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ウィークリーマンションの仮使用期限が、五日後に迫った日。
不動産屋からの電話で起こされた梅本は、松本家のLDKのダイニングテーブルに着いていた。
リビングのソファで眠っていた竹本もこの着信音で目を覚ましたらしく、虚ろな眼を左右に動かしては、ここがどこだかを思い出しているようだった。
「……えぇ、もちろん居座る気なんてないですし。……はい。二、三、保留にしている部屋はあるんですよ。(嘘だけど)……大丈夫ですって。わかってます。……えぇ今日明日にも決めてしまいますので……はい、それじゃ」
電話を切って、またテーブルに突っ伏した。「面倒くせぇなぁもお」
竹本は対面キッチンで簡単に洗面を済ませ、そこらへんに掛けてあったタオルで顔を拭いながら戻ってくる。
「何? 不動産屋?」
「そう。早く出ろってさ。ひと月なんて経つのすぐだよな」
梅本も顔を洗おうと、椅子を引いて立ちがった。
「そういや俺んところ、三部屋くらい空いてたと思うんだけど。お前も来るか?」
「いや、お前んとこのアパートって、月に六万五千円だろう。無理無理」
竹本がニヤリと笑う。
――お前の部屋にタダで住まわせろよ。
梅本が諸々を済ませてトイレから戻ってくると、竹本がちらちらと階段を気にした様子で突っ立っていた。
「なぁ、もう俺らはいいよな?」
「そう、だな。今もこうして何もやることがないしな。――ひと声かけて帰るとするか」
そうと決まれば、さっそくのろのろと階段を上がっていく。二人は寝室の前に立ってうなずきあった。竹本が扉をノックする。
はい~、と返事があって、引き戸が顔の半分ほどだけ開いた。
なかから顔を覗かせるのは、高下 咲という、笹尾と同期入社の女性だ。スラリとした長身で手足も長ければ顔も長い。
「俺ら、そろそろ帰ろうと思うんだけど、(笹尾は)大丈夫そうか?」
彼女は頭痛に堪えているふうな険しい顔から、無理につくったような笑顔を見せてうなずいた。
「ええ、後は私たちだけでも」
「そう。何かあったら、いつでも電話してきていいからって言っといてくれ」
「わかりました」
竹本の横に控えていた梅本は、ひと言も発せずに片手をちょいとあげてみせただけだ。
昨夜の笹尾の取り乱し様を目のあたりして、それを引きずっている。笹尾本人に対してではなくとも、どう言っていいのかわからなかった。
昨日のこと――。
ソープへ行こうぜ! と誘ってきた竹本に「そんな金はねぇよ」と笑って返事すると、彼はよほど溜まっているのか、
(ん~じゃあ、全額は嫌だけど一万円くらいなら負担してやってもいいぞ)と言ってきた。
竹本には、日頃からちょこちょこと飯を奢ってもらっている。梅本は奢られ慣れているはずだったが、それがまとまった金額となると、途端に申し訳なく感じた。竹本が無職になったということもある。
彼の預金残高に気を遣ったつもりだ。「そんなもん、一人で行ってこいよ」
すると(つれないことを言うなよ~)と、竹本は情けない声を出す始末。どうしてもついて来てほしい様子だった。
(お前の全快祝いも兼ねてんだぜ)
そんな、いま思いついたような理由で、漏れ出る性欲を隠しているつもりなのだろうか……。
梅本は、しかたなくというよりは、やや前向きに検討して、結局は承諾した。
しかし、竹本が車で迎えにきたのは、梅本が軽い晩飯と歯磨きを済ませ、二杯目のコーヒーを飲んで、ゆったりとしているときだった。(今から迎えに行くからな)と、二十時頃に勇んで再度電話があってから、ずいぶんと経っていた。
インターホン越しに「下で待ってるからよ」
――遅ぇよ! こっちは期待を膨らませて、すでに下半身も半分膨らませている状態だぜ。
部屋着としても活躍している、濃いグレーのスウェット上下で、一階へ急ぎ下りていった。
待たされたのは自分のほうだと思ったが、梅本はスポンサーにめっぽう弱い。「お待たせ」と機嫌よく言って、シビックの助手席に乗り込む。
てっきり、よっしゃー行くぜ! と、ウキウキした馬鹿の雄叫びがあるものと思っていたが、彼は梅本の予想を裏切り、どんよりとした声で言った。
「悪ぃ。予定変更な。いまから笹尾のところへ行くぜ」
竹本が何を言っているのか、すぐには理解できなかった。梅本の頭の中では、なぜか風俗と笹尾が繋がって、風俗店のホームページで、さては笹尾に似た感じの女の子でも見つけたな、と思った。
しかし、そんな思いつきは一瞬で消えた。
マンションの淡い電灯に照らし出された竹本の顔は、珍しく真剣な表情をしている。心なしか思い詰めているように見えて、梅本の浮心がスッと地についた。
――松本でなく笹尾のところへというのは、どういうことだ。
「笹尾からさっき電話があったんだけど、取り乱した感じだったんで、なに言ってんのかよくわかんなくてよ。――それで詳しいことは俺もよくわかってないんだけど、なんか、松本が帰って来ないんだとよ」
梅本は鼻白んだ。
「――なんだ、またそれかよ。先週もそんなことを言ってなかったか?」
「いや……今はポリ署にいるらしい」
「誰が?」
「二人ともだって」
梅本はポカンと口を開けて、ハンドルを握る竹本の横顔をじっと見た。
警察署の正面入り口から入り、二人は並んでカウンターにいた警官に来訪の意図を告げた。
すると、すぐに休憩室のような部屋へ案内され、そこで笹尾と再会できた。
しかし、いつものようなテンションの高い笹尾ではなかった。彼女は硬そうなロビーベンチで脚半分を垂らした恰好で寝かされており、目元にハンカチを載せていた。
もう一つのベンチでは警官が一人、コーヒーをすすっている。
「あの、これは?」
梅本が案内してくれた警官に状況を尋ねる。
「気分が悪くなられたようですね。救急車を呼ぶほどのことじゃないと本人が言ってましたので、それなら、とここでしばらく横になってもらってます」
コーヒーを飲んでいた警官が、紙コップを持ったまま立ち上がった。
「彼女のご兄弟ですか?」
竹本はうなずいた。「会社の同僚です」
「会社の……。てっきり親御さんが迎えに来るものだと思ってましたけど」
警官は思案顔になり「ちょっとここで待っていてください」と言って、部屋から出ていった。
笹尾は最初から起きていたのか、いま目覚めたのか「あぁ竹本さん」と呻くように言って、上体を起こした。「梅本さんも……すみません」ペコリと頭を垂れた。
梅本は首を振って、訊いた。
「大丈夫か? どうしたんだよ。――それで松本は?」
笹尾は足元に視線を落とし、黙してしまった。
そのときに「こちらです」と声がする。先ほど出ていった警官が、人を連れて戻ってきたようだ。
ああ、どうも。そう言って、首だけで会釈して入ってきたのは、梅本のところへ来た、前原とかいう刑事だった。変わらず柔和な顔付きで「竹本さんと、たしか梅本さんでしたか」
県警の刑事が、市の警察署にいることは気にならなかった。梅本らは訝しみながら、そろって首肯した。
「お話がありますので、こちらへどうぞ」
奥歯を噛みしめて立ち上がろうとした笹尾を、前原は手で制した。
「笹尾さんは、ここでもう少し休んでいるといいですよ」
礼を述べるでもなく、ただ彼女はうつむいた。
前原が出て行きかけたとき、その背中に向かって梅本が訊いた。
「俺もですか?」
「あぁそうですねぇ」と、前原は一旦天井を仰ぎ見てから、ゆっくりと振り返った。
「梅本さんは、松コーポレーションを辞められているんでしたっけね。関係がまったくないとは言いきれないんですが、う~ん、まぁどちらでもいいですよ。ここで彼女についていてあげるのも良いですし……」
それに竹本がギョッとして、梅本の肘を突く。
「おい、お前も来いって」
梅本はうなだれる笹尾を一瞥して、言った。「じゃ、俺も話を聞きますよ」




