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五十時間をかけて、台風が一つ通りすぎていった。
直撃コースからは外れていたものの、暴風圏のやたらと広いやつだった。近くの山間では、土砂崩れが起きている。復旧作業はまだ始まっていない。
ずっと降り続いた雨は、にわかに秋の空気を運んできていた。
この台風の影響で、延期や中止になった依頼がある。日銭を稼いで日々を乗り越えている者たちにとって、それは大変迷惑な話だ。
そして、梅本が請け負った仕事も然り。延期となっていた。父と息子の二人で営んでいる小さな工務店からの依頼だった。
梅本は、ここからの依頼を過去に数回受けている。物干し場を作ったり、廊下の補修、モルタル敷きなど、もう二本ほど腕が足りないから……ていどの作業ばかりだ。
その工務店から、梅本へ直接電話があったのは昨晩のことで、明朝の状況しだいで作業するかどうかを決めたい、とのことだった。またそんな、期日のないような依頼なのか……。
それで結局、今朝早くに延期を伝える電話がかかってきた。台風の吹き返しが治まっていないので、もう一日様子を見たいと言っていた。
梅本はさっそく、カンネスサービスの留守電に、その旨を吹きこんでおいた。当日のキャンセルであっても、延期ということなら給与の一部保証はないだろう。
カンネスサービスの、おそらく眼鏡の事務員から折り返し確認の電話がかかってきたのが、午前九時十分で、梅本がバイクで転んだのが、九時二十分頃。他に仕事を紹介してもらうために、事務所へと向かっていたときのことだった。
Z125は派遣事務所に向けて疾走していた。
アスファルトのいたる所に、濡れた葉が束になってへばり付き、道路は二輪にとって危険な様相を呈している。梅本は、無残に破損したビニール傘の山を横目に、右折しようとしていた。そして、アッと思ったときには遅かったのだ。
葉っぱで完全に覆われたマンホールがそこにあった。通り慣れた道路で、キャッツアイやマンホールの位置などは把握していたはずなのに。
軽い車体といえども、前輪が浚われてしまって、為す術がなかった。右足はステップから外れて、変な角度で地面を蹴っていた。
「うわ~そういうのあるあるぅ。 で、他に痛いところは?」
藤木モータースの純さんが、鎮痛消炎用の湿布の上から包帯を巻いていく。純さんはこういうことに慣れているようだ。
梅本は丸椅子に右足を乗せた状態で、上体を捻り肩を回した。
「今のところ足首だけっすね。どうもすんません」
もちろん藤木モータースはバイク屋であって、病院じゃない。純さんの心遣いと、胸に恐縮しきりだ。包帯を巻いてもらっている最中、前屈みになっている純さんの襟元から、120ミリ砲弾のような乳房が覗いていた。
色欲のままに凝視するのは失礼千万。そういう視線は必ずやバレてしまう、と頭では理解していても、いやしかし、と梅本は思う。
純さんが、わざと見せつけているならどうだろうか、と。率直な感想を述べるべきではないだろうか、と。
……頭を打ったかもしれなかった。
梅本は作業場にいる藤木に目をやって、邪念を打ち払おうとした。
「ブレーキペダルの曲がりは直ったよ。割れたミラーは交換するとして、その他の傷はどうする?」
「とりあえず、でタッチペンっすかね」
「そうだねぇ。錆が出てくる前に処置しといたほうがいいね。カウルが割れなかったのは、ラッキーだったんじゃない?」
梅本は下唇を突き出し、うなずきで返した。じつにくだらない出費があったものだ。
「あ、いっ!」
ふいに痛みが走り、ビクッと反応する。
両目にS気を宿した純さんが、患部を鷲づかみにしていた。
「ふふ。ゴメンゴメン、ついね。――でもまぁ、それぐらいの反応なら、骨は大丈夫だと思うわ。台風であちこち引っ掻き回されて、いろんな物が落ちてるから気をつけないとね」
純さんは最後にもう一度、ポンッと足を叩いて立ち上がった。
梅本は軽く呻いた。
「梅ちゃん、コーヒー飲む?」
「……いただきます」
スッと頭に明日のことが浮かんだ。
この痛みようでは、工務店の仕事はキャンセルか……。
今回の工務店のように、明日の朝まで様子見というわけにはいかない。花川らに代役を探してもらうことを考えれば、即断せざるを得ない。
――せっかく指名してもらったのにな。
おそらく捻挫。長引くようであれば仕事ができない。それなら、なるべく足を使わない仕事を? そんな都合のいい話があるわけがない。
派遣スタッフは体調万全でナンボの人材だ。歩行に支障をきたしている者に声をかけてくるのは、脱税目的のダミー会社くらいだろう。
淹れてもらったコーヒーを半分ほど残し、梅本は跛行して作業場の油圧リフトまで行った。藤木と一緒になって、バイクを細部にいたるまで眺めた。
新しい改造パーツを推してくる藤木の説明を聞きながら、たしかな貧乏神の足音を聞いていた。




