Phase8-2:白亜の閃光――虚構
既に、底無しの地獄へ沈んだかのようだった。
同じ病院にいるはず。しかしメーナの視界に入るのは、封鎖された闇のみ。
ショーツを丸出しにした姿や、失禁したという事実が知れ渡った後、新しい患者衣を着せられてからこの空間へと運び込まれた。
様々な結末を想像してしまう。
イレギュラーとなってしまった罪で、処刑されるのか。あるいは、このまま餓死するまで放置か。
事実、昨日の昼以降、何も口にしていない。
顔を上げる気力もない中、落とした視線の先には、テーブルランプによる仄かな橙色の灯りがあるだけ。
闇に吸い込まれそうになる心境で、その一点だけが希望の灯火だった。
開閉の音が鳴る。
視界に、一筋の光が差し込んだ。メーナは視線だけそちらへやる。
廊下へと続く扉が開いており……三人の人影が見えた。
サイドに控えるのは、名も知らぬ看護師。
そして中央に立つ人物は、シルエットで見れば、頭部の輪郭以外は分からない。
巨大なマントで身を包んでいるからだ。
「ここまででいい。しばし待っていてくれ」
看護師二人は無言で頷き、何事もなかったようにこの場を去る。
コツ、コツ……。
闇を裂くようなヒールの踏み音が、メーナの元へと近づいてくる。
「清廉な女優たる者が、床に尿を垂らした挙句、下着まで晒すとは……。だがお前には同情しよう」
普段ならば、聞いているだけで誇らしくなる声色。
しかし今は違う。
冥界からの来訪者のように聞こえた。
彼女は、ランプが灯す範囲に入り、足を止める。
心の底から笑っていない。
そんな母マリウスの笑みが、こちらを見下ろした。
「覚醒した人間は、往々にして常軌を逸した行動を取るものだ」
冷たく突き放す言い回し。
メーナがイレギュラーになったと断定しているのと同義である。
訪れる異変は、母の言動に対してもであった。
肉体の震え。
目からは止めどなく涙が溢れてくる。
小刻みに顔を上げ、必死の微笑みで懇願した。
「お願い……。許して……」
おねだりなど、当の昔からしていない。
だが今は、しなければならないと思った。
そうでなければ……。
これを受けたマリウスは、逆に笑みが消える。
しかしすぐに鼻で笑った。
「何か誤解しているようだが、実の娘に手をかけるほど愚かではない」
彼女は、そんな実の娘の肩に手を置く。
安心させようとしてくれているのか、と思った。
そうではなかった。
「いや、私たちが親子であることは世間に知らせていないからな。処罰しようとも問題はないか」
スゥッと、血の気が引く。
自分が何を言われたのか、完全に理解するまで多くの秒数を有した。
そうして、身体の震えが止まらなくなる。
マリウスの肩を掴む力が、微かに強まる。
それが引き金となった。
固まっていた身体が、反射的に逃避を優先する。
ガタァッッ!!
母がいる方とは真逆に、座っていたパイプ椅子も巻き込んで倒れ込んだ。
床の冷たさが、頬と掌に当たる。
振り返ると、母のヒールの爪先もこちらを向いた。
危機による重度の不安が、メーナを立ち上がれなくしている。
「はぁ、はぁ、はぁ……!!」
這いつくばってでも距離を取る。
母はそれを楽しむように、ゆっくりと忍び寄る。
闇で見えにくくなっていたが、室内の端まで来た。手触りで確かめる。
僅かな隙間が爪に引っかかり、これはどこかに続いていそうな扉だと察した。
メーナは押したり、横にスライドさせようとしたりする。
しかし扉は、ビクともしない。
「ぅぅ……!! ぅぅぅぅッッ!!」
声にならない声と、闇雲に押したり引いたりを繰り返すしかなかった。
この無様な様子を、マリウスが背後から見下ろす。
彼女は、心底楽しそうにクスクスと嗤った。
「冗談だとも。私の娘がイレギュラーだったと世に知れれば、彼らを糾弾する側である私の立場が失くなる。だから、これから気をつけてくれればいい」
母に対する、初めての感情だった。
なんでこんな、ひどいことをするのか。
そして、彼女の発言の最後を聞いて、また心臓が悲鳴を鳴らした。
揺れる瞳で彼女を見上げる。
「このまま……か、隠して……過ごせというの……?」
見下ろす母の瞳は、全く笑っていない。
メーナの疑問に対しては、やって当然だと言わんばかりに流される。
「いつからだ? やはり、レッドに襲われた際か?」
そうだとはメーナ自身も思っている。知らない感情や言語が頭の中に繁殖し始めたのは、間違いなくあの赤き鎧の爪で引っ掻かれた瞬間だった。
だが、アングを巻き込みたくないと思うのであれば、違うと言うべきだったか。
返答にたじろいでいる間に、マリウスは勝手に話を進めた。
「だとしたら、お前は既に果たしているではないか。誰かにイレギュラーだと悟られた時点で、命を奪われていてもおかしくはない。培ってきた演技力の賜物と言えよう」
確かに上手くやった。
しかしそれは、事態を呑み込めていないがゆえに生じた、土壇場の防衛本能だ。
メーナは、両手で自身の側頭部を抱え込む。
髪がくしゃくしゃになるまで掴んだ。
「に……二十四時間、ずっと、だなんて……無理……っ!」
今までやってきた演技は、作品を良くするための、自分が自分であるための演技だった。失敗したところで、撮影し直せばいい話だ。
失敗が『死』を意味する演技など、聞いたことがない。
「お願いよお母様!! 私をどこか……シェルターみたいなところに匿って!! もう女優業なんていいから!!」
心からの叫びだった。
今は自分の命を優先したい。親ならば、その切実な気持ちを分かってくれるはず。
だがその期待を、溜息でかき消される。
マリウスは、マントの裏に手を差し込んだ。
「あれから水分は摂ったのか? 怠るのは身体に毒だぞ」
取り出されたのはペットボトル。隠し持っていたらしい。
「病室では、美味しい朝食も待っている」
話の流れを掴めないでいたが、確かにメーナは、喉の渇きを覚えていた。飲み物へ手を伸ばしかける。
――飲み物、毒……。
偶然の言い回しなのか。唇を震わせた。
即座に手を引っ込める。
一方のマリウスは、手渡せなかったペットボトルを見つめる。
キャップを回し、自らの口の中へ水分を入れた。
口に含んだままというわけでもなく、ゴクッ……と、明らかに飲み込んだ音が鳴る。毒はないという証明か。
少し動悸が落ち着いたメーナは、今度こそ手を伸ばしてペットボトルを貰おうとする。
マリウスが、また一歩近づいてきた。
直後。
「うぶぅっ!?」
目で追えぬ一瞬だった。
ペットボトルの飲み口が、メーナの口内へ強引に捩じ込まれたのだ。
そのまま容器は、斜めに高く傾く。
無情にも液体が流し込まれる。
単なる水。
しかしだからこそ勢いは緩まず、許容できる量を優に超えてくる。
喉が浸水する。
「ぐぇっ……!! ごぶっ……ぅぅ!! んぶうう!?」
鼻呼吸を試みるも、逆流してきた。
激しく咳き込む。だが、乾いた音も鳴らない。
息ができない。鼻腔が痛い。
白目を剥く。
死ぬ。
それ以外のことなど考える余裕もなく、逆らえず……。
命拾いしたのも、主導権を握っていた彼女のおかげだ。
口からペットボトルが引き抜かれた。
「うぇぇえッ!! ケホ! ゲホッ……!!」
肺に溜まりかけていた水を吐き出し、必死に酸素を取り入れようとする。
自分は生き延びた。死ななかった。
そうだと実感した途端、こうして息をできることが、どれだけありがたいことかと思い知らされた。
視界が滲み始める。
縮こまり、自身の上腕で顔を隠すようにして呻き泣いた。
産まれたばかりの赤ん坊のように止まらなかった。
構わず、母は追い打ちをかけてくる。
「忠告だ。泣きたいならば今のうちに泣け。この世界での涙は『死』を意味する。私が庇えない状況での失態はお前の自己責任だ」
まさか彼女は、イレギュラーとして生き抜くことの過酷を伝えようとしてくれていたのだろうか。
だとしても、これが本当に親として正しいやり方なのか。
メーナにはそうとは思えず、母の顔を見ることはできなかった。
*
ハッキングによる監視カメラとの接続が切られてから、二十分が経過した。
カザミは病院に到着し、五階まで移動。案内図を確認しながら、集中治療室の前へと辿り着く。
メーナの病室があるのと同じ階だ。
結局、嫌な予感が拭いきれず、ここまで来てしまった。
彼女の死は、アングの精神状況とも直結しかねない。あくまでそういう理由だと言い聞かせてだ。なるべく穏便に済ませようとは思っている。
廊下には見張りも誰もいないが、外から中の様子を確認することもできない。ガラス窓にはシャッターが下ろされている。
しかし、意図的にこの部屋の監視カメラのみが切断されたのだ。何も起こらないとも考えにくい。
あるいは、もう処理されてしまったのか。
身の毛がよだつほどの最悪を想像する。カザミは唾を飲む。
無事を確認できたら、顔を見られる前にすぐ離れればいい。カザミはドアの取っ手に触れる。
それとほぼ同時。
コツ、コツ……。
扉の向こうから、硬い靴の音がこもって聞こえる。
こちらに近づいてきた。
カザミは慌てて、来た道とは逆の方向の廊下へ駆け出す。
扉が開く。
誰かが出てくる前に、どうにか曲がり角の壁越しに隠れることができた。
そっと顔を出し、中にいた人物の姿を確認する。
もっとも、足音で誰かは予測できていた。
マントをなびかせる長身の女性が、やはり優雅な足取りで部屋から出てきた。
マリウス・マキシロード。
彼女は廊下の中心で止まると、ターンしてもう一人の退出を待つ。
この部屋に隔離されていた、一人。
メーナ・シンフォニーは、ひどく俯いたままの姿で姿を見せた。
目の下が真っ赤に腫れている。綺麗に整えられている筈の髪も乱れ、普段のきらびやかな姿からはかけ離れたものとなっている。
中でいったい何を話していたのか。
カザミの予測を鈍らせるように、マリウスは、一見優しげにメーナへ微笑みかけた。
「一人で行けるな? まずは髪を整えたほうがいいぞ」
聞かれた彼女は、何も答えない。
重い間の後、操り人形のようにぎこちなく頷いた。
カザミがいる方とは真逆へ歩いていき、角を曲がって見えなくなった。
病室か、あるいは手洗い場へと向かうのであろう。
アング曰く、この二人は実の親子であるという。
しかし今のやり取りには、親子の愛情など微塵もない。
主従関係のような距離しか感じなかった。
マリウスは、娘の去る姿を見つめては、完全にこちらへ背を向けている。
自ら大統領を謳い始めたのだ。これより職務にでも戻るのか。
だが彼女は、一向に動こうとしない。
僅かに首だけが時計回りに動く。
それにより、横顔の口元が微かに見えたが……。
口角が上がっていた。
何に対しての笑みか。
こっちに気づいてる――?
視線が直接合う角度ではないはず。何かに反射しているわけでもない。
カザミは推理し、息を呑む。
まさか、アルクス・ブーツの走る音を感知したのか。
金属製のブーツだ。向こうの足音をこちらが認識できているのであれば、逆も当然あり得る。
だが気づいているのであれば、何故来ない。
何故、娘を一人で行かせた。
「エリカちゃーん?」
息も忘れる緊迫した局面で、あまりにも場違い過ぎた。
後方からの呼びかけに、カザミはビクッとなる。
一旦振り返りはせず、考える。
自分をその偽名で呼ぶということは、スーパーイーツデリバリーの利用客。
「なあなあそうだろ? こっち向いてよぉ~」
そして、ここまで馴れ馴れしい客は一人しかいない。
アングの友人にして稀代の女好き、マックス・バリストである。
なるべく声を出したくはない。しかし、ススス……と擦り寄ってくる音と、むせ返りそうな妙な臭い。
接近の限界は近いと察した。
生理的に無理だと判断し、表情筋を歪ませながら口を開く。
「違います」
「嘘つくんじゃないよー! オレっちには特技があってさぁ、女の子の尻の形は絶対忘れねえんだ」
「……っ!!」
咄嗟に、お尻の内側を両手で隠す。
壁から顔を出すため、無意識にやや突き出す体勢でいたことを後悔する。
カザミは腰から上を、ピシッと直立の体勢に戻した。羞恥心で頬が熱くなる。
同時に、この会話を彼女に聞かれていないかと危機を覚えた。カザミは覗き直す。
マリウスはもう、そこにはいなかった。
あの怪しい微笑みは何だったのか。その真偽を確かめる術はもうない。
「ほらやっぱり! 写真と同じボディライン!!」
何やら、彼の声の興奮度合いが上がった。カザミは、キッと睨みつけるように振り返る。
ピッチピチのシャツや日焼け肌、サングラス……。やはりマックスであった。
彼は、自身のカフによる操作で、ホログラムを表示している。
それが『写真』であった。カザミの視点からは、左右反転して見える。
全身に悪寒が走った。
あれは以前、彼がわざと硬貨を落としてカザミに拾わせ、その隙に撮影されたもの。
フレームいっぱいに、自分のお尻がドアップで写されている。
本人の前で堂々とひけらかしてくるとは思わなかった。
カザミはもはや、表情を作ることも忘れる。ズカズカと彼に接近。
ホログラムのゴミ箱アイコンに触れようとする。
「消せ……!!」
だが行動は空を切った。
マックスが咄嗟に、ホログラムの表示を解除したのだ。
前のめりに体勢を崩す、このどさくさに紛れて彼は来た。
肩を掴まれる。
撫で回すような手つきに虫酸が走る。
この世界の価値観だから、と納得できる精神状況ではなかった。
勢い良く腕を振り上げ、無理やり距離を取らせる。
「ちょちょちょちょい!! 別に自由だろ身体を撮るくらい!」
彼は両手を前に出して弁明する。
「ましてや、ビジュアル重視で売り出してる仕事だろうに。自分で選んだんだよなあ?」
顎を上げて言ってきたその点に関しては、カザミも言い返せない。ぐぐっ……と唸る。
スーパーイーツの配達員は、いずれも美男美女。客は彼ら彼女らを指名して呼べるが、割高。
だからこそ、配達員に入る給料も多くなっている。
カザミは自分の顔には自信があったがために、この仕事を選んだのだ。
とはいえ、もしこれが負の感情が消滅していない旧時代ならば、彼の言動については何らかの罪として追求できただろう。
そもそも、何故彼はこの病院にいるのか。
まさかと思い、ゾッとした。
マックスに人差し指を突きつける。
「なら今やってるストーカー行為は? それなら警察沙汰にできるけど!」
「自意識過剰ー! オレっちはメーナちゃんのお見舞いに来ただけだよぉ! けど病室行ったらいなかったから、看護師さんに聞き回ってさ」
よく見れば、彼は左手に花束を持っていた。これ見よがしに強調してくる。
桃色のアンスリウムや、紫のクレマチスといった、オリジナリティ溢れる内容となっている。
「メーナちゃんが怪我したっていう公表されてない事実も、映画の共演者であるオレっちには伝わっちゃうんだよねぇ」
確かに、彼がここへ来る動機としては筋が通っていた。カザミはむすっとなる。
ここで終われば、まだ『趣味は最悪だが根は良い人物』の評価で留まっていた。
ぬっと顔を近づけてきたため、塵となって消えた。
「エリカちゃんこそこんなところにいてー。なんだかおいたが過ぎてるんじゃあねえのお?」
関係者でもないのに、と言いたいのだろう。逆にこちらが怪しまれ始めた。
カザミは、ピザの配達で彼とメーナに出くわした際に言った言い訳を、瞬時に思い出す。
「メ……メーナちゃんの……ファンだから」
「へ〜。それってエリカちゃんの言う、ストーカーにはあたらねえんだぁ?」
彼の身体から、強烈な香水の匂いが漂ってくる。
しかし、様々な種類のものを吹きかけているのか。
統一感のない複数の匂いがカザミを襲う。
「女の子同士だからいいってか? 性別差別は良くないぜ~。ならオレっちも、同じくらいのことは認められるべきだよなぁ?」
臭い。キモい。
吐き気すら込み上げてくる。自然と顔が歪む。
彼の『タマ』でも蹴り上げてやろうかと頭をよぎったが、冷静を保つ。
この状況は、利用する他ない。
突き飛ばしはしない程度に、彼の胸板をポンと押し返す。
そのついでに、もう片方の手を花束の中へ突っ込んだ。
「あたしは……見守ってる程度だからいいの」
「ふーん。見守るねえ」
サングラス越しに、ねっとりとした目つきが見える。
しつこい。一度狙った獲物は逃さないタイプか。
ただ同時に、目移りしやすい性格であることも分かっている。
カザミは目を閉じて言う。
「……メーナちゃんなら、病室に戻っていったみたいよ。早く行ってあげれば?」
「え。マジか。こうしちゃいられねえ!」
彼は無駄にシャツのシワを正した後、左手を上げた。
「じゃあなエリカちゃん! またいっぱいのメニューを注文してあげるからな!」
膝を高く上げた駆け足で、カザミの横を通り過ぎていく。
彼の背中へ向けて、一応手は振ってやる。
注文は多いほうが利益にはなるはずだが、冷めた笑いしか浮かばなかった。
アングとの繋がりが生まれてしまった今、彼に利用価値があるとは思えない。スーパーイーツのような阿漕な商売は他の会社でもやっているため、そちらに鞍替えするか、という検討も浮かぶ。
そして、あの馬鹿な男では見つけられまい。
花束の底に盗聴器を仕掛けてやった。おそらくあの花束は、メーナの病室へと届けられる。
監視カメラは、プライバシーの観点から、音までは拾えない。これで、現在の彼女に関する全ての情報を入手できるようになったわけだ。
彼女の身に起きる、あらゆる異変を察知できる。すぐに駆けつけられる。
ふと、同時に思った。
果たしてこれは、誰に対する予防策だろう、と。
無実の少女を、こちらの世界へ引きずり込んでしまった。
耐え難い罪悪感から、自分が逃れたいだけなのではないか。
誰もいなくなった廊下で、カザミは小さく息を吐いた。




