Phase6-4:戴冠の序曲――爪痕
絹のように鮮やかな白の毛並みを持った太ましい猫が、曲線を描いたカウンターの上にふてぶてしく鎮座し、こちらを見つめている。
アングが着席してからというもの、その視線は一度も外れていない。何故だか、妙な緊張感を覚える。
「ごめんね。多少強引じゃないと、アング君は連れて行けないなぁ、と思ったから」
隣の席に座るメーナが、重ねた両手を腿の上に載せ、申し訳なさそうに話しかけてきた。
乗車前に不潔だと言い放った彼女とは違う。生じた嫌悪感を長くは引きずっていない。
この世界の人間の利点ではあるが、胸が少し重く感じた。
アングは猫から視線を外し、途中で止まっていた話を再開する。
「お前の……『お母様』か。挨拶には応じてやる」
彼女は何か言うでもなく、優しげな笑みでこちらを見つめる。
また脈が高鳴りかける。
それを素直に受け止めたくはあったが、できない。アングは窓の外に目を向け、頬杖をついた。
「だが今回のことが終わったら、もう俺に近づくな」
「どうしてそんなに頑ななのか、聞いてもいい?」
当然生じる疑問。しかし、答えられるものか。
無言を貫き、視線すら彼女に与えず。
「アング君。言ってくれないと分からない」
だが、到着まで続くこの密室。沈黙という選択にも限度がある。
ダメ元で、アングは話題を変えた。
「俺が何であの舞台に立ったのか、知らないだろ」
メーナとの関係だけではない。横槍を入れずに聞いている、ユージーンとの関係についてもだ。
全ての始まりの日。
彼女からの返答がないことをイエスと受け取る。アングは軽く息を整えてから語り出す。
「友達に頼まれたからだ。つまり人助けであって、俺にとっての演技はその程度の価値。あれ以降は演技なんてしてない」
「機会さえあればやる意欲はあるとか……」
「だったらお前にそれらしいことを――!」
ある記憶がノイズとして浮かんだ。
……実際のところはどうだった?
ユージーンを射殺した演劇の五ヶ月後。また別の舞台をやってみないかと同じ演劇部に誘われていた。受ける意欲もあった。
しかし、いよいよ練習が始まるという直前になって、どうでもよくなった。
理由は明確。
明確だが、どう繋がったのかは自分ですら分かっていない。
母が死んだ。
あの日から、演劇も、ジョイとの正義活動も。
全てに蓋をしたかのように、平凡な日々を始めることとした。
今のようにイレギュラーとして覚醒していたわけではない。ただ静かに、この世界への違和感を、本能で感じ取っていたのだ。
何故か自分には、それができた。
ようやく理解した。
「アング君?」
ハッ……と、アングは意識を呼び戻される。
覗き込むようにして、メーナがこちらの顔色を窺っていた。
アングは、掌全体で自身の顔をつねるようにし、混濁の脳内を元に戻そうとする。
すると彼女は、自身の肩から腰を締めていたシートベルトを外す。
一人分の空いていた間隔を詰める。
アングの肩にそっと手を添えた。
掴んでくるわけでもない。ただ本当に触れているだけという、ささやかな動作……。
呆気に取られるアングの顔を真っ直ぐに見据え、彼女は言う。
「私、昔のあなただけ見ているわけじゃないの」
麗しさと凛々しさが共存するような、そんな声の響き。
彼女は続ける。
「前にも言ったけど、いつかあなたと、何かの作品で共演してみたい。その気持ちは本当」
一度俯き、顔を上げたと思えば今度は天井を見つめた。
「けどこの一週間、屋上であなたと会うことができなかっただけで、退屈な世界だなぁ、って思っちゃった。あなたが分け隔てなく接してくれる唯一の人だったからだと思うし、それに……」
祈るように自身の胸元へ右手をやり、目を閉じる。
「偶発的に生まれた栄光にすがらず、むしろ置いていって、自分の道をまた歩み直す。多分、私にはできない生き方だから、傍で見ていたいと思ったのかな」
「傍で、って……」
その発言にどこまでの意図があるのか。
考えれば考えるほどに顔の至るところが熱くなる。アングはたまらず俯いた。
背後から、ユージーンの視線が突き刺さっているような気がする。
「だから、私はあなたから離れてあげない。そっちがどんなに拒もうとしても」
跳ねるように述べる決意。
その後すぐにアングの赤面を見て、彼女は満足気に手を自身の口元に添えた。
「あとアング君って、からかうと面白い反応するから、飽きないのよね」
霊体の視線が、目の前にいる男と女を行ったり来たりする。
『何だこれ……? お、おい。このままチューするのか!?』
もはや声からも焦りの色を隠さず、やがて彼は、ギギギと歯を食い縛り始めた。
『クソッ、どけぇ!!』
その一声の直後だった。
意識が穴底へ突き落とされる。
視界は遠くなり……久方ぶりの現象だ。
ユージーンに、肉体の主導権を奪われてしまった。
常に保っていた緊張の糸が、今はメーナへの意識に集中しすぎたあまり、隙となったのだ。
『甘いんだよアングは……! こんなフニャフニャいちゃいちゃな状態のままで、レッドの力が使えるかよ!!』
口頭での発言は自粛しているようで、体内で反響するのは彼の思考だけの言葉だ。
すると彼は、乗っ取った頬を膨らませながら、顎を突き上げた。
『唾とか吐いてドン引きさせてやる……!!』
『どういうつもりだ、やめろ!!』
唾液を生成し始める。吐き出すための勢いをつけるために顎を上げたのか。
だが、最初に身体を乗っ取られた時とは違い、今ならばある程度は抵抗できる。
口元や頬が、様々な形に歪む。
当然、メーナはこの様子を不思議そうに見つめる。
「だ、大丈夫? もしかして乗物酔い?」
袋、袋……と彼女が辺りを探し始めた、その時だ。
バーカウンターから、いきなり何かが飛びかかってきた。
「ぬぅおぉ!?」
目に見えて大きな白い物体。
ズッシリとした重量に胸元を突撃され、本当に吐き出しそうになる。
先ほどからアングのことを直視し続けていた、例の太ましい猫だ。両手の爪でアングのシャツにしがみついている。
メーナは、今度は驚きで自分の口を覆う。
「へえ……。ブリテンちゃんは、誰に対しても懐いたりしないのに」
続けて彼女は、顎をちょこんと手に載せ、微笑んだ。
「アング君を雇ったら、この子のお世話に苦労しなくて済むかも」
しかしユージーンはというと、目を渦巻状に回転させ、ふらついていた。
「無理だァ……。オレは、猫アレルギーでェ……」
「あら、そうなの?」
自信有りげに出てきた彼だが、あっという間にダウン。
半自動的に、アングの意識が現実へと引き戻されることとなった。
恐る恐ると、密着する猫の頭を撫でる。
ブリテンちゃんと呼ばれていたのでメスか。彼女は気持ちよさそうに目を閉じてくれた。
毛の質感を堪能したいところだが、ユージーンの影響で弁明を余儀なくされる。
視線を斜め上に向けながら、少し声を上ずらせてしまう。
「……今のはジョークで、猫のことは大好きだから、気にしなくていい」
メーナは、まばたきを二度繰り返した後、得意の首傾げを行った。
「その言葉、大真面目に受け取らせてもらうわね?」
自然とニヤけかけてしまう自分が嫌になる。
すっかりその気になってしまっている。あまりにも迂闊が過ぎないか。
ユージーンが自分からどうにかしてやろうと思うのも頷けてしまう。
そして、猫という苦手意識の影響か。
これまでは文句を喚き散らしていた霊体が、叫ぶ絵画のように口をすぼめながら、シュボボボボと縮こまっていくのが見えた。
*
カフから発せられるジョイの熱い声を聞きながら、ハルは大あくびと共に寝ぼけ涙を出した。
昨夜は帰りが遅かった。カナ・ブラウンとその一味を逃がしてからというもの、それはそれとしてパトカーに仕掛けられた爆弾の処理に追われたためだ。
取り外すのは処理班だが、車両移動や状況説明などで、ハル達も帯同を余儀なくされた。
ゆえに寝不足なのだが、何故かハル一人だけが、ナイゲール社でのサミット会場の警備へと派遣されていた。
今は関係者用の廊下で、依頼人の到来を待ちわびているところだ。
『だから、納得いかないって話なんですよ! ゼオン隊長が降格処分だなんて!』
電話の向こうのジョイが熱弁するのは、爆弾騒動の余波についてである。
身近の上司のゼオンが、まさかの異動となってしまったのだ。
ジョイは今も爆弾処理のサポートに回されているが、基本的には何もすることがない。暇なのだ。
ゆえに話し相手となってあげているわけだが、彼に同調できるだけの材料はない。ハルは事実だけ述べる。
「うーん。ロビーの爆発を止められなかった。カナ・ブラウンちゃんには逃げられた。そもそもパトカーの半分以上に爆弾が仕掛けられていた。誰が責任を取るかって話になると、ワシントン警察を実質的に率いている人になっちゃうからな~。チェスでいうとチェックメイト。麻雀でいうと役満直撃」
『最後のなんて、隊長が本部長に就任する前に仕掛けられてたかもじゃないですか! ハメられたんですよ隊長は!』
「ただ実際、何かの圧力が働いているとしか思えないくらい早い判断だったんだよねぇ~……」
ハルは顎に人差し指の側面を添え、目を閉じて考える。
「そうだとしたら、ゼオン本部ちょ……元本部長に居座られてたら、都合が悪い人がいる、ってことになるけど……」
すると後ろから、肩を軽くつつかれる。
なんだと思い振り返ってみると……ハルは目をひん剥いた。
あまりにも整いすぎている顔立ちの男性がそこにいたからだ。
「おわっ!? と……」
つい咄嗟に飛び退きかけてしまう。そして全身を見回す。
丈の長いコートと黒革の手袋も実にスタイリッシュ。彼の顔を焦点とし、視界いっぱいにキラキラが漂って見える。
今の時代にマッシュルームヘアというのは挑戦的に思えるものの、襟足の毛先を下に尖らせたアレンジが秀逸で、違和感はない。むしろ顔の良さを引き立ているように思える。
「(はわわ……。かっこいい人だなぁ……)」
警察として立派に働いていくために、恋愛などというふわついた話題はシャットアウトしてきた。あまり興味自体なかった。
だがこれは……くる。
一瞬で目が眩んだ。映画に出ているスター俳優よりもカッコいいと自信を持って言える。
依頼人の使いの者が先に来る、とは伝えられていたが、彼がその人なのだろう。
震えるハルは耳元に手をやり、通話相手がいることを暗に彼へ伝える。
「ききき切るね? サボっちゃダメだよぉぉぉジョイ君」
声が震えたり止まらなかったりする。
ホログラムへのフリック操作すら覚束ないが、どうにか通話を閉じた。
彼は終わるのを待ってくれており、ハルが向き直ると共に、左手をそっと右の肋に添え、お辞儀をした。
なんとも紳士的な挨拶だ。
「お待たせしてしまい、申し訳ありません」
「あ〜、いえいえ! 自分一人みたいですし、お気になさらず」
両手を前に出して気遣うと、彼は顔を上げ、真っ直ぐな背筋で続けた。
「私の名前はジョン・ノウン。今回のサミットの参加者に仕える使用人です。以後、お見知り置きを」
「ジョン・ノウンさん……ですね? しっかり覚えさせてください! ええと、メモメモ……」
尻ポケットからメモ帳を取り出そうとする。
そのタイミングで、前方から誰かがやってきた。
「警察から派遣されたのはその方かな? ……ジョリント君」
美しい風貌の女性の口から、含みを持ったような間でその名は飛び出した。
「え? ジョ、ジョリ……?」
今さっき聞いた名前と明らかに違う。
クールな調子を崩さない使用人の表情だが、ハルは目撃する。
下向きの視線が、僅かに左右に揺れ始めてしまったのを。
この異変に全く気づいていないのか。全身をフィットな黒に包んだ女性は、ヒールの高い足音を鳴らして近づいてくる。
「お初にお目にかかります。政治アナリストとして生計を立てている、マリウス・マキシロードといいます」
「わっ……! どうもどうも。ハル・フラットです。本職は捜査官です」
気をつけの体勢から、ぺこぺことお辞儀を繰り返す。
「政治アナリストということは……テレビにご出演されて?」
「いえ。政財界の高層階級のみが入れるクラブにて、講演会を少々」
自分の全く知らなそうな世界。ハルは「おぉぉ~……」と感嘆の声を上げた。
聞いた話では、彼女は自分よりも倍近い歳上。
だがボディラインは二十代のようにしなやかで、腰に手を当てるその仕草からは、優雅さと逞しさが兼ね備わっているように見える。顔のシワもよく見なければ気付けない。
表情の余裕の色を変えぬまま、マリウスが口を開いた。
「企業主催のサミットなど、本来は警察に頼るものではありませんが、今回は政界からの要人も出席されるので……。お忙しいでしょう。まさか多数のパトカーに爆弾とは」
「想定を大幅に下回る派遣人数になってしまい、申し訳ありません。私一人です……。あっ。実は警備の仕事自体が初めてでして……」
「構いません。フェニックスでのテロの時のようにはならないよう、できるだけこちらでセキュリティを完備しました」
すると、彼女の笑んだ口元が、僅かにだけ鋭さを増したように見えた。
「ここで何かが起きるとすれば、それは悪への粛清となるでしょう」
「痺れますねー!」
ハルは惚れ惚れとし、高速で拍手を繰り出す。
「ゆえにハル捜査官には、会議場外での見回りをお願いしたい。よろしいかな?」
彼女から漂ってくるカリスマ性に、ハルはすっかり当てられてしまう。
きびっと敬礼した。
「任せてください! 喜んでお受けいたします!」
コン、コンッ。
ハル達は廊下にいたわけだが、あえてのノックの音だった。
叩かれた扉は半開きの空室のものであり、腕を組んで壁に寄り掛かる一人の男性が、明らかにこちらを見ている。
「(いっぱい人が来るなぁ……)」
そうハルが不思議がっていると、彼はほくそ笑むような表情のまま声をかけてきた。
「失礼。ご挨拶すべきと伺ったのだが?」
「構わないですとも」
マリウスが応じると、彼はフフッと息をこぼし、三人の目の前まで歩幅を進めた。
背を深く傾け、腕も半円を描くように下ろしてみせる。先程のジョリントと比べて随分と派手なお辞儀だ。
「お招き頂きありがとうございます。ヴィウス=ノヴァ=マイヤー、ただいま到着致しました。未来へと続く、崇高な音色を奏でて差し上げましょう」
彼に向けて、マリウスが右手を差し出す。
「貴殿らの公演を、一度直接お聞きしたいと思っていました。今日はよろしく頼みます」
ハルの目の前で、ガッチリと握手は交わされた。
ヴィウス……。ハルですら認知している有名なオーケストラ指揮者だ。
蛇のように鋭いツリ目。銀の髪色に、男性とは思えないほどのロングヘア。
妖艶な雰囲気漂う彼の風貌は、女性からの支持も熱いが……。
「(あんまり好みじゃないや)」
それよりも、いま隣にいてくれているジョン……。
いや、ジョリントの美しさの方が勝っていると、脳内での批評が止まらなかった。
*
社員用の小さな休憩室。明かりが灯っていない。
誰も使用していないのであれば当然のことだが、その闇の中に人はいる。
最大限まで捻られた蛇口により、下へと落ちる激流が金属製のシンクを叩く。隣の部屋まで聞こえるほどの騒音を響かせる。
その流れ落ちる水流の隣に、立つ人物がいる。
彼は前のめりになり、バケツに溜めていた水へと自ら顔を突っ込んでいた。
通りがかる人々は、妙な遊びをしている奴がいるな、と彼のことを指差して笑う。
これから起きる波乱の後。
ナイゲールの社員でありながら会場スタッフとして配属されていた彼は、溺死体として見つかった。




