番外編 第一話 食堂で聞こえてしまった話
庁舎の食堂は、昼休みの後半になると少しだけ空気が緩む。
先に殺到した人間たちはもう食べ終え、遅れて来た人間たちがようやく席を探し始める時間帯だ。トレーのぶつかる音も、レジ前の列も、最初の波に比べればずっとましになる。そのぶん、気の緩んだ声だけがよく通る。
真壁彰はトレーを持ったまま、空いた席を探していた。
今日は珍しく、九条雅紀も二階堂壮也も一緒だった。真壁が先に食堂へ向かったのではない。正確には、九条が昼を忘れかけていたところを二階堂が見つけ、二階堂がコーヒーだけで済ませようとしたところを真壁が止めた結果、三人まとめてここへ流れ着いた形だ。
「何で俺まで巻き込まれるんだ」
二階堂が言う。
トレーの上にはサンドイッチとスープ、それから小さなサラダ。量としては控えめだが、コーヒーだけよりは百倍ましだった。
「巻き込まれてるのはこっちだ」
真壁は定食のトレーを片手で持ち直しながら返した。
「お前ら二人、放っとくと食わねえだろ」
「食う」
九条が言った。
うどんとおにぎりの組み合わせは、どう見ても“食う”より“最低限入れる”に近い。
「その内容で言うな」
真壁が切る。
「一応、炭水化物はある」
九条はいつもの調子で言った。
「そこ褒めるべき」
「基準が低い」
二階堂が言う。
「君も人のこと言えないだろ」
「俺は量を調整してるだけ」
「その調整が信用できない」
真壁は空いた四人席を見つけると、二人を顎で促した。
「座れ」
三人が席に着いて数分。
最初のうちは、比較的静かだった。
真壁は味噌汁をすすり、九条はうどんを淡々と食べ、二階堂はスープの温度を確かめるように一口飲む。食堂のざわめきの中では、それだけならごく普通の昼食風景に見えたかもしれない。
ただし、その三人がまともに“普通”で終わることはあまりない。
少し離れた斜め後ろの席へ、若い職員二人が座った。
見るからに庁舎にまだ慣れきっていない雰囲気だ。片方は名札の位置を気にする癖が抜けていない一年目、もう片方は少しだけ余裕のある二年目らしい。二人ともトレーを置くなり、周囲を見てから声を落とした。
落としたつもりだったのだろう。
だが食堂という場所は、そういう“落としたつもり”がいちばんよく聞こえる。
「ねえ」
一年目が小声で言う。
「さっきすれ違ったんですけど、あの三人、やばくないですか」
真壁の箸が止まった。
九条はうどんを持ち上げたまま、ほんの少しだけ目を上げる。
二階堂だけは平然とスープを飲んでいたが、耳は明らかに向いていた。
「やばいよ」
二年目が即答した。
「この庁舎で“あの三人”って言って通じる時点で、もうやばい」
「やっぱり有名なんですか」
「有名」
二年目は断言した。
「組み合わせが強すぎる」
真壁は小さく息を吐いた。
「帰るか」
「今?」
二階堂が言う。
「まだ半分も食べてない」
「聞かなきゃいい」
九条が淡々と足す。
「気になるなら残ればいい」
「他人事みたいに言うな」
真壁が低く返す。
「お前らも聞いてるだろ」
「聞こえるから」
二階堂は平然としている。
「でも、今立つと逆に不自然じゃない?」
「それはそう」
九条が言う。
「じゃあ食べる」
「お前らほんとそういうとこだよな」
真壁は嫌そうに味噌汁を飲んだ。
背後の会話は続く。
「まず真壁さん」
二年目が言う。
「一番コワモテ」
「分かります」
一年目の声が少し弾む。
「声でかいですよね」
「でかい。廊下の向こうからでも来たって分かる」
「ちょっと怖いです」
「最初はみんなそう思う」
二年目はうなずいた。
「でも実は一番面倒見がいい」
真壁の箸がまた止まる。
二階堂がすぐ横で、ほんの少し口元を動かした。
「良かったな」
「良くねえ」
真壁は即答した。
「何が良くないんだよ」
「そういう認識いらない」
「でも事実では」
九条がうどんをすすりながら言う。
「お前まで乗るな」
後ろでは、一年目が感心した声を出していた。
「えっ、そうなんですか」
「そう。めちゃくちゃ面倒見いい」
「でも怖いですよ?」
「怖いけど面倒見いい」
「両立するんですね」
「する」
二年目の言い方に迷いがない。
「というか、あの人、面倒見いいのを隠す気があるくせに全然隠せてない」
真壁は思わず振り返りそうになったが、ぎりぎりでやめた。
二階堂がそれを見て、とうとう少し笑った。
「隠せてないらしい」
「うるさい」
「あと空手強いんでしょ?」
一年目が言う。
「強い。普通に強い。警察庁から出向してきて二年目なのに、何か最初からずっといるみたいな顔してる」
「それ褒めてます?」
「たぶん褒めてる」
二年目は少し考えてから、
「でも、怒鳴られるとやっぱり怖い」
と付け加えた。
「この前、『走るな!』って言われた人、廊下で本当に一瞬固まってた」
「想像できます」
一年目が小さく笑う。
真壁は無言でおにぎりの皿を九条のほうへ少し寄せた。
「何」
九条が言う。
「食え」
「今ちょうど麺」
「後で忘れるだろ」
「忘れない」
「信用してない」
二階堂が横でぼそりと言う。
「最近そればっかりだな」
「便利だからだ」
真壁は切った。
そのやり取りの直後、背後から新しい話題が落ちる。
「で、一番見た目と中身の落差あるの、たぶん二階堂さんですよね」
一年目がひそひそ言った。
「分かる?」
二年目の声に妙な熱が乗る。
「分かります」
「一見フランクでフレンドリーなのに、怒ると一番怖い」
二階堂のスプーンが一瞬だけ止まった。
真壁は横目で見る。
「自覚あるか」
「ない」
二階堂は即答した。
「その即答がもう怖い」
「心外だな」
だが、その声が少し楽しそうなのがまた腹立たしい。
「しかも仕事めちゃくちゃできるんだよ」
二年目は続ける。
「できすぎて、たまに何でその速度で回るのか分からなくなる」
「分かります」
一年目のほうは完全に頷き役になっていた。
「あとおしゃれですよね」
「おしゃれ」
「靴とか時計とか、さりげなく全部いいやつっぽい」
「そこ見るのか」
真壁が小さく言う。
「見るだろ」
二階堂は涼しい顔で返した。
「別に隠してないし」
「自分で言うな」
「事実だから」
そこへ九条が静かに挟む。
「でも、たまに服より本人の機嫌のほうが高級感ある」
真壁が吹きかけた。
二階堂はゆっくり九条を見る。
「どういう意味?」
「高そう」
「何一つ説明になってない」
「でも何となく分かる」
真壁が言う。
「乗るな」
二階堂は本気で嫌そうだった。
背後ではさらにひそひそ声が続く。
「あと、一般人にファンいるらしいですよ」
一年目が言う。
「いる」
二年目が断言した。
「広報官だから顔出ることあるし」
「本当に?」
「本当。本当にいる」
「すごい」
「バレンタインに郵送でチョコ来るらしい」
二年目がかなり小声で言ったつもりなのが分かった。
だがきっちり聞こえた。
真壁は咳払いをして、笑いそうになるのをこらえる。
九条は露骨に二階堂を見た。
「来るんだ」
「来ない」
二階堂が即答する。
「そこ否定速いな」
真壁が言う。
「いや、来るんだろ」
「来ない」
「去年、総務で少し話題になってた」
九条が平然と言う。
「何で知ってる」
「聞こえたから」
「お前、そういうのだけ妙に拾うな」
「印象が強い」
「最悪だ」
二階堂が珍しく本気で嫌そうな顔をしたので、真壁はとうとう肩を揺らした。
「笑うな」
「いや、そこは面白いだろ」
「面白くない」
「一般人にファン、は面白い」
九条も淡々と追撃する。
「お前まで言うな」
背後では一年目が半分感動したような声を出していた。
「すごい……」
「でもね」
二年目が声をさらに落とす。
「本当に怖いのは、あの人、普段フランクなのに、静かに怒る時」
「静かに」
「うん。声上げないのに、空気だけ急に冷える」
「ひえ」
「“今それ必要?”って一回言われた先輩、三日くらい落ち込んでた」
「強い」
「強い」
真壁は横で、二階堂のスープが少し減る速度を見ていた。
「やっぱり自覚ないだろ」
「誇張されてる」
「されてない」
九条が言う。
「わりとそのまま」
「お前、今日こっちに厳しくない?」
「いつも通り」
「それも怖いな」
真壁がぼそりと足すと、二階堂は嫌そうにサラダへフォークを伸ばした。
「で、最後が九条先生」
背後で二年目が言う。
一年目の声が一段上ずる。
「一番謎です」
「だよね」
「きれいすぎて逆に目立つし、冷たく見えるのに、別に機嫌悪いわけじゃないんですよね?」
「そう」
二年目が深くうなずく気配がした。
「ただマイペースなだけっぽい」
「っぽい」
「でも何考えてるか全然分からない」
「分からないです」
「会議でたまに喋るじゃん」
「はい」
「二階堂さんと九条先生の応酬だけ、レベル高すぎて意味分からない」
一年目が笑いをこらえるみたいな声を出した。
「空中戦やってる感じします」
「する」
二年目も笑った。
「誰も入れない。職員みんな黙る」
「とめられるの真壁さんだけですよね」
「そう」
二年目の返答が妙に力強い。
「真壁さんが『お前らいい加減にしろ』って入った瞬間だけ、急に人間の会話に戻る」
真壁は思わず額を押さえた。
「そんなに有名なのか」
「有名だろ」
二階堂が面白がるように言う。
「お前が止めてる図」
「面白がるな」
「でも事実」
九条がうどんをすすりながら言った。
「とめられるの真壁だけ、はたぶん合ってる」
「自分で言うな」
「分析」
「最悪だな、お前」
背後の一年目は完全に乗っていた。
「あと、京東大学医学部の法医学教室からスカウト来てるって聞きました」
「それも聞いた」
「本当なんですか」
「たぶん本当」
「すごい」
「でも行かなそう」
「何でですか」
「本人がそういうのに動じる感じしないから」
九条の動きが、うどんの上でほんの少しだけ止まった。
二階堂が横から言う。
「来てるんだ」
「来てない」
九条は即答した。
「そこ否定速いな」
真壁が言う。
「今日は否定ばっかりだな、お前ら二人」
「来てない」
九条はもう一度言った。
「来てるとしても別に今ここで言う話じゃない」
「その返し、来てる人のやつだろ」
二階堂が言う。
「感じ悪いな」
九条が平坦に返す。
「機嫌悪いわけじゃないんだよな」
真壁がぼそりと言うと、二階堂がとうとう吹き出しかけた。
背後では二年目がまとめに入っていた。
「要するにね」
その声は妙に得意げだった。
「あの三人はやばい」
「ざっくりしましたね」
一年目が笑う。
「ざっくりでいいの」
二年目は言い切った。
「真壁さんは一番怖そうなのに一番面倒見いいし、二階堂さんは一番フレンドリーそうなのに怒ると一番怖いし、九条先生は一番冷たそうなのに別にそうでもなくて一番読めない」
「全員やばいですね」
「そう」
二年目が満足そうに言う。
「しかも三人でいるともっとやばい」
「何でですか」
「近づきすぎると会話に巻き込まれる」
「それ嫌ですね」
「でもちょっと見たい」
「分かります」
「あと、たまに三人で食堂いると変な安心感ある」
「それ分かるかも」
「何でだろうね」
「バランス?」
「たぶん」
二年目は少し考えてから言った。
「怖いし面倒だしよく分かんないのに、結果的に一番まともに仕事が進む感じ」
「それ、最強では」
「最強なんだよ」
そこで二人は小さく笑った。
その笑いが落ちた瞬間、真壁は箸を置いた。
「もう無理だ」
低く言う。
「帰る」
「今?」
二階堂が言う。
「まだ食べ終わってない」
「お前らは気にしなさすぎだろ」
「面白いから」
九条が言った。
「お前、そういうとこだぞ」
「知ってる」
「便利だな、その返し」
真壁が本気で嫌そうに言った、その時だった。
後ろの席で一年目がふと顔を上げた。
たぶん、真壁の声が思ったより近かったのだろう。
視線が合った。
数秒。
食堂の時間が止まったみたいな沈黙が落ちる。
一年目の顔から色が消え、二年目もゆっくり振り向く。
そして、そこに揃って座っている三人を見た。
「……」
「……」
「……」
二年目がまず口を開こうとしたが、開ききらなかった。
一年目は完全に固まっている。
真壁は深く息を吐いた。
「聞こえてた」
短く言う。
二年目がほとんど反射で立ち上がりかける。
「す、すみませんでした!」
「声でかい」
二階堂がぼそりと言う。
「そこ言う?」
真壁が半眼になる。
九条は静かに水を飲んでから、
「空中戦、はちょっと面白かった」
と言った。
「九条先生、そこ拾うんですか!?」
一年目がつい叫び、また青ざめる。
「すみません!」
「だから声がでかい」
二階堂が言う。
「お前が言うな」
真壁が即座に切る。
それだけで、若手二人の表情が「本当にそのままだ」と言いたげなものへ変わった。
二年目が恐る恐る言う。
「ええと……悪口のつもりではなくて……」
「分かってる」
真壁が言う。
「全部だいたい合ってた」
「全部ではない」
二階堂がすかさず訂正する。
「バレンタインの郵送チョコは誤情報」
「そこなんですね」
一年目が思わず言ってから、また口を押さえた。
九条が静かに若手二人を見る。
「あと、俺は別に冷たく見えなくていい」
「そこもなんですね」
二年目が小さく漏らす。
「冷たく見えるのは事実だから」
「そこ自分で処理するな」
真壁が言う。
二年目は困ったように笑ったあと、少しだけ肩の力を抜いた。
「……でも、やっぱり三人揃うとすごいですね」
「何が」
真壁が聞く。
「近くで見ると、怖いのに、何か……」
二年目は言葉を探した。
「ちゃんとしてるというか」
「曖昧だな」
二階堂が言う。
「すみません」
「褒めてるんだろ」
真壁が横から言う。
「ならそのままでいい」
若手二人がそろって少しだけ目を丸くする。
九条がそれを見て、淡々と足した。
「面倒だけど」
「お前まで言うな」
真壁がうんざりした声を出す。
「でも、さっきのまとめ、間違ってない」
二階堂が言った。
「あの三人はやばい、ってやつ」
「採用するんですか!?」
一年目がまた声を上げた。
「しない」
二階堂は即答した。
「ただ、認識としては雑に正しい」
「雑に正しい」
九条が繰り返す。
「便利だな」
真壁が言うと、今度は三人とも少しだけ笑った。
若手二人は、さっきまでの青ざめ方が嘘みたいに、逆に落ち着かなそうにしていた。
たぶん緊張しすぎて、どこまで失礼でどこからが許されるのか分からなくなっているのだろう。
二年目が意を決したように言う。
「真壁さん」
「何」
「空手、強いんですか」
食堂の空気がまた少し止まる。
二階堂が目を伏せる。
九条は水を飲み、何も言わない。
真壁は本気で嫌そうな顔をした。
「何でそこ聞く」
「いや、ちょっと気になって……」
「強い」
九条が代わりに答えた。
「強いのかよ」
「強い」
二階堂も乗る。
「普通に強い」
「お前ら答えるな」
真壁が切れる。
「でも本当」
「事実」
「最悪だ」
二年目と一年目は顔を見合わせ、それからそろって吹き出すのをこらえた。
真壁はその顔を見て、もう怒るのも面倒になった。
そこへ、さらに足音が近づいた。
堀島岳斗だった。
トレーではなく、片手に小さな紙袋を持っている。
「必要かと思って」
その一言で、若手二人の顔が同時に変わる。
「あっ」
「本物だ」
一年目の声が漏れた。
堀島は三人と若手二人を順に見て、状況を一瞬で察したらしい。だが表情は変えない。
「何」
真壁が聞く。
「二階堂さん宛てに、総務止まりのお菓子が来てたので」
二階堂がぴたりと止まる。
「何で今ここで言う」
「ついでに渡せるので」
堀島は紙袋を差し出した。
「郵送で」
そこで完全に終わった。
二年目が口元を押さえ、一年目は肩を震わせ、真壁は天を仰ぎ、九条は珍しくはっきり目を細めた。
「来てるじゃないか」
九条が言う。
「違う、チョコじゃない」
二階堂が言い訳のように返す。
「そこじゃないだろ」
真壁が言う。
「何でこのタイミングで補強されるんだよ」
「必要かと思って」
堀島は淡々としている。
「お前、その一言で全部済ませるな」
「便利なので」
若手二人がもう耐えきれず、肩を震わせて笑いを殺していた。
二階堂は紙袋を持ったまま深く息を吐く。
「……今日、最悪だ」
「いや」
真壁が言う。
「今日のお前、ファンサすごいな」
「やめろ」
「一般人にファン」
「やめろ」
「郵送」
「真壁」
「何だ」
「怒るぞ」
「今のが一番怖いですね」
一年目がついぽろりと漏らし、全員がそちらを見る。
一年目は真っ青になった。
だが次の瞬間、二年目が吹き出し、九条がわずかに笑い、真壁まで肩を揺らしたので、食堂の空気がようやくちゃんと崩れた。
その日の昼、庁舎食堂では少し離れた席の職員たちが、珍しいものを見た。
いつもは近寄りがたい三人組が、若手二人を前にして、妙に人間らしい顔で笑っているところを。
後でその一年目は、別の同期にこう報告したらしい。
「あの三人、やばいです」
そして少し考えてから、
「でも、思ってたよりずっと面白いです」
と付け加えた。
それを本人たちが知るのは、たぶんもう少し先の話だった。




