Phase7-6:双剣――世界を断つ者
外から聞こえる轟音が、今のメーナには厄災のように聞こえた。
何かの破裂する音か、あるいは人の死の音か。母によって明言された計画が、早くも始動したのだと察する。
病室という閉鎖した空間。
ひと眠りするとは言ったものの、できるわけがなかった。
結局メーナは枕に寄りかかるように座り、下を向いていた。
全てがおかしい。
思えば、傷を付けられたあの時から、メーナの身に違和感は生じていた。
痛みと共に這い上がってきた知らない感覚、声。
他に植え付けられたのは、考え方だ。
例として挙げるならば、人の死に対する嫌悪。
脳に染み込んだ映像の中で、多くの遺体が無惨に積み重なっていた。
ほんの数時間前ならば、流し目で見ていたはずの光景。
存在していなかった倫理が、イレギュラーとしての覚醒と同時に、何処か別の場所から流れ込んできたかのような。
「そもそも、何で私が……」
死ぬほどの痛みを味わえば、精神が壊れて、イレギュラーになってしまうかもしれないと聞いたことはある。
レッドに切り裂かれた際の痛みは、確かに激痛であった。
だが、死ぬと思うほどではなかった。
何か別の理由でイレギュラー化した可能性もある。
とはいっても、思いつくのは、刻まれた三本の傷のみ。
導き出せる答えが一つしかないことに、言いようのない歯痒さを感じる。
同時に、尿意を催してきたと気づけるくらいには落ち着きを取り戻せた。
この個室にはトイレが用意されている。わざわざ、誰かに見られる危険のある廊下へ出なくて済む。
メーナは右に身体を向け、脚をベッドから下ろす。
俯きながら立ち上がり、視線を落としたまま病室から出ようとした、その最中。
ひゅう、と。
冷たい風を感じた。
「っ……!?」
喉を引き攣らせながら、窓の方へ振り返る。
閉まったままの筈の窓が開いており、その前には。
スーツ姿に、狐の仮面を被った女性がいた。
「あな、たは……」
高い階の窓から唐突に現れた人物。口封じにでも来たのかと連想する。
だが、仮面のデザインを覚えていた。
彼女とは、ナイゲール社のビルで会っている。
レッドに切られて血が溢れた腕を、すぐに包帯で巻いてくれたのだ。
生じていた息苦しさから解放され、ホッと胸を撫で下ろす。
「さっきは……ありがとう。おかげで大事に至らなくて済んだわ」
声をかけるも、彼女はポケットに両手を入れたまま、動こうとしない。
もどかしい。
緊張で、口の中に唾が溜まる。
自分から何かアクションを起こしたほうがいいのかと思い、チェストの上に置かれたポーチに手を伸ばそうとする。
「何かお礼を――」
「あたしの声に聞き覚えは?」
被せるように言われた。
ポーチに触れる前に動きを止める。
「えっ……。あっ」
高くも芯のある、通りの良い声。
不可解な記憶から辿れば、思い出せた。
「確か、スタジオで……」
あれは、マイライズ・ハイスクールでの事件が起きる前日のことだ。
夜の撮影スタジオに忍び込んだ人物。壁越しに、メーナへ声をかけてきた。
あの時、なんと聞かれたか。
主題の部分だけは完璧に覚えている。
『ジュニアハイスクール時代のアング・リーがやったことについて――』
ジュニアハイスクール。アング・リー。
何のことを言っているのかについては、最初に聞かれた時から分かっていた。
メーナが、アングを追いかけ始めたきっかけの出来事。そのことを誰かに悟られ、広められれば、アングに迷惑が及ぶ。
だからあの日メーナは、「忘れちゃった」と誤魔化した。
つまり、狙いは彼……。
そうと分かれば、メーナは前のめり気味だった姿勢をスッと正す。
気丈に振る舞おうと、彼女を強く見据える。
「アング君のことなら答えないわよ」
宣言にも似た拒絶を、彼女は受け止め……。
呆れたように俯いては息を吐いた。
「よっぽどあの子のことを気に入ってるみたいだけど、だから余計に分からないんだよ」
ここまで言い終え、彼女は歩き出す。
メーナは、揺れる鼓動を背負いつつ、壁に手をついた。
狐面の彼女は、扉への道を塞ぐような位置で止まる。
「学校でのテロと、今回のイレギュラー銃撃。どっちも君とアング・リーが居合わせて、人が死ぬほどの事件が起きてる」
仮面越しでも、こちらを睨みつけるような目つきだと分かった。
「偶然にしては出来すぎなんじゃないかって思うんだけど」
何が言いたい。何をしに来た。
少なくとも、仲良く話をしようという空気でないことは感じ取れた。
――つまり彼女は、こう言いたいのか。
私が、アング君の命を狙っていると――。
対抗の意識が芽生える。
ドス黒い何かが、声となって出てきそうになった。
しかし思い出すよう、自身へ言い聞かせる。
「(……耐えなきゃ)」
もしそのまま言い放ってしまえば、自分がイレギュラーになったことを白状するのと同義。
本来の自分ならば、もっと冷静に対応できているところだ。
眉が傾くのを、必死に止めようとする。
それでいて、微笑みは絶やさないように。
「私が被害者なのも、全部自作自演だと言いたいのね」
不意に出た言葉を、挑発しすぎたとも思った。
対面の彼女が、足踏みするように両足の位置を直す。
恫喝される、という予想は裏切られる。
どこか、言い聞かせてくれているような声だった。
「ねえ。あたしだって信じたくないんだよ。君が嘘をつくような人だなんて、本当は思いたくない」
少し、心がほぐれていくような錯覚に陥る。
彼女の言葉を聞いてみてもいいかという、一瞬の期待。
次の発言で崩れ去る。
「もしくは、お母さんに利用されてるとか……」
自然と、眉間に力がこもった。
聞き逃すことはできない。今度は、母まで疑われた。
あるいは、こちらが本命だったのか。
利用されているということは、自分が、アングを誘い出す為の駒だったと言いたいのだ。
「知ってることを話して。どんなに小さな情報でもいいから」
追求の声は、もはや遠く聞こえる。
昂ぶる感情が内に宿る。
今まで、我を忘れて喚き散らすイレギュラーを見下していたが、こういうことか。
如何に相手を傷つけてやろうかという衝動に駆られる。
だが、母ならばどうするか。
きっと自身の意見で相手を正し、整然とした態度を続けるだろう。
母が敷いたレールには乗らないと決めてきた。
楽な道では、自分の強さにはなれないと思ってきたからだ。
ただし今は、尊敬すべき人として意識する。
「私も、お母様も、悪いことなんて一つもしていない」
それでいて、ささやかに言葉で刺す。
「何か話すくらいなら、あなたを警察に突き出してあげる」
逆上されるかもしれない。
しかし強気の発言は、彼女を無言で俯かせるに留めた。
もぞもぞと。
彼女の右手が、ポケットの中で何かを探し回っているのが気になる。
だから、すぐに接近を許した。
壁に強く押し付けられる。
心臓が止まりかける。
息継ぎする間もなく、首が。
彼女の右手首と壁によって、挟み込まれる。
反射する光が、目を眩ませる。
それは、右手による逆手で握られていた。
銀色にきらめく切っ先。
折りたたみ式のナイフが、自身の頬のすぐ横で、不気味な光を放つ。
「じゃあ仕方ない……」
低く唸る彼女の言葉が、反響する。
「そういう態度を取るんなら、こっちにもやり方っていうのがあるのよ」
息が。
全身の震えが、止まらない。
声も表情筋も、どうにか今のままの『余裕』を保とうとする。そこばかりに力が集中する。
「丁重には扱ってあげる。けど言いたくなるまで監禁して、最悪の場合、自白剤でも……」
ただ、偏りすぎた。
限界が。
気づいた時には遅かった。
チョロロロロ……。
情けない水音が足元で響く。
砕け散った威厳が、最悪の形で体現された。
狐の仮面が見下ろす。
驚いたように肩が動き、ナイフも離れた。
揃えていたはずのメーナの脚が、バツの字に歪む。
羞恥心と無力感。
全ての気力が抜け落ち、その場でべったりと座り込む。
膝に自身の汚点が付着しても、気にかける場合ではなかった。
単なる脅しだ。分かっていたのに。
死への連想がそうさせてしまった。
目の前にいる女性は、二歩、三歩後ろに下がる。
自身の仮面を片手で鷲掴みにして、何故だか震えた。
「まさ、か……」
彼女の耳から着信音が鳴る。
狼狽していた彼女だったが、ハッと息を整えてから、指をカフに当てて対応。
「はい。……うん。確かにさっきから鳴ってるけど……」
震えに抗うように、メーナは見上げる。
狐の彼女は、ベッドの方を見下ろしつつも、チラチラとメーナを気にかけるような挙動を取っていた。
だが。
「拠点が……!?」
今、通話相手の発言に驚愕した瞬間。
完全に視線を逸らした。
あとは、本能がそうさせていた。
真後ろの壁に配置されている、ナースコールボタン。
それを手探りで見つけ、親指で何度も押す。
フォーン、フォーン。
最初の二音だけがスローテンポだった。
連打によっての誘発か。
ピピピピピピピピピピ――!!
一気に、緊急を報せる高速の間隔となった。
狐面の彼女は当然反応し、廊下側、窓側……という順に素早く見回す。
「ちっ……!!」
舌打ちの後、開いたままの窓に向かって走り出す。
決して広くはないその穴を、まるで猫のようにだ。
器用に潜り抜け、落ちていった。
なんとか、彼女を撒くことには成功。
そうしてすぐに、『終わっていない』ことに気づいた。
別に脚を負傷したわけではない。自由に立って、お手洗いに行ける身体状況だ。
だというのに、こんな歳になっての粗相。
傍から見れば、何が起きたのか把握することは難しい。
ただ、こう考えてしまえばどうだろう。
通常の人間とは違う感情の持ち主。抑えきれなかったということは、まだ成り立ての人物だ。
この空間に、社会から排除しなければならない、異分子がいるのでは。
「あ……あぁぁ……!!」
メーナの口が波打つ。
隠さないと。
このままでは、看護師が来てしまう。
自立した人間として、あるまじき姿を見られる。イレギュラーの証明に繋がってしまう。
まず、出来てしまった下品な水たまりを処理しないことには始まらない。
しかし、どうすればいいのか。
慌ただしく病室を見回すと、ある設置物を捉えた。
窓から近い壁沿いに、クローゼットがある。
駆け寄り、すぐに中を確認。
替えのベッドシーツ……だけではない。ズボンまでもがハンガーにかけられている。
悩むまでもなく、メーナは白いシーツを引っ張り出した。
なるべく二重になるように折り重ねてから、自分の尿に押し当てる。
上下に擦り、どうにか水分を吸い取ろうとする。
なんて惨めな光景だと思った。
股を濡らしたまま四つん這いで床を拭き、涙が落ちて、混ざり合う。
そしてこの時は、つくづく冷静ではなかった。
シーツを使って拭いた時点で、染みができる。
白は特に色が目立つ。こんな大きな物を隠し、誰にも見られずに処分するのは難しい。
ポーチからハンカチでも取り出し、使うべきだった。
ある程度は拭けた。しかし問題はもう一つある。
穿いているズボンだ。こちらはピンク色のため、乾いても色は目立たない可能性がある。
だが、待っていられない。
着ている方のズボンを急いで下ろし、足から引き抜く。
後はもう、めちゃくちゃだった。
シーツを適当に包む。脱いだズボンと共に、窓際まで持っていく。
そして、メーナは。
両方を窓から放り捨てた。
「(風に流されて飛んでいって……!)」
窓枠を掴み、様子を見守る。
ベッドシーツは、軽やかではないが、横へと流されていく。
しかし、ズボンは。
真っ逆さまだった。
特に、水分を吸収していたが為に、重力が優先される。
地面にベタンッと落ちた。
ちょうど近くには、芝刈りをしているロボットがいた。
上から降ってきたと証言されるのは、必然。
「あ……あ……」
窓枠を掴んだ手が、震えて止まらない。
ガチャッ。
病室の扉が開いた。
「メーナさん! 大丈夫ですか!?」
駆けつけた看護師の声。
まだ、替えのズボンに触れてもいない。
下着を丸出しにした姿を見られる。
こんな様子で、まともな状態だと結論付けられるものか。
陰惨な未来を想像し、メーナは。
目からこぼれる雫を虚空の彼方へと落とした。
*
病院から逃走したカザミは、建物同士の路地裏へと入り込んだ。
しかし、自分の判断に対して、渦を巻く感覚に陥る。
恐怖は感じない相手だから、ナイフをギラつかせるくらいしないと。
その考えは、間違っていたのかもしれない。
『おい、今の音は……』
後悔に沈んでいたところを、カフからのアングの声が引き戻した。
まだ、彼との通話は繋がっている。
自分がメーナを傷つけたことを、とにかく気にしていた。
少しでも立ち直ってもらうために、メーナの容態を見に行き、無事であることを強調してやりたかった。
同時に、彼女が本当に白なのか、確かめる目的もあった。
病室で揉めたことに関しては、言えるわけがない。まだ上手い言い訳も思いつかない。
ゆえにカザミは、話題を逸らす。
「とにかく、連絡くれてありがとう。あたしはすぐに現場に行くから!」
『待て。レジスタンスの拠点っていうのは……』
呼び止めた彼は、しばらくの無言の後に続けた。
『ナイゲールビルから北西にある、樹木管理センター……。ここで合っているな?』
「そうだけど……。えっ、ちょっと!?」
『分かった』
強引な返答の末、通話を切られた。
彼がまだ立体駐車場の位置にいたのならば、確かに彼のほうが辿り着くのは早い。
やる気になってくれたのか。だとしたら助かるが、手放しで安心できるというわけでもない。
普段は両脚に付けているワイヤーの装置は、潜入のために外している。なので財布型のワイヤー装置を使い、蜘蛛のヒーローの如く屋上へ上がろうとする。
しかし背後で、パトカーのサイレンが横切った。
カザミは、跳躍の体勢を中断。しゃがんでゴミ箱の陰に隠れる。
もう追手が?
……とも思ったが、マリウスの発令による出動だろうと察する。
もう一台も近くに来そうだ。音が遠くなるまで、待つこととする。
カザミは、仮面を取る。
顔が汗ばんでいたのが気持ち悪かったからだが、自身の顔を右手で覆い尽くす。
途切れ途切れに息を吐いた。
……ナイフを向けた途端、彼女の表情は一変した。
そして垂れ落ちた水面は、カザミの足裏にまで及んだ。
――あれはやっぱり……。
いや、俳優なんだから、気を引くためにわざとなんじゃ――。
ただ、こうも思った。
仮に同じ立場だとして、躊躇いなくあんな真似ができるだろうか。
しかも彼女は直前まで、カザミに対抗していた。
そんなプライドの高い人物が、突然尿を垂らして同情を誘うなど、流れが飛躍している。
しかし、ある原因を考えれば、この突飛な状況の全てに説明ができてしまう。
明確な原因は定かではないが、間違いなく。
レッド・アーマードに攻撃されたことが、覚醒のトリガー。
口元を押さえて、戦慄する。
「嘘……でしょ……。そんな……っ」
彼女のように世界的な有名人が、イレギュラーとなってしまった例をカザミは知っている。
人気の毒舌コメディアンだったが、大事故から復帰した後、自慢のブラックジョークが言えなくなっていた。罪悪感からだろう。
その後警察の捜査が入り、逮捕。
電気椅子で死んだ。
このままでは彼女も、よほど上手く立ち回らない限りは、同じ末路を辿ることとなる。
全ての仮説が正しいのだとしたら……そうだ。
アングとメーナを同行させた自分にこそ、責任があるのではないか。
彼は傷つきながらも立ち直りかけている。だからまだいい。
だがメーナは、違う。
彼女はただ、アングに好意を抱き、追いかけただけの純粋な子だった。
本当の罪は自分にある。
浅はかな計画によって、一人の少女の人生を台無しにしたのだから。




