Phase6-3:戴冠の序曲――爪痕
蓋が閉じた状態の便器に座り、アングは両手で顔を覆って溜息をついた。
あのまま流れに身は任せず、一旦トイレに行かせて欲しいと理由をつけ、校内の個室トイレへ入り込んだのだ。壁の上部にある小窓から、光が虚しく足元を照らす。
これに憤慨しているのが、メーナと話す前に警告までしていたユージーンだ。
『ついこないだとおんなじ流れだ! 冷静に考えれば分かることだろ! あの女に誘われて、結果どうなった!?』
今回に関しては、アングも自分に対して情けないと思っている。強い言葉で言い返せない。
「今は、その……良い言い訳を考えているところだ」
ユージーンの、荒い鼻息の音が脳を埋め尽くす。
ただ、ユージーンが疑っている件に関しては、否定しなければならないと思った。
「けどメーナは……俺には分かる。そういうんじゃない」
『どーだか? そもそもあのリムジンが、本当になんとかって会社のビルに行くかも確信を持てないだろ。どっか人気のないところに連れ込まれて暗殺されるかも――』
「誇大妄想をやめろ……! 仮にあいつが、俺を陥れようとしてるとして、動機は!?」
『なにムキになってんだ! やっぱりあのお嬢様のことが好きなんだな!』
うぐっ……と、アングは言葉を詰まらせた。
否定しようという気が削がれたのだ。そして何故だか、頬がカァッと熱くなった。
『そこは黙るのかよ……。……って、え?』
呆れ返る声の主だったが、ふと上を向き、急に目を丸くした。
アングもなんだと思い、追従するように小窓の方を見上げる。
人の顔があった。
「うおわっ!?」
アングは声を上げ、思わずトイレタンクに抱きつくように手を回す。
ただよく見れば、こちらを見下ろしてはジトッと目を細める、見知った少女の顔だ。
何かと自分の前に現れるカザミ・シルヴァ……。彼女により、音もなく小窓は窓枠ごと外されていた。
驚きによって加速した鼓動を鎮めてから、アングは大口を開く。
「何してる、男子トイレだぞ!!」
「妙な独り言がダダ漏れだから、注意しに来てあげたんでしょ。感謝しなさいよ」
相変わらずの澄ました発言。
しかしアングは、今の彼女を見て、どこか違和感を覚えた。
僅かにだが、目の下に隈が浮かんでいるように見える。
「……どうした?」
「何が?」
「いや、いつもの生意気さが無いと思っただけなんだが……」
本来の彼女ならば、したり顔の一つでも浮かべているところだ。
指摘されたカザミは、少し目を見開き……。
しかし、すぐにムスッと表情筋を締め、目を逸らした。
「まあ……なんていうか……」
言葉の歯切れも悪い。
やがて彼女は、完全に顔を横に向け、屋外の方を見た。
「そういう日くらいあるのよ。女の子には」
濁したような返答……。
まさか聞いてはいけないことを聞いてしまったか。アングの背中に冷や汗が滲み始める。
対して彼女は、何事もなかったのように再びこちらを見た。
「それより、大スター様とのデートの話だけど」
心の片隅で危惧していた部分が容赦なく抉られる。
ここに彼女がいるということは、先程のメーナとの会話も聞かれていた……というのは至極当然の流れであった。
アングの居場所も悟られているあたりから、自分の行動はそんなに分かりやすいのかと顔が引きつってしまう。
「ちゃ、ちゃんと……断るからな」
「ううん。むしろ行って」
だが飛んできたのは、思わぬ返答だった。
黙っていた脳内の住人も、困惑の声を漏らす。
『マジかよ……! こいつも気がおかしくなったか!?』
「どういうことだ」
「その会場にはあたしも用があるの。あたしが見つけたい人の手がかりになるかもと思ってね」
彼女が見つけたい人物……。それは、家族を奪った復讐の相手に他ならないだろう。
「言っとくけど、まだ怪しいってだけで、確定じゃないから」
「何でわざわざ今日……」
「普段は社員や関係者の人しかロビーにも入れないみたいだけど、今日は展示ブースが開いてるから、一般入場もできるみたい」
「なるほど。よく調べてるんだな」
鼻で笑うように言いつつ、アングは、彼女が求めていることを引き出そうとする。
「俺に用があって来たんだろう。いったい何をすれば――」
「妙なことはしないで」
急にハシゴを外されたかのような感覚。
アングは眉間にシワを寄せ、彼女を睨みつけた。
「……は?」
「君は下の階で女の子とイチャイチャしながら、難しい話を聞いてればいいよ。レッドの正体を掴んでそうな黒幕さんの意識は、当然そっちに集中するわけじゃない? あたしがその隙を突いて、上の本社に潜入する」
「俺を囮に使うのか!!」
「一週間前、君が勝手なことして、結果どうなったんだっけ~?」
冷やかすような笑みと共に言い返されてしまう。
結局、アングが暴行を加え、カザミが連れ去ろうとしたゴードン・ルッツは、未だ見つかっていない。
言い返せなくなったアングは口をつぐんだ。
「これ以上暴走するなって話。それと……レッドの力は腐っても凄いから、保険代わりってことで」
説明されても納得とまではいかず、半開きの目で彼女を睨み上げる。
対して彼女は、より見下すように顎を上げた。
「いっぱい食べ物買ってあげたでしょ? 等価交換ってやつだよ」
実際、腹部の骨が浮いて見える程には痩せ始めていたため、感謝しかない。
反論の手は全て摘まみ取られた。アングは顔を背け、トイレのタイル壁を見つめる。
カザミが、呆れたように軽く息を吐いた。
「君が手詰まりで困ってる状況を打破できるかもなんだから、今日は指を咥えて見てなさいよ」
彼女の言うとおり、それぞれが思い描いている敵が共通の敵である可能性は高い。
だがここで素直に礼を言ってしまえば、完全に彼女の尻に敷かれた構図となってしまう。もはやプライドとの勝負であった。
彼女は言い終えた後、自身の腰の方を見下ろしながら、ガサゴソと何かを探し始めた。
チラッ……とその様子を横目で見つつ、どう発言すべきか窺う。
思考を一旦戻す。彼女が小窓から顔を出す前、ユージーンと何の話をしていたか。
こんなことを聞いて何になるんだとは思う。しかし沈黙から逃げたいという一心で、たどたどしく述べた。
「お前は、その……怪しいと思うか? メーナ・シンフォニーが」
この問いに彼女は手を止め、再び視線を向けてきた。
「何で? ちょっと可愛いだけの女優さんが?」
「俺の周りの人間をリサーチしてるなら、ある程度は掴んでるんだろ」
「そんなこと言われたって、あたしは別に……」
するとカザミは、ふと目を逸らし、しばし言葉を止める。
僅かに眉を寄せ、物思いにふけっているように見えた。
「嘘つくような子じゃないかも……って、思い始めてるけど。最近は」
アングは少し、今のカザミの発言を気にかけた。
実際に目の前で見てきたような、思い返すトーンに聞こえたからだ。
「それじゃあ、必要なもの渡すから。はい」
話は切り上げられ、彼女は手元から、謎の長方形の物体を落とした。
アングは慌てて手を伸ばす。掌で受け止めるも、硬く厚みがあり、それなりにずっしりともしている。
表面の大部分は、テレビの画面のような黒いガラスに覆われている。
「これは?」
「今から二百年くらい前の携帯電話、スマートフォンだよ」
「こんな重たい物をわざわざ……?」
耳に挟むことが出来るカフことリンカーフォンと比べて、随分とかさばるなと思った。
カザミは説明を続ける。
「ああいう決まった場所だと逆探知のリスクも高いから。それをカフと接続して? 遠すぎない距離でなら、無線機と同じ要領で使えるよう調整してある。人には見られないように使ってね?」
あえて旧時代の物を使用する。非合法な世界に足を踏み入れたという実感が、じわじわと染み渡る。
カフのホログラムを表示し、接続を図る。
「あと、これ」
その最中、またカザミが何かを見せてきた。今度は前のめりになり、腕をグッと伸ばしてだ。
透明のラッピングシートに包まり、ほんのりとチーズやマスタードの匂いが香るその物体は、どう見ても作戦用の道具ではない。
ハムやトマトも共に挟まれたサンドイッチだ。全力で口を開けてようやくかぶりつけられるだけの厚みがある。
まさかまた自分の為に……。
差し出された物を見つめ、放心してしまう。
しかしすぐに我に返り、余計な気は考えるなと軽く首を横に振った。
「貰った分なら……まだ……拠点にある」
「これから忙しくなるんだから、食べといたほうがいいって。ほーらー!」
押し付けられるかたちで、小麦色のパン耳が近づいてきた。
甘い言葉に釣られ、しかし渋々とを装うように、唇を逆Vの字に曲げる。アングはそれを受け取る。
赤くなっている頬をなるべく見られまいと俯き、サンドイッチを見下ろす。
ただでは終わるまいということで、ぼそっと呟く。
「……お母さんか」
ピキッ。
ヒビが入るような音が聞こえたかのようだった。カザミが笑顔のままピタリと固まった。
すると彼女は、地面に置いていた何かを見下ろしてから、一旦視界の枠外へと消える。
そう時間はかからずにまた顔を出すが、笑みとは不釣り合いな黒い陰が差し込んでいる。
右手で、何かを振りかざした。
先ほどカザミが取り外した、小窓のフレーム及びガラス部分だ。
都合よく投げ込めるわけはないが、それすらやってしまいそうな程の圧倒的な威圧。アングは両手を前に出しながら、ビクッと背を反らした。
カザミは結局表情を変えず、そのまま首を傾げた。
「今度おんなじようなこと言ったら、二度と助けてあげないから。いい?」
普段よりも優しげな声色が逆に肝を冷やす。
こちらの応答を待たず、微かな着地の音を鳴らして彼女はいなくなった。
そのすぐ後。
ガッシャァァァーンッ!!
彼女の不満を体現したような音が響き渡った。
*
トイレに行くと言ってから、かれこれ十五分も待たせてしまった。
アングはトイレを出る。急ぐために早足で、学校出入り口の方へと向かった。
黒いリムジン車が見えてきたところで、同時にもう一人の存在も視認。
車体に背を預けて待つ、大女優の姿だ。
後ろで手を組み、俯き気味にどこか物憂げな表情を浮かべる様は、まるで映画のように絵になる……。
などと思わず足を止めていると、彼女はこちらに気づき、顔を上げた。
いつものように微笑みかけてはくれたが、こちらが近づいていくに連れてだ。
その顔から明るさは消え、困惑と驚きが滲み出す。
「アング君」
彼女はきょとんとした顔で、自身の唇の横を人差し指でツンツンと突いた。
何のジェスチャーだと思ったアングだが、やがて察する。
指し示されたその部分を、自分の身体で同じようになぞる。
掬った指の腹を見てみると……黄色と緑の混ざった液体。種も付いている。
たったいま食した、マスタードとトマトの残りカスが、口に付着していたのだ。
普段から自分を買ってくれているメーナだが、あまりに珍しい。顔をしかめた状態でこちらを直視した。
そうしてリムジンの一番後ろの扉を開け、背を向ける。
乗り込む直前、振り向きざまに彼女は言った。
「本当のところは知らないけれど、トイレで小腹を満たしていたのだとしたら、はしたなすぎるのではなくって?」
彼女の美意識が許さなかったのか。
この世界の欠落した人間の中では、最大級の侮蔑が込められた物言いだった。
ぷいっと正面を向き直してから、彼女は車内へと入っていく。
確かに、他の生徒に顔を見られるわけにはいかないという理由から、トイレの個室で頬張ってはしまっていた。
あいつのせいだ――!
と、八つ当たりの思考に陥りかけた自分が情けない。口元を手で覆う。
気まずい心持ちのまま乗車する羽目となった。




