Phase6-8:戴冠の序曲――爪痕
二人で話したいと言われたカザミは、ルーに連れられるまま、オフィスエリアの中央からやや奥まった場所までやって来た。
付近のデスクには、ちょうど誰も社員がいない。話を聞かれないようにするためにこの場を選んだのだろう。
ハルの視線が遠くから突き刺さるのが気になる中、ルーが口を開いた。
「イレギュラーの方ですね? 心中お察しします」
「もしかしてあなたも?」
「いえ。私は、レジスタンスの理念に共鳴した裏派閥の一員というだけで、世界によって歪められた『正常な人間』です」
「裏派閥……」
この言い回しから、世界中で起きている異変について察知はできているのだと分かる。
「そのご遺体はよく覚えています。まだ年端もいかない女の子をあんな風に……」
「レジスタンスが検証を依頼したって話ですけど」
「配布されたDNAと照らし合わせたのですが、間違いなく本人でしたよ」
そうも言い切れないのではないか。彼女は証拠品を信じ、分析したのだろう。
だがもし、その根底が間違っていれば?
「そのDNAは、どこから採取したもので?」
「裏派閥の調査班によれば、本人のご自宅に落ちていた毛髪、ピアノの鍵盤やペダルから採取したと」
平常心が悲鳴を上げる。
発言の後半。決定的な矛盾点に気づいた。
カザミは俯き気味に、呪いに満ちた声で言う。
「あの日。カナが使ってたピアノが壊れちゃったから、業者さんに送ったんですよ」
「え……?」
自分が見てきた事実と違う。
地獄の始まりとなったあの日、確かに自宅にピアノは無かった。
送ったピアノを何者かに特定されたか。
いや、『調査班によれば』という点が今回の肝。ルーは指示を受けて照合しただけに過ぎない。
だとすれば、そもそもカナの本来のDNAと一致していたわけではなかったということになる。
見た目だけ似せた……何だアレは。
カナの顔を再現した、単なる肉人形だったのか。
いずれにせよ、このことを隠したい何者かによる、明確な意図というものを感じた。
カザミは、ルーの顔を鋭く見上げる。
「ルーさんが書いた死亡診断書のデータですけど、検索しても見つかりませんでした。誰かに消された可能性があります」
「まさか、裏派閥の存在がバレて……!?」
もしデータが保管されていない状態を長い間維持し続けていたのだとしたら、裏派閥を処理せず、温めていたということになる。
そうした方がいいと考える理由がどこかにあるのか。
「消されたファイルを復元することは?」
「本来なら可能ですが、システム部に連絡してしまうと、私たちの活動を勘付かれるかも」
「もう手を打たれてる可能性も高いか……」
「そもそも大切なデータですので、上層部の承認がないと処理できないはずです」
つまり、この場でカナの死亡診断書データを見ることは難しい。
だがこれで分かった。
ナイゲールという会社は、ダブルスタンダードだ。
イレギュラーに協力するという顔をしておきながら、敵対する組織にこっそり尻尾を振る。
生き残る術だと理解することもできたが、一方で、ブルー・アーマードを装着する少女の存在を消そうとしている。
単に媚を売るという範疇を超えた。彼らは世界の闇の、味方なのだ。
腕を組んだカザミは要望を突きつける。
「ナイゲールが他にどんな企業とやり取りしてるのか、知りたいんですけど」
「我々で確認できるものだと、請求履歴くらいしか……」
「いいですよ。見るだけ見てみます」
薄いものでもいいので情報が欲しい。ルーはこの願いに応えてくれた。
最初に彼女が座っていたデスクへと戻る。彼女は着席し、請求履歴を開こうとする。
その間に、自分はポケットからスマートフォンを半分だけ出し、確認。
会議場に入ったら通話を繋げ。そうアングに伝えていたが、未だに画面に変化は見られない。
最後に彼を見た時には、外でメーナと二人で話していた。まだあそこにいるのか。
それはそれで構わないのだが、必ずしも安全というわけではないのだ。
「(何やってんのよあいつッ……!)」
もっと危機感を持てとイライラが募る。
「開きましたよ。こちらです」
そうこうしている間に、ルーは作業を完了していた。
カザミは覗き込み、取引先の企業名を確認する。
医療機器メーカーに、薬品会社。サミットのための警備会社や、ロボット事業に携わるAGEFなど、見る前から想像できるような内容ばかり。
やはり何の収穫も得られないか。そう残念に思いながら、リストの真ん中からやや下へと視線を滑らせる。
不意に、その名前が目に入った。
「ラット・クリーナー……」
他の無名な下請け企業には、どういった業務の会社なのかの注釈が入っている。
しかしここには、それがない。
カザミは同時に、ある一枚の写真を思い返した。
レジスタンスのメンバーが撮影した写真で、以前アングとも共有したことがある。
ある倉庫の前に立ち並ぶ、軽車両とトラック。その側面には、ネズミが掃除機をかけているロゴイラストが描かれていた。
レジスタンスがマークしていた施設を密かに処理。画像検索をかけても見つからなかった謎の清掃業者だ。
必ずしも同じとは限らないが、ラットという名称から連想してしまう。
試しにカフを使用し、企業名で検索をかけてみた。
近しい名前の清掃グッズばかりが出てくる。
「このビルの掃除は彼らに……?」
「分かりませんが、他に清掃業者らしき名前も見当たらないので、そうかと」
するとルーが、背を丸めてリストのある部分を直視。
「日付が昨日ですね……」
クリックすると、どういった取引が為されたかの詳細画面が開かれた。
一行だけの極めてシンプルな表記だ。
『2-42-GDA ×20』
ルーが首を傾げる。
「何かの型式番号でしょうか。昨日搬入されたみたいですけど」
単語としては読むことができない。アルファベットと数字の無機質な並び。
「もしかしたら、新しい掃除機が置かれていたので、それかもしれません」
末尾の『×20』という表記から、二十台分か。
ここまで大きなビルならば、同時にそれだけの数を発注しても納得できるかもしれない。
しかしカザミは、妙な突っかかりを覚えていた。
「掃除ロボットがいるこの時代に、掃除機だけを二十台……?」
更に、このアルファベットと数字の並びについてもだ。
どこかで見たことあるような気が……。
「長いですよ二人とも!!」
背後からの唐突な大声。
二人は肩を跳ね、咄嗟に左右へ離れた。
誰かと思えば、先ほどから待ちぼうけを食らっていた、ハル捜査官であった。
うずうずと、柔く握った拳を肩まで上げている。
「せっかく私もいるんですよ? 混ぜてくださいよ~!」
「二人で話したいっていうルーさんの要望でしたから……!」
有無も言わさず、彼女はモニターへ向けてぬっと顔を近づけた。
別に見られたところで問題にはならない。ゆえにカザミは、彼女の行動を止めなかったのだが……。
「あれ? これ、ひっくり返してみると……」
例の型式番号らしき文字の並びを見て、ハルは「んー?」と首を真横になるまで傾げた。
実際、カザミの記憶の記憶にもこびりついてはいた。ハルに倣い、脳内で逆さにひっくり返してみる。
ADGー24-2……。
カザミは絶句した。
見覚えがあって当然。過去にレジスタンスとの工作活動に参加した際、敵拠点に同じ物が配備されていた。
掃除機は目眩まし。真の狙いはこちらにある。
どこで使うつもりなのかなど、もうとっくに分かっている。
「クッソ……!!」
舌打ち混じりにカザミは走り出した。
「えっ、ショウさん!?」
偽名を呼んで慌てるハルを置いていく。構っている場合ではない。
これより、多くの血が流れるかもしれないのだから。
*
失踪していたはずだ。警察の捜索でも見つからず、手の打ちようがないと。
それとも、最初から彼女の掌の上だったのか。
震え、跪くように座るゴードン・ルッツ。
彼とは対照的に、マリウスは胸を張るように雄弁と話す。
『イレギュラーの実態というものを知り、私は驚愕しました。皆様方が想像するイレギュラーは、野蛮で、品がない。スラムに屯するならず者か、武装集団だというイメージでしょう。間違いではありませんが、実際はより複雑。必ずしもそうではない、巧みに世界に溶け込む輩もいます』
マリウスが、足元の男を人差し指で指す。
『そしてここにいる彼こそが、権力という盾に隠れ、空から民衆を見下ろし、自分は上位存在であると虚勢を張っていた、真なる愚か者です!』
強い言葉でまくし立て、印象付ける。ゴードン・ルッツという男は許されざる人物だと。
迫真という言葉が似合う顔つきだったが、ここで一息つく。
自称大統領は背に両手を回し、また優雅に笑んだ。
『本題に戻りましょう。人が住みやすい社会とはすなわち、無実の人々の死が最小限である状態を意味します。そのためにはいったい何が必要か』
しかしすぐ、その笑みに冷たい陰が差す。
『簡単な話です。殺してしまえばいいのですよ、異分子を』
言われっぱなしだったゴードンだが、遂にギリッと対抗する。
聴衆の方へ上体を傾け、大声を上げた。
「この女の言うことに耳を傾けるな!! 本当の意味でアメリカが……いや、世界のシステムそのものが崩か――!!」
横で不貞腐れるように唇を尖らせていたマリウスが、軽く首を横に振る。
懐から取り出した何かを押した。
その同時。
「うぎっ!? がっ、ハッ……!!」
いきなりゴードンの首から顎あたりが、鬱血。苦しみ悶え始めた。
身体を横にして倒れる。噛み締めた歯からはヨダレが垂れる。
よく見れば、喉元に何かが巻きつけられているではないか。
マリウスが押したスイッチにより、喉を締め付けられたのだろう。
『実に見苦しい。まるで責任の所在は自分に無いと言いたげだ』
だがアング自身、あの雨の日の夜に痛いほど思い知った。
彼は所詮、近しい者を人質に取られた操り人形に過ぎない。確かに衝動的に殺そうとはした。
だが、それだけでは何も変わらないのだ。もっと卑劣なる諸悪を滅ぼす必要がある。
それがよりにもよって、彼女……。
メーナの母親かもしれない。
考えるだけで、胃液がむせ返るような感覚に陥りそうになる。もうこの場から抜け出したほうがいい。
そう思いながら立っていたアングだが、左手を掴まれた。
隣で着席しているメーナによってである。
「ア、アング君。私は、あなたの味方だからね? 庇ってあげるから」
彼女は、レッドの正体がアングだと勘づいている。
だから宥めるようなことを言ってくれているのだろうが、頷けない。
壇上の光景を見てしまったからだ。
マリウスは、今にも窒息死しそうな罪人を虫ケラのように見下ろしながら、再びスイッチを押す。
首輪のランプが緑に灯る。
「ゲホッ! プハッ、ハァァ……!!」
嗚咽にも似た呼吸を繰り出し、なんとか死から逃れる。
マリウスは、再び視線を聴衆へ向け直す。
『イレギュラーという名の異分子を徹底的に排除したい。だが敵は狡猾かつ計画的であり、どこに隠れているか分からない。その対処法として私は、あるシステムを開発しました。こちらです』
彼女が右手を挙げると共に、スクリーンがまた切り替わる。
それは、今までの写真や地図などとは一線を画す。
下半分には、マリウスを中心として、ステージ側から見た現在の会場の様子が映し出されている。
そして上半分には、心電図のモニターでも見られるような波打つ線。極めて微細な動きで表示されている。
『これは、人間が無意識に発している脳波を拾い、瞬時に解析・分析。攻撃対象かどうかを判別できる……イレギュラー探知機です』
呆然としていた聴衆だったが、ざわめきを再開させた。
同時にアングには、戦慄が走る。
『現在表示されている波形は、私の脳波の周波数を示しています』
ギザギザではあるが、ほぼ一本の直線に近い。僅かな揺れに留まっている。
『人間とイレギュラーでは、この周波数が大きく異なる。活路を見出せたのは、ナイゲールさんの多大な協力あってのことです』
一切ごまかす様子がない。本当なのか。
だとしたら、世間の目から隠れているイレギュラー達にとって、驚異となる。
するとある人物が、机を両手で叩きながら立ち上がった。
「あり得ない!! そんなデータは嘘偽りだ!!」
反論の声も上げたのは、先ほど皮肉をこぼしたアリゲイト議員であった。
マリウスは、流れるように彼へ視線を向ける。
『一体どのような確信を持ってそう言えるのですか? まるでイレギュラーの脳波を調べたことがあるかのような言い草だ』
指摘に、議員はうぐっ……と言葉を詰まらせる。
批判を退けた彼女は、再びゴードンを見下ろす。
『ちょうどここに良いサンプルがあります。彼に照準を合わせてみましょう』
カメラの焦点はゴードンへと向かう。波形も変化する。
微細だった線の振れ幅は一変。
稲妻のように不規則に、激しく揺れ動いてしまった。
マリウスは掌を広げ、スクリーンの波形を強調。
『ご覧ください! この歪で醜悪な波形を! こうも乱高下するということは、通常の人間が生じる敵対感情。その数値を大幅に超えてしまっている! 放置すれば暴走行為を働き、皆様方に危害を及ぼすやもしれません!』
アリゲイトが声を張り合い返す。
「彼を解放してやりなさい! もう十分苦しんだろう、可哀想だ!」
『今さら何を言うのです。許しを請おうとも容赦はしない。慈悲など与えれば、反撃されるのを待つだけ。そうした理念の下、我々の秩序は保たれてきた』
彼女は、懐に自身の手を突っ込む。
『ゆえに例外なく、罰さなければならない』
冷たい笑みと共に、取り出した。
銃だ。
聴衆へ見せつけるように、黒光りするそれを一度高く上げる。
そうして銃口を下ろした。
狙うは、ようやく起き上がろうとしていた、ゴードン・ルッツの眉間。
構える所作に一切のブレがない。外すわけもない至近距離。
アングの脳裏に記憶がよぎった。
四年前の秋。
ユージーンを銃殺する前の、あの希望に満ちた、喝采の前の光景が。
そして、現実の目と鼻の先には。
かつてアメリカの頂点まで上り詰めた男が、震える両手を上げ、命乞いをしている。
「い……いや……だ……」
『ああ、そうだ』
ふと、思い出したように彼は口にする。
『事の理由だと言い張っていた奥様についてですが』
本当に、楽しそうに見えた。
眼下の弱者が絶望で歪む様を見て、口角を釣り上げる姿が。
『伝え忘れていました。警察が処理を見誤り、亡くなったそうです』
いま初めて知ったのならば、せめて妻だけでもという望みだったろう。
それすらも打ち砕かれ、彼は。
「うっ、ぐっ……ぅぅぅぅぅぅぅ……ッ!!」
人目も気にせず。
目を腫らし、涙も鼻水も流して、顔を歪ませた。
イレギュラーであるという証明になった。
「やめろ……」
思わずアングは、そう呟いていた。
彼の命が惜しいわけではない。ただ、嫌だったのだ。
あの日の記憶を呼び起こされることが。
『さようなら。哀れで醜悪な虚像よ』
大切な人の愛する肉親が、敵となることが。
「やめろォッ!!」
制止の声は届かない。
ダァンッ!!
重く、貫いた音が、ホールに反響する。
眉間に風穴が開いたそれは、既に後頭部から床へ打ち付けられた後だ。
血溜まりが、あっという間にマリウスのヒールを濡らす。
この処刑を見た……アリゲイト議員だけではない。
席のところどころで、身体が小刻みに震え出したり、仰け反るように背もたれへ身を預ける者が散見し始めた。
その状況を処刑人も感じ取ったのか。
前方の広角を見回しながら、力強く語る。
『先述したように、イレギュラーは皆様方の生活に溶け込み、そうして逃れようとしてきました。このワシントン内でも数多くの潜伏者が紛れ込んでいることでしょう!』
すると、天井の暗がりからだ。
ウィィーン……。
機械のアームが伸び、繋がった何かが降下してきた。
それはどの席に対しても、横へ約五人分の間隔で均等に配備される。
撮影用のカメラにも見える四角いフレーム。そこから、細い筒状の何かが突き出ており……。
正体が分かった時、アングは震撼した。
先端には、発射部分であろう黒い穴がある。
タレット型の機関銃だ。
唯一マリウスだけが、ふっとほくそ笑んだ。
『皆様方はどうでしょうか?』
アリゲイトの緊張が限界を迎えた。
「うわああああああああ!!」
情けない声を上げ、真っ先に逃げ出そうとする。
彼の頭上にあったタレットが、グンッと向きを変えた。
逃さない。
そう言わんばかりに、離れる背中へ照準を会わせる。
ガガガガガッ――!!
非情の連射。
彼の心臓部を捉え、複数個所から血が噴き出る。
これが制圧の合図となった。
他の場所からも次々と銃声が、射撃の火花が散る。
「ぐぶっ……」
「がはっ!? ぁぁ……ッ!!」
頭を、腹部を。
声のない殺戮兵器が、正確かつ無慈悲に撃ち抜いていく。
闇雲に全ての人間を狙っているのではない。先の状況で様子がおかしくなった人間だけを狙い澄ましているように見えた。
現に死者の隣に座る人物たちは、ただ目を見開き、辺りを見回している。
先ほどのイレギュラー探知機能が本物だとしたら、この機関銃は恐るべきデモンストレーション。
つまり、アングはこう思った。
すぐに自分の番が来る。間違いなくアングを、イレギュラーとして認識する。
レッド・キューブをカザミに預けたのが仇となった。反撃の手段がない。
アングの頭上にあるタレットが、僅かに位置調整を行う。
咄嗟に、腕を自身の顔の前へ持っていく。
死を覚悟して目を閉じ、歯も食い縛る。
「お母様、待って!!」
…………。
……来ない。
銃弾が。血反吐を吐くような痛みが、何も。
最悪を想定した。まさか、メーナが盾に。
ハッとなって横を見るも、違った。メーナの位置は変わっていない。
見上げれば、機関銃は発砲を開始せず。ただアングを見つめるだけだった。
イレギュラーを狙った銃撃のはず。なのに自分だけは、明確に対象から外されている。
アングは揺らめく視線のまま、マリウスを見下ろす。
まさか、娘の懇願に応えたのか。
いいや、違う。
彼女はこちらを見て、嘲笑と共に白い歯を見せていた。
全て計算の内だと言っているかのように。
だが一体、何のために。
なぜ殺さない。レッド・アーマードの装着者だとまで分かっているのではないのか。
真偽とは関係なく殺戮は続く。脱出か留まるかの選択が迫られる。
いずれにしても、レッド・アーマードが無いのだ。この場に留まるのは危険過ぎる。
カザミと合流するしかない。
では、メーナは……?
様子を確認するために視線を向けるも、目が合う。
彼女は罰が悪そうに唇を離し、もはや言葉も交わしてくれなかった。
しばらく見合った後、再び座り込み、他の殺戮の様子へ意識を向ける。
それでいい。
更なる罠が待ち受けている可能性もある。一緒には行動できない。
幸い、この血にまみれた会場は、イレギュラーではない人間にとっては安全である。
声すらかけず、アングは、彼女から見えないようにそっと逃げ出した。
*
母にこのような力があるなど知らなかった。
政治アナリストと、株の売買で生計を立てている。それは間違いようのない事実だったはず。
しかし現に、こうしてイレギュラーへ銃弾を浴びせ、効率的にこの世から排除している。手腕に圧倒されてしまう。
それと同時に、いけないとも思った。
メーナの読みでは、アングはレッド・アーマードの装着者。
すなわち、イレギュラーである可能性が高いということ。母の主張に則れば処罰対象となる。
ゆえに母へやめるよう叫んだのだが、だからなのだろうか。
彼は射殺されず、見逃してくれた。
ともあれ、今のメーナは渦巻く心境。こんな現場に彼を招いてしまった。
一体どう弁明すればいいのか。ついスカートの上から、両膝をグッと握りしめてしまう。
彼を安心させるために、何か声をかけるべきでは。
そう思い、横を見る。
「えっ……」
既にアングは、その場にいなかった。
メーナは肘掛けを掴んで後ろを向き、彼を探す。
中央の出入り口の扉が動いていた。
閉まる間際に見えた僅かな後ろ姿。赤黒いパーカーは彼のものだ。
「アング君……!!」
胸がきゅっとなる。まただ。
せっかく再会できたのに。ようやく、新たな関係に発展できると思ったのに。
自分の前からまた姿を消し、『居ないふり』を決め込むだろう。
そして自分を、母と同じ思想を持つ人間だと思ってしまう。
せめて、自分への疑惑だけは晴らしたい。自分は敵じゃないと伝えたい。
立ち上がり、腕を横に振るって追いかける。
『っ! メーナ! 危ないぞ席を立つな!!』
自分を止める声が、スピーカーに乗って聞こえてくる。
母の言うことが正しいとは分かっている。納得はできる。
ただそれでも……。彼と過ごした日々を。
抱いた憧れを否定したくはなかった。




