Phase7-3:双剣――世界を断つ者
「はーいズブってしますよ~♡ 動かないでねー!」
献身を装った一方的な女の声が、カナの正面から聞こえてくる。
拠点のリビング。L字に並べられたソファの窓側に、カナは座っている。
「って、元から動けないんだっけ? なんとか言いなよ! 喋れもしないんだったー!!」
アハハハハと笑いながら、傍に座る彼の腕に、チューブを刺す。
これが、爆弾アーティストを自称する彼女に下された、今日の任務だ。
次なる展開に備え、出撃前のメンバーを事前にメンテナンスしておく。施術方法は、キャンディとサイラックのみが知る情報。
キャンディは、カナ以上に感情を表に出せない彼に対して、常に興奮した様子で甚振っている。
「痛がらないし強がらない。そのほうが潔くて気持ちいいんだよね~」
組織の潜入担当その二。レイシキ。
本名は不明。その点においては、ジョリントと同様である。
寝癖のように無造作に立った髪は、かつては輝くブロンドだったであろう灰髪。今はツヤがない。前髪は伸び切ったまま処理されず、目元が隠れている。
ボロボロの白衣は胸元がはだけ、骨と見間違う白肌。細い肉が露わとなっている。
白衣は袖も破かれ、露出した腕の至るところに罰字の傷痕。皮膚を正円に切り抜かれた窪みも複数ある。
そこへ、四角い容器から繋がったチューブを嵌め込む。
容器の上にあるボタンが平手で叩かれる。
緑色の液体が、細い管を通して、レイシキの体内へと流し込まれる。
カナはその様子を見ていない。
一度見てから、もう見たくないと思った。
ピアノが上手くなる為の教本を開いては、こちらに集中する。
止めなきゃ、と思う時もあった。
だが、身体の震えが勝った。
そもそも彼が、どういった人物なのかすら知らない。明日は我が身なのかと想像する時もある。
「お人形ちゃんさぁ、その本、何周もしてるのにまだ上手くなんないの?」
来た。
彼女は、カナのことを嫌っている。
いくら罵倒しようとも身体を叩こうとも、笑みを浮かべたままの態度。それが気に入らないらしい。
カナにとってもそうだ。
キャンディのことを思うと、口角を上げることを忘れそうになる時がふとある。
「作業用BGMになると思ったら、所々でたどたどしくって、ぜんっぜん集中できないんだよねー!」
今まさに迫る危機に対して、笑みを保っていたはずの弧線が震える。
それを彼女が視認し、ニタリと笑った。
立ち上がり、調整中のレイシキを尻で突き飛ばす。
彼は一切の抵抗なく、無機物のようにソファの上で横になって倒れた。
キャンディが前のめりになり、顔を近づける。
「死なせちゃいけないっていうんならさぁ、いっそ生きた爆音スピーカーに改造してあげようかァ!?」
目は合わせないようにしている。
ゆえに、彼女の虫歯だらけな口内を覗き見るかたちとなる。
負けてはいけない。
カナは両膝を揃え直す。
ここで負の感情が増幅すれば、またあの時のようになる。
姉によく似た人物に対してやったように……。
パタン。
廊下へと続く、出入り口の扉が閉まる音がした。
気づけば、彼が中に入っていた。
「これはいったい何の時間だ?」
優雅な足取りを鳴らしながら、ソファのある方へと歩み寄ってくる。
キャンディは彼を見て、わざとらしく口を縦に長く開いた。
「あっれ~!? 全然顔見せないから、もう退職したのかと思ってたー!」
「冗談だろう? 我々の計画は序曲が終わり、第一幕が上がったばかりに過ぎない」
余裕たっぷりな表情で三人を見下ろす彼は、組織の……。
いや、カナにとって、今の自分を保つ為に必要な唯一の人。役割という立ち位置では片付けられない。
銀髪の彼は、こちらに甘い視線を合わせる。
「久しいな、我がハーモニー」
彼は、カナのことをそう呼んでくれる。
ヴィウス=ノヴァ=マイヤー。世界を席巻している若き作曲家であり、指揮者。
カナがピアノの演奏者を目指し始めた頃に、時を同じくして颯爽とその存在は現れた。
いつか彼と共に演奏することを夢見ていた。
それがまさか、このようなかたちで叶うとは夢にも思わなかったが。
彼は、チューブで繋がれている痩せ細った男性を見ると、怪訝そうに目を細める。
「レイシキ? 出撃させるのか」
キャンディは、ソファへ落ちるように勢いよく座る。
棒に刺さった飴の包み紙を外し、味わい始めた。
「関係性を断定させたい人物がいるとかなんとか言って、美魔女さんがね~」
「つまりまた偵察……。彼の真価を披露する、いい機会だと思うのだが?」
「知らなーい。パパに聞いてよ」
また彼女は前のめりになり、今度は揃えた両掌に顎を載せた。
「キャンちゃんは新しい爆弾生成したいのになぁ」
「今日はより多くの魂が天へと召される日だ。サイラック医師も、本職で忙しくなるだろう」
「むしろ喜んでそうだね~」
会話を一通り終えると、ヴィウスは回り込み、カナの横へ。
じっと視線を合わせてから襟を正した。
「相変わらず、芸術的な瞳をしている。わたくしの好きな色だ」
カナは、そのことだけは意味が分からなかった。
あの地獄の日を迎えて以降、自分の目はどこか濁り、汚い色味をしていると思ったからだ。
ただ、彼が好きと言ってくれている。
カナはより一層、口角を上げる意識を強めた。
スッと手を差し出される。
「さあ、今日は何を共に弾こうか?」
ケイオスという組織の活動に思うところはある。
まだ直接人は殺していないが、それを命じられる時が来るかもしれない。そうなった場合のことは考えたくない。
それでも、理念には共感していた。
何より、彼がいる。だから耐えられる。
差し出された手を取った後、並んでグランドピアノの前に腰掛ける。
そっと鍵盤に手を添える。
指は自然と動く。
身体が覚えている。
なのに。
脳裏をよぎった。
あの頃よりも少し大人になった――。
姉なのかよく分からない、その姿が。
一瞬の動揺で、指が遅れる。
あとは立て直すのに必死だった。
二人の音階が揃わない。情けない音色になった。
横のソファから、「ウゲェッ」と悶絶する声が聞こえる。
演奏が終わる。
醜態に、指が、全身が震える。
もう、連弾なんてしてくれないかも――。
だがヴィウスは、責めたりしない。
逆に、白い歯を見せるほどに、心の底から嬉しそうにした。
「これまでよりも遥かに美しい音色だ」
*
時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。
病室の中で、桃色の患者衣に身を包んだメーナの意識は、自然とその一秒一秒へと傾いてしまう。
「メーナさんが負った傷の縫合は、無事完了しました。しばらくは激しい運動などは出来ませんが、日常生活に支障はないかと」
黒に近い緑髪のオールバック。眼鏡をかけた長身の男性医師が、ベッドに座るメーナに説明を行っていた。
傍らには、急遽駆けつけたメイドのグラート。そして、母マリウスの姿もある。
あれからメーナは、救急車によって病院へ運ばれた。
ナイゲール社内での事件だったがために、ナイゲール総合病院へ……というわけではない。最も近い病院が優先された。
そこから、約一時間半の施術だ。
右腕を深く裂いた三本の傷痕は、針と糸によって痛々しく塞がれた。
現在右腕は、ベッドの手すり部分に敷かれた、クッションの上に置かれている。
「なるべく腕を、心臓より高い位置に保っていてください? 下ろしすぎるとまた腫れ上がってしまいますから」
そうメーナに優しく呼びかけた後、彼はすぐに振り返り、マリウスを見た。
「ご自宅に帰ることもできますが、しばらくはこちらで安静……ということでよろしいですね?」
「かたじけない。確か名前は……」
医師の男性は、気をつけの体勢となり、上半身を斜め三十度の角度で下げた。
「サイラック・スティッチャーと申します」
グラートが、彼よりも深くお辞儀する。
「サイラックさん。今回は、迅速な処置を施してくださり、ありがとうございますぅ~」
「私はドクターですよぉ? これくらい出来ずに名乗れるものですか」
「うふふっ。それもそうですねぇ~」
「とはいえ、雑菌が入り込む可能性はありました。処置が遅れれば危なかったですが、幸いにも、他の被害者は皆さん死人でしたから。すぐに順番が回ってよかったですねぇ」
少し、胸の奥がヒリついた。
他人の命の価値など軽く考えていい。常識のはずだ。
サイラックは、自身の両掌を擦り合わせる。
「ではでは。何かありましたら、お手元のナースコールボタンを」
そう言い残し、この場から去ろうと歩き出す。
気のせいだろうか。
病室を出る直前、彼が母の顔を見て、ウィンクしたように思えた。
母マリウスは、彼が視界から消えるのを見送る。
「腕を引っ掻いた犯人がレッド・アーマードだと知った時は、言葉を失ったが……」
発言の最中にメーナを見下ろす。
「よく無事でいたな、メーナ」
長らく聞けないでいた、母としての暖かな声掛け。
メーナは目を閉じて受け取る。
ここまで、言葉を発さないでいた。
強く息を吸い、しかしいつものように滑らかに。
そう意識するために視線を落とした。
「おそらく……手加減してくれたんじゃないかしら」
「ほう?」
「私ほどの有名人なら、命まで奪ってしまえば、風当たりが強くなり過ぎる。イレギュラーから人間たちへの警告としては、絶妙なバランスだと思うわ」
マリウスは、無言で頷いてから言葉を選ぶ。
「ともかく、この一件に関しては、集まった報道陣には伝えないでおいた。しばらくは、映画の撮影も中止だな」
「傷痕は……CG処理で隠すしかない?」
「手術で大枠は取り除けるが、完全には厳しいだろう」
女優としては致命的……。
本来ならば重要視しなければいけないはずのことだが、それよりも、話を早く切り上げたかった。
人差し指を下唇付近に当て、考え込む素振りを見せる。
「じゃあ、その筋に長けたデザイナーを探さないと」
望んだとおりにしては、あまりにも都合が良すぎた。
母からの言葉が、返ってこない。
疑問に思ったメーナが顔を上げる。
母は、生暖かい視線を注ぎながら、笑みを浮かべていた。
メーナの額に汗が生じる。
何故かは分からない。
今は、必死に笑顔を繕う。
「……どうしたの?」
「いや? 実に逞しく育ってくれたと感心したまでだ。こんな時にも映画の心配とは」
「……自分から、この業界に踏み込んだんだもの。お母様に頼らない、自立した女性になるためにね」
気を良くしたのか。マリウスは「ふふっ」と笑った。
「では私は職務に戻らせてもらう。グラート。後は頼んだ」
「ええ、マリウス様」
伝え終えると、マリウスは早々にこの場から去ろうと背を向ける。
「あっ、お母様!」
咄嗟に呼び止めた。
マリウスは足を止める。ただそれだけ。
病室に重々しい沈黙が落ち、二秒。
彼女はようやく振り返る。
メーナは慌てて口元を緩め、首を傾げた。
「一眠りしたいと思っているから、グラートも席を外してくれると助かるのだけど」
要望を聞いても、彼女は返事をしない。
やがて、視線だけを横へ流す。
受け取ったグラートが、こちらを向いてゆっくりと一礼した。
マリウスがまた見下ろしてくる。
自分にだけ向けてくれる、いつも通りの穏やかな笑顔だ。
「配慮が欠けていたかもしれないな。ではおやすみ、メーナ」
母は病室を出て、それを追うようにグラートも出る。
最後は彼女が、気を遣って静かに扉を閉めた。
足音が聞こえる。
ヒールの高い音と、普通の足音。
徐々に遠くなる。
まだ早い。
息を止める。
今度は別の足音が近づく。
病室を横切る。
看護師たちの話し声と共に消えていく。
針の音だけの静寂。
足音も何もない。
再度確認する。
いま周りには、誰もいない。
貼り付けていた笑顔が、震え始める。
もう限界だった。
しかしメーナは、やり遂げた。
異変を悟られないために、演じきったのだ。
「はぁ……!! はぁ…………ッ!!」
上半身を前へと倒し、喉が焼けんばかりに大きく息を吸い込む。
足りない。
矢継ぎ早に過呼吸を繰り返す。
まだ、意識が。
心が落ち着かない。
「何で……。どうして、こんな……!」
原因は分かっている。
異変は、レッド・アーマードに腕を切り裂かれた直後から起きていた。
鋭い痛みは単なる引き金。
後に、這い上がる重たさが脳の奥へと巡り、侵食を始める。
知らない声。
知らない言葉に、知らない知識。
それらは頭の中で、乱暴に重なり合う。
やがて、一つの……。
悪魔的な事実をメーナに知らせた。
――私は、イレギュラーになった。
気づいてからは、動揺を悟られないように、痛がることだけに集中した。
本能がそうさせていた。汗の滲みも、痛みを伴っているのであれば自然だと思われる。
イレギュラーであることを知られればどうなるかなど、子供でも答えられる。
そして、まさにあの場がそうだったではないか。
母の主導のもと、イレギュラー達は抹殺された。
娘に対しても実行するかは不明。もしかしたら見逃してくれるかもしれない。
ただここは、世界という外気の中だ。
いつ誰のもとへ情報が行き交うか、分かったものではない。一人になるまでは平静を装った。
両手で自身の顔を覆う。
言い聞かせる声までもが震えてしまう。現実から逃避したい。
「落ち着いて……。私はメーナ……。只の人間の一人……」
しかし内側からのざわめきは、嘲笑う。
メーナの願いを別のモノに変え、正気を保てなくする。
考えたくないことが頭によぎる。
レッド・アーマードの正体が、もし自分の推理通りだとしたら。
なぜ彼は、攻撃してきたのか。
首を激しく横に振る。
「違う……。違う違う、そんなわけない……!」
同時に彼は、「逃げろ」とも言っていた。
本当に殺意があるのならば、そんなことは言わない。きっと何か事情がある。絶対にそうだ。
そう願うことだけが唯一の希望。
逃避するように、メーナは、クッションに置かれた自身の右腕を見る。
負傷してすぐ、狐のお面の女性が包帯を巻いてくれた。
それは救急車の中で処分され、縫合が済んでからは別の包帯を巻かれた。
なのに……。
やはり、おかしくなってしまったのか。
包帯が動いて見える。
布の重なり目が緩まり、勝手に床へ落ちる。
糸で塞がれた傷口が露出する。
そして。
まるで、皮膚の下で気泡が湧いているようだった。
至る部分に現れた不気味な膨らみは、徐々に傷口へと向かう。
這い出る。
蟻のようなサイズの、丸い血の塊。
手と足が生えている。頭だけが大きい。
一匹二匹と、多くなっていく。
それには口がある。
しかし目はない。
なのに、一匹がこちらを向く。
口が縦にねたりと開かれ、粘つく赤の糸が伸びる。
そして彼は。
この世のものとは思えない高い発声と共に、牙を向けた。
『キシャァァァァ……!!』
「ひぃっ……!?」
横に仰け反る。
肩をすくませ、身を縮こませる。
叫んではいけない。
その前提が生んだ、咄嗟の防衛本能だった。
ビクビクと視線を戻し、傷口を見る。
何もいない。
それどころか、包帯自体が解けていない。
只の幻覚だった。
安堵するよりも前に、何故だか、目から液体が垂れた。
止まらない。歯もカタカタと鳴る。
こうして想起したのは、自身への危機だけではなかった。
彼がそうであると決まったわけではない。
だが、これが。
イレギュラーという人種の、苦しみなのか。




