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蝦夷松は、静岡県の総合リゾートの開発事業にかかわっていて、そこで宿泊ホテルとジュエリー雑貨の店を展開している。
しかし、その一帯が行楽客でにぎわったのは最初の何年かだけで、六年も経った今や閑古鳥が鳴き、野生のイノシシが徘徊しているような状態らしい。
開発事業に参画している会社は軒並み倒産に追い込まれているという。
松本の話は、昔、バブル景気が弾けたときに、よく耳にするような内容だった。
梅本がその話を聞いたのは、今回が初めのことではなかった。カンネスサービスのスタッフ、実際に倒産した会社の社員だった奴から聞き及んでいた。
「あれに松コーポレーションが一枚噛んでいるとは知らなかったな」
「うちの会社が、直接手を出していたわけじゃないんだけどさ。社長の奥さんの会社がね」
ホテルの建設費と土地の買収費用だけで想像してみても、庶民からすると莫大な額にのぼっているはずだ。蝦夷松がたった二、三年で、その費用を回収できたはずはなく、他社と同様、多額の負債を抱えていると推測できる。
妻が代表を務める会社と、旦那の会社をきっぱりと分けて考えてくれるような、ものわかりのいい債権者はいない。
蝦夷松一族の資産がどれほどのものなのか、梅本はもちろん、松本も知らない。行方をくらませていることを思えば、きっと致命傷をくらったのだろう。
この借金の返済に困っての逃亡説は、松本らの決めつけにすぎないし、実際のところはわからないが、それが一番しっくりとくる構図案だった。梅本もそうに違いない、と思った。
松本が後ろ手をついて天井を見上げた。
あ~あ、と声を上げてから、グッと奥歯を噛みしめた。
松本は笹尾と一緒に暮らしているのだ。結婚を視野に入れた同棲のはず。これで松コーポレーションが倒産すれば、一挙に二人とも無職になるのだから、逸れる先の道は舗装もされていなければ、道路標識もない。何事も計画的に進めていくような彼の性格だと、その目にはきっと相当険悪な道に映っているのではないだろうか。
今の心境を凝縮して出たような、ため息だった。
「これからどうすんの? まぁお前なら、どこでもやっていけるだろうけどさ」励ましたつもりだ。
梅本が身近にいる他人を心底認めることは稀だ。
コイツにはとてもかなわねぇな。スゲェ奴だ。――そんなふうに松本のことを認めたのは、いつのことだったか……。梅本の脳裏に数々のエピソードが浮かんでいた。
「どうだろうね……」
松本は意に介せず、投げ遣りに答えた。
上体を前のめりに戻してやおら箸をつかむと、続けざまに三品を、ひょいひょいと口へ放り込む。端正な顔が膨らんで滑稽に歪んだ。
そして、二人の間に沈黙が流れた――。
「あいつら、せめて精算整理してから、行方をくらませろよってな」
呆れたふうに言って松本を見ると、彼は缶ビールを見つめていた。思考が別の所にあるようだった。
「なっ?」
「あぁうん。ほんとそうだよね。退職金を出せ、なんて言ったところで無駄だろうけど、せめて今月の給料は振り込んでほしいよ」
松本がまた深いため息をつき、その姿を見て梅本も息をつく。
「どこに隠れてんだかなー」
「うん。飛行機がどうのって言ってたんでしょ? 今頃はもう海外だろうね。当然、偽造パスポートなんかを使ってさ」
「偽造? あぁなるほど。あいつらいちおう金持ちだからな。事前に計画していただろうし、いろんな闇ルートとかを知ってそうだよな」
「現金をチラつかせたら、協力する人なんていくらでもいるだろうしね」
「ほら、偽名を使って工事現場で働いていたとかって話、よく聞くよな。ふつうそういう所から情報が漏れたりすると思うんだけど、あいつら、食うに困って働かなきゃならないってのとは違うからな」
「そんなのを追いかける警察も大変だね」
梅本は余り気味になっている、ポテトサラダに挑んだ。口をもごもごと動かしながら、
「――あ、警察って言えばさ。お前から電話を貰ったとき、ちょうど刑事がここに来ていてよ」
「へぇ……。わざわざここまで訊きに来たの?」眉だけで、ピクリと反応を示した。
「そうそう。ほんと電話で済むようなことなのによ。事前にお前らから、警察から連絡がいくかも、て聞いていて助かったよ」
「助かったって?」
「あぁいや。ほら、いきなり警察から電話がかかってきたら、ふつうビックリするだろ?」口内にポテトサラダを補充する。「……嫁が事故ったとか、娘が万引きで捕まったとかさ。まぁ、俺に嫁も子供もいないけどね」
「ハハ、う~ん、まぁそうかな」
松本は微笑みながら、三本目の缶を開けた。「それで? どういうふうに言っといたの?」
「どうって、そのままだよ。いつ、どこで……」
梅本は刑事に話した通りに聞かせた。
「それだけ?」
「おう、たった一、二分会ってた話だぜ。それ以上でも以下でもねぇよ。……あぁ、それで蝦夷松をどう思ってるか、て訊いてきたな。蝦夷松の失踪に何の関係があるんだよって思ったけど、まぁ、ふつうに嫌いだって言っといた」
松本が声にして笑った。梅本を手伝うつもりか、ポテトサラダを口に頬張る。
梅本は何がそんなにおかしいのか、と首を傾げて缶ビールに手を伸ばした。
そしてまた沈黙が訪れる。――竹本とはこうはならない。
松本に対する一方的な尊敬や、羨望がちょっとした壁を造っていて、意識して口粗くしてみても、すぐに遠慮が勝ってしまうようだ。最初からずっと少しだけズレているようで、噛み合っていないような気持ち悪さが付きまとっていた。
「蝦夷松部長は、ずっと梅本さんのことを気にしていたと思うんだけどね」
松本がさらにズレていくようなこと言う。
――そんなわけあるかよ、と梅本は思う。
「あいつはどこへ行った、いま何をしているってね。いっつも探しているようだったし、他の誰よりも気にかけているように見えていたけどね」
「それ、怒鳴り散らす相手を探してただけだろ」
――久々に会って、ツバを吐きかけられたんだぜ。
「いっつも梅本さんのデスクを見てたし」
「見張られてたんだよ」
松本は苦笑しながら、またさして珍しくもない天井を見上げた。
「ううん」微かに首を横へ振る。「……気にしていたよ」
梅本はフッと鼻で笑って言い返した。
「小枝にしてみりゃ、俺なんて目の上のたん瘤? いや目の上じゃねぇな。何て言うんだろうな?」
「う~ん」缶ビールを飲みきって、缶をテーブルに置いた。「膝下のおでき?」
「お、俺って、おできかよ。そりゃ酷ぇ。しかも小枝の膝下って」
互いに静かな嘲笑があってから、どんどんと作ったような笑い声が膨らんでいった。




