
からきし下戸である大鳥居は、涙目で激しくむせ返り、軍服の袖で口元を押さえた。そんな驚く大鳥居をよそに、お千代は自分の盃を傾け、小さく喉を鳴らして上品に、かつ美味しそうに冷酒を煽った。
「水杯なんて、縁起でもない。あなたは死なないわ、景虎」
「しかし、敵の数は我が方の数倍――。それに……」
「ご維新の戦でも、そんな修羅場、幾つも乗り越えて来てるでしょ?」
「そ、それは、そうだが……。いや、お千代にはかなわんな」
大鳥居は苦笑しながら、鼻の頭を撫でた。今でこそ、一線を引いて軍属という立場だが、ご維新の戦の際、お千代は共に帝を支えた戦友でもあった。もっぱら、軍師的な役回りの大鳥居と違い、お千代は身の丈の倍近くはある大薙刀を振り回し、最前線で暴れまわった女傑だった。
「詰め将棋が得意なあなたのこと、この事態も想定内なんでしょ」
お千代はさらりと言ってのけると、二つの盃に酒を満たす。大鳥居は深く息を吐きながら答えた。
「ああ。クラウスのいない間隙を突いて、帝国がこの皇都を狙うことは読んでいた。……それでも俺は、大秦国の六花分隊を呼び戻さなかった。大秦国の北部国境の防衛を果たすとともに、合衆国の後ろ盾を得ることは、今後の皇国防衛に絶対不可欠だったからだ。だが、あの子たちの『大返し』まで我々が持ちこたえられるかどうかは、文字通りの大博打。合衆国が誇る飛行船を使えば、計算上は間に合うはずだが……。いや、それよりも――」
大鳥居は痛ましげに眉根を寄せ、言葉を絞り出した。
「稀有な才を持つ者たちとはいえ、国の命運をかける戦いに、あんな年端もゆかぬ少女たちを巻き込んでしまった。あの子たちの命さえも戦争の駒としてしか見ていない負い目で胸が潰れそうになる……。今更だがな……」
大鳥居が吐露したあまりにも重い苦渋に、お千代は彼に毅然とした視線を向けた。
「景虎……。富国強兵も良いけれど、西洋かぶれが過ぎるんじゃないかしら?」
「お千代……?」
「忘れたの? 私達だって、彼女たちの年にはもう元服して、ご維新の戦いに身を投じていた。あの娘たちは、誰かに強制されたわけじゃない。自分の意志で、この国を、大切な日常を守るために誇りを持って立ち上がっている。そうした覚悟を持った人間を、子供扱いするべきじゃない」
きっぱりと言い切ったお千代は悪戯っぽく微笑んで、大鳥居の顔を覗き込んだ。
その背後には、壁に立てかけられた一振りの大薙刀が鋭く光っていた。一目で、日々、手入れを怠っていないことが分かる。かつて、万夫不当とも謳われた彼女の得物だ。
「いざとなったら、私も戦地へ赴きます。あなたも、あの子たちも誰も死なせない」
強い決意で真っ直ぐに見つめるお千代の顔に、大鳥居は一瞬呆気に取られる。それから、ふっと張り詰めていた肩の力が抜けた。同時に、腹の底から力が湧いてくる。
「はは……違いない。さすが、鬼夜叉姫。お前に睨まれたら、閻魔大王も裸足で逃げ出すな」
「ちょっ! その二つ名は忘れて!!」
お千代が慌てる姿に、大鳥居はおかしそうに笑うと、少し酔いが回った頭を振り、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「俺は、大秦国から六花分隊が必ず駆け付けると信じている。それまでは、石にかじりついてでも、皇都を死守する。だが、万が一の時は――お千代、お前に託したいことがあるんだ」
「……何なりとお申し付けください」
「皇都の避難民の誘導。そして、……お前が帝の最後の楯となってくれ」
「はい。しかと承りました」
短い沈黙の後、どちらからともなく、二人は小さく笑い合った。
「なんだか、ご維新の決戦前夜みたいだな」
「本当ね。あの時も、あなたはそんな深刻な顔をしていたわ。……でも、最後には私たちが勝った」
幼馴染との確かな絆が、悲壮な決意に潰れそうだった青年将校の胸に、熱い炎を灯していた。
――そして、運命の朝が来る。
「面白い」「続きが気になる」と思ってくださったら、画面下の**【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】**にして応援していただけると、尋人たちの戦いと執筆の励みになります。
画面上の**ブックマークに追加**もぜひよろしくお願いいたします。




