第七話 人前で崩れない男が崩れる日
整いすぎているものには、時々、壊れる前の気配が出る。
真壁彰は、会見室へ続く控室前の廊下で立ち止まった時、最初にそれを感じた。人の出入りが多い。広報の職員、記録担当、警備、映像確認のスタッフ。誰もが慌ただしいのに、控室の内側だけが妙に静かだった。静かであること自体が不自然だった。緊張でざわつくべき場が、あまりにきれいに整っていると、かえって怖い。
扉の隙間から見えた二階堂壮也は、まさにその怖さの中心にいた。
スーツに皺はない。ネクタイの結び目も崩れていない。机の上には、順番通りに重ねられた資料、想定問答の付箋、記者席の配置図、会見後に出す短文コメント案。指先で紙の角をそろえ、必要な一枚だけを抜き取り、また元へ戻す。動きに無駄がない。呼吸も乱れているようには見えない。座っている姿勢にだるさもない。顔色だって、照明の下ではいつも通りだった。
だから余計に悪かった。
真壁には分かる。顔色や姿勢で崩れる人間ではない。むしろ限界へ近づくほど、二階堂は余計なものを削っていく。疲れも苛立ちも表へ出さず、判断に必要な線だけを残す。場が悪くなるほど、本人だけが妙に整う。
そういう壊れ方がいちばん厄介だと、真壁は昔から思っていた。
「資料、追加分です」
広報の若い職員が紙束を差し出した。
二階堂は受け取る前に表紙の見出しだけを見た。
「これ、三段落目の文尾が違う」
「え」
「『確認を進めています』じゃ弱い。『関連を含め確認中です』へ戻して」
「先ほど統一したはずですが」
「配信用原稿だけ残ってる」
職員は青ざめた顔でめくり始める。二階堂はそれを追わず、別の端末の画面を確認した。記者クラブ側からの想定質問更新、会見配信のタイムラグ、病院側コメントの短縮版。何枚もの画面と紙を、脳の中だけでつないでいる顔だった。
「そこ、僕が持ちます」
別の職員が言った。
「いい」
二階堂は即答した。
「ここは自分で見る」
「でも、時間が」
「時間がないから自分でやる」
その言い方に棘はない。ないのに、議論を終わらせるには十分だった。
真壁は扉の外で眉を寄せた。やはり任せる気がない。というより、任せるという選択肢自体が頭から薄れ始めている。自分が持つ、自分が見る、自分が出る。その連結が、もはや本人の中で自然になりすぎている。
控室の隅で、堀島岳斗が水のボトルとゼリー飲料を机の端へ置いた。
「必要かと思って」
二階堂は書類から目を離さない。
「最近、その一言で全部済ませるな」
「便利なので」
堀島は淡々と返す。
「糖分、少しでも入れてください」
「後で」
「会見前です」
「知ってる」
「だから今です」
二階堂はようやく顔を上げた。だが不機嫌ではない。ただ、目の焦点が一度だけ紙から人へ移った時の遅さに、真壁はひっかかった。
「お前まで言うのか」
「必要なので」
堀島はそれ以上押さない。ゼリーを開けやすい向きへ置き直し、水のキャップを半回転だけ緩めて、机の端から一歩下がった。その手つきが、倒れる前の人間の扱いに慣れすぎているように見えて、真壁は少し嫌な気分になった。
結局、二階堂は水だけ一口飲んだ。ゼリーには手をつけない。
それを見ていた真壁は、そこでようやく扉を押して中へ入った。
「やめとけ」
思ったよりも早く言葉が出た。
二階堂が視線だけを向ける。
「何を」
「今日の会見」
「今さらだな」
「今さらでもだ」
真壁は低く言った。
「おかしいぞ」
「何が」
「全部」
二階堂は小さく息を吐いた。呆れでも怒りでもない。説明を要求された時の、いつもの短い呼気だった。
「合理的に考えてる」
「それがまずおかしい」
「褒めてないな」
「してない」
真壁は机の端に置かれた未開封のゼリーを見た。
「寝てないし食ってない。顔だけ整えてれば誤魔化せると思うな」
「誤魔化してない」
「じゃあそのまま出る気か」
「出る」
迷いがなかった。
「今日ここで俺が出るのが最適だ」
その言い方が、真壁の神経を逆撫でした。自己犠牲の芝居ではない。本当にそう思っている。自分が燃えたあとだからこそ、自分が前に出るのが一番盤面を乱さないと、理屈として処理している。
「最適じゃない」
真壁は言った。
「お前は、いまもう“出る側”じゃなくて“引っ込める側”だろ」
「だからこそ私が出る」
二階堂は即答した。
「焦点が既に固定されてる。ここで説明役を変えるほうが、余計な論点が増える」
「お前さ」
真壁は一歩近づいた。
「自分が倒れる前提だけ、計算から外してるだろ」
その一言だけ、二階堂は返事をしなかった。
数秒の沈黙が落ちる。だがそれは否定ではなく、単に今それを会話の中心へ置く気がない沈黙だった。
「時間だ」
二階堂は腕時計を見た。
「後で言え」
その言葉で、会話は切られた。真壁は舌打ちしたい気分を押し殺したまま、扉の脇へ下がるしかなかった。
*
会見室の後方、壁際の目立たない位置に九条雅紀は立っていた。主で出ないことは昨日の段階で決まっていた。死体の情報へ視線が寄りすぎることを避けるためでもあり、今の九条をあの場へ出せば、別の種類の燃え方が始まると二階堂が判断したからでもある。
九条はその判断を否定しなかった。否定しなかったが、今日の二階堂の顔だけは、会見が始まる前から見ていた。
机へ向かう歩幅がいつもより正確すぎる。立ち位置を決めるまでの一拍がない。視線が流れず、必要なものだけを点で拾っている。呼吸は一見乱れていないが、吸い込む深さより、吐いたあとの間が不自然に短い。つまり、余裕を作らずに繋いでいる。
九条はそういう身体の保ち方を知っていた。自分もやるからだ。だからこそ分かる。今の二階堂は、崩れていないのではない。崩れないように、余計な動きを全部切り落としているだけだ。
そのまま長くはもたない。
九条は何も言わず、壁際に立った。ここで「やめろ」と言って止まる相手ではない。止まらないと分かっているものへ言葉を重ねても、会見の直前では邪魔になるだけだ。だから見る。見て、崩れ方だけを逃さない。そういう待ち方だった。
会見室の正面には、前回より多いカメラが並んでいた。テレビ局の大型カメラ、配信用の小型機材、記者のスマートフォン、三脚、予備バッテリー。フラッシュが試験的に一度走り、白い壁へ鈍い残像が浮いた。
司会が開始を告げると、ざわめきが薄く静まる。
着席した二階堂は、紙を持つ指先までいつも通りに見えた。左に記録担当、右に補助職員。だが中心にいるのは明らかに二階堂一人だった。誰が見てもそう分かる配置だ。
「本日、都内複数箇所で確認されている一連の事案について、現時点でお伝えできる範囲を説明します」
声はよく通る。低く、揺れず、必要以上に感情を足さない。
現場数、遺体確認、関連を含め確認中、個別情報は非公表。遺族対応、確認作業、模倣防止、二次被害防止。その順番は昨日までと同じだが、今日はもっと明瞭だった。滑らかというより、削りすぎて平らになっている感じに近い。
真壁は後方で腕を組んだまま、その平らさに嫌な予感を覚えていた。普段の二階堂なら、ここまで均一にはならない。質問が来る前から、言葉の温度を一定へ固定している。つまり、揺れる余裕がない。
「それでは質疑に移ります」
司会の声で、会見室の空気が変わった。
待っていたものが、前へ出る音だった。
「前回会見では被害者数を明言しませんでしたが、その判断は適切だったと今でもお考えですか」
一人目の記者から、いきなり前回の火種へ切り込んでくる。
二階堂は間を置かなかった。
「現時点でも、確認中の数字を先行させることはできません」
「では、いまだに人数は言えない?」
「言わないのではなく、確定できる段階にない、です」
「でも報道ではもう――」
「報道内容への個別コメントは控えます」
真壁は、返答そのものは外していないと思った。だが、やはり冷たい。冷たいというより、余地がなさすぎる。
別の記者がすぐに口を開く。
「前回、『被害者数を先に競う気はありません』という発言がありました。あれは報道機関への批判ですか」
来た、と真壁は思った。
二階堂は視線を正面へ据えたまま答える。
「違います。確認中の数字が独立して流通する状態そのものを避けたい、という意味です」
「結果として、遺族より報道を後回しにした」
「順番の問題です」
「その順番を誰が決めるんですか」
「責任のある側が決めます」
「つまり、あなたが」
「この場では私が説明責任を担っています」
その一文に、記者席のどこかで小さなざわめきが起きた。強い。強すぎる、と真壁は思う。説明責任という言葉は正しいが、今この場で自分を主語に固定すると、そこにまた別の敵意が集まる。
九条は壁際で目を細めた。まだ大きくは崩れていない。ただ、二階堂の返答が、前よりわずかに直線的だった。余白を作る余裕がない。
「病院の導線制限について伺います」
別の記者が手を挙げる。
「一部で隠蔽ではないかという声もありますが」
二階堂は紙を一度見た。その動きが、ごくわずかに遅れたように九条には見えた。ほんの一拍。真壁なら気づかないかもしれない程度だ。
「未通知の関係者、一般患者、院内職員の安全を守るための制限です」
声はまだ保たれている。
「何を隠すかではなく、何を先に守るかで判断しています」
「生存者がいるということですか」
「その有無を含め、お答えしません」
「なぜ」
「答えた瞬間に、そこから絞り込みが始まるからです」
記者の一人が身を乗り出した。
「それは市民の知る権利より優先される?」
「人を傷つける順番を遅らせるために必要です」
その言葉は一瞬、会見室の空気を切った。
真壁は小さく舌打ちした。言い方が鋭すぎる。だが本質はずれていない。だから余計にたちが悪い。
質問は止まらない。初動会見の態度、広報方針の妥当性、病院の閉鎖騒ぎ、遺族感情への配慮、情報の出し渋り。善意も悪意も混ざっていた。本気で不安の抑制を求める声もあれば、失点だけを取りたい声もある。
二階堂はそれを見分けていた。見分けて、答えの温度を微妙に変えている。だが、その差配すら外から見れば嫌味に見える。
「市民が気をつけるべき具体を、現時点で一つ挙げるなら?」
「未確認情報を拡散しないことです」
「それは市民への注意ですか、報道への皮肉ですか」
「両方に必要だと思っています」
そこで、フラッシュが一斉に走った。
真壁は眉をひそめる。今の一文もまた切られる。たぶんそうなる。
九条は、二階堂が答えた直後に、一瞬だけ唇の端を固くしたのを見た。たぶん本人も分かっている。分かっていて、なお言葉を変えなかった。
なぜなら、変えればもっと外すからだ。
その選択自体は、九条には理解できた。理解できるが、身体は別だ。理解したところで、消耗が減るわけではない。
「ご自身の発言が、現場の混乱を増しているという認識はありますか」
かなり露骨な問いが飛んだ。
会見室の空気が少しだけ冷える。
二階堂は返事を急がなかった。紙へ視線を落とし、また正面を見る。そこで初めて、真壁にも分かる程度の違和感が出た。返答までの間が、一拍だけ鈍い。
「認識しています」
答えた声は、まだ整っていた。
「ただ、誤読されやすいことと、必要な説明を削ることは別です」
「それは自己正当化では?」
「説明責任の範囲です」
「あなた自身の態度が問題視されている」
「承知しています」
「改善するつもりは」
「必要な点は見直します」
そこまで言って、二階堂は右手で紙を持ち直した。指先が紙の角を外し、ごくわずかにずれた。すぐ持ち直したが、九条の目はそこを見逃さなかった。
来る、と九条は思った。
呼吸の継ぎ目も浅い。肩は上がっていないが、息の戻し方に細い乱れがある。今までは、削って削って均整を保っていた。だが、いよいよ削る余地がなくなり始めている。
真壁も、ようやく何かがおかしいと強く感じ始めていた。顔色ではない。声でもない。会見の場で、二階堂はいつもならもう少しだけ相手の間を読む。今日は読むというより、正しい線だけをまっすぐ引いている。余白がない。
それが、いまになって怖くなってきた。
「では確認ですが」
前列の記者が畳みかける。
「現在の被害者数は、あなた方の内部では把握しているが、公表していないだけ、という理解でいいですか」
「違います」
二階堂は言った。
「内部でも、確認の単位が揃っていません」
「揃っていない?」
「発見された集団と、実際の死の単位が一致しない事案がある」
そこまで言って、二階堂はほんの一瞬だけ息を浅く継いだ。
マイクが小さく息を拾う。
記者の一人がすぐ乗る。
「一致しないとは、どういうことですか」
「……」
一拍。
その一拍が、今度は誰の耳にも長く感じられた。
二階堂は答えようとする。口は動く。だが焦点が一瞬だけ流れた。視線が正面の記者席を捉えきらず、わずかに右へ滑る。紙を持つ指先が、また少しずれた。
九条は壁際から半歩だけ前へ出た。
真壁の背中にも、冷たいものが走る。
「死亡時刻、発見時刻、確認の工程が――」
二階堂はそこまで言って、言葉を切った。
喉で息を継ぐ。浅い。明らかに浅い。
それでも、最後まで答えようとする顔だった。
真壁はその瞬間、こいつ本当にここで倒れる気か、と場違いなことを思った。いや違う。倒れる気はない。ないまま、身体だけがもうそこへ行っている。
「二階堂さん」
誰かが小さく呼ぶ。
二階堂は聞こえていないのか、聞こえないふりなのか、マイクへ向き直った。
「確認中の数字を、先行させることは……」
その声が最後まで続かなかった。
机へついた右手が滑る。椅子の脚が床を鳴らす。マイクが鋭く雑音を吐いた。
次の瞬間、二階堂の身体は前へ崩れた。
倒れ方は静かではなかった。肘が机の端へぶつかり、資料が散り、椅子が半端な角度で倒れかける。会見室が一斉にざわめいた。フラッシュが遅れて焚かれる。誰かが立ち上がり、誰かが名前を呼ぶ。あまりにも人前の崩れ方だった。
人前で崩れない男が、いちばん人に見られる場所で崩れた。
その事実だけで、会見室の空気は完全に壊れた。
*
「下がれ!」
真壁の声が、会見室の混乱を横から断ち切った。
駆け寄る職員、前のめりになる記者、撮影機材を持ったまま身を乗り出す連中。真壁は机の前へ出て、その流れを身体で止めた。
「撮るな、下がれ」
「容体は」
「今は入るな」
「会見続行は」
「聞こえなかったか、下がれ」
怒鳴りつけるに近い声音だった。普段の真壁なら、ここまで露骨にはやらない。だが今は別だ。記者を説得して順番を守らせる場面ではない。二階堂をこれ以上消費させないために、まず線を引くしかない。
補助職員と警備がすぐ動き、会見室前方に人の壁を作る。九条が前へ出たのは、その直後だった。
「控室へ」
短く指示する。
「担架じゃなくていい。意識はまだある」
その声の静かさが、逆に場を鎮める。医師の声だと全員が理解したからだろう。
二階堂は完全に意識を失ったわけではない。だが視点が合っていない。呼吸は浅く速く、まぶたの下の焦点がまだ戻りきっていない。
九条は脈を取り、顔色を見て、短く判断した。
「会見中止」
それだけで十分だった。
真壁は記者の前に立ったまま、控室へ運ばれていく二階堂の背中を視界の端で見た。資料が散ったままの机、倒れかけた椅子、まだ赤く点いたままの配信ランプ。どれも最悪の画だった。だがいまは画より先に、人を通すしかない。
「容体だけでも」
「後で出す」
真壁は切った。
「後でとは、いつですか」
「決まったらだ」
「また隠すんですか」
その一言で、真壁の目が冷えた。
「今ここで、その言い方をするな」
記者が一瞬黙る。
「人が倒れてる」
真壁はそれだけ言った。
「仕事は後でやる。今は下がれ」
それは記者を恫喝するための言葉ではなかった。ただ順番を言っただけだ。だが、怒鳴るより効いた。少なくとも、今この瞬間は。
*
控室の空気は、会見室とは別の意味で張っていた。
表ではフラッシュとざわめきが渦を巻いていたのに、こちらでは白い蛍光灯の下、必要な声だけが短く飛ぶ。
「水」
「血圧」
「呼吸数」
「ちょっと待って、今は起こすな」
九条はガウンも着ていない。そのぶん動きが速い。ネクタイを緩め、呼吸の間を測り、過換気に寄りかけたリズムを無理に抑えないようにする。慌てない。慰めない。医者らしく、必要なことだけを順番にやる。
堀島が無言で必要なものを寄越す。ペットボトル、タオル、簡易の血圧計、糖分補給用のゼリー。誰にも指示される前に手元へ揃っている。
「必要かと思って」
ようやくそこで小さく言う。九条はそれに短くうなずいただけだった。
二階堂が目を開けたのは、それから数分後だった。焦点が戻るまでにさらに少しかかる。最初に見えたのが天井で、その次に九条の顔だったらしい。
「……最悪」
掠れた声で、第一声がそれだった。
九条は感情を動かさない。
「無理して倒れるのがいちばん迷惑」
二階堂は目を閉じかけたまま、口元だけ少し動かした。
「……鬼の首取ったみたいに言うな」
「取ってない」
九条は淡々と返す。
「返しただけだ」
控室の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。泣かせるような場面ではない。軽い。軽く聞こえる。だがその軽さの中に、この二人の関係がそのまま出ていた。
二階堂は呼吸を整えながら、少しだけ横を向いた。
「会見」
「中止」
九条が言う。
「記者」
「真壁が止めている」
「最悪だな」
「知っている」
九条は血圧計を外しながら、視線だけを二階堂へ向けた。
「一人でやれることしかできないなら、お前は普通だろ」
二階堂がまばたきをした。
「……は?」
九条は声を変えない。
「普通の広報官で終わるなって言っている」
その言葉は、真壁の怒りとは別の刺さり方をしたはずだった。やり方そのものを否定していない。囲い込みも情報管理も、必要だと九条は分かっている。だが、それを全部自分でやることだけが優秀さではない、と言っている。
二階堂はしばらく答えなかった。答えられなかったのかもしれない。身体を倒した直後で、言葉に回すだけの余裕がまだなかったのだろう。
それでも、目だけは九条を見ていた。そこに感情が大きく揺れることはない。ただ、何かが確実に引っかかった顔だった。
真壁が控室へ入ってきたのは、その少しあとだった。肩で息をしているわけではないが、明らかに外の空気を背負った顔だった。
「寝てろ」
第一声がそれだった。
二階堂は眉を寄せた。
「会見の後処理」
「寝てろ」
「記者対応」
「聞こえなかったか。寝てろ」
真壁の言い方は雑だった。雑だが、いまはそれでよかった。二階堂に理屈を許すと、また起き上がろうとする。
「俺が出ないと――」
「出るな」
真壁は遮った。
「お前、いま自分がどんな顔してるか分かってるか」
「大げさだ」
「大げさで倒れるかよ」
二階堂は反論しようとして、途中で息を乱した。そこで初めて、自分の身体がもう言うことをきかないことを、事実として受け取らざるをえなくなる。
悔しさでも怒りでもない種類の沈黙が落ちた。
真壁はその沈黙に対して優しい言葉を選ばなかった。
「お前は今、寝てるだけでいい」
「だけ、じゃない」
「いいから寝ろ」
真壁はそう言って、控室の扉のほうへ顎を向けた。
「外はこっちで切る」
その一言だけで十分だった。
*
控室の外では、会見中断の報がすでに走っていた。
記者たちは再開の有無、容体、広報責任者の健康状態、病院搬送の必要性、会見続行の可能性を矢継ぎ早に問うてくる。中には「過労ですか」「炎上の影響ですか」と、もう半歩踏み込み始めている声もあった。
真壁は扉の前に立った。
警備が左右に付き、広報職員が簡易のコメント案を持って走る。だが前へ出るのは真壁だった。
「本日の会見は中止です」
「容体は」
「確認中だ」
「病院搬送ですか」
「必要なら出す」
「なぜ倒れたんですか」
「今その質問に答えるつもりはない」
「また非公表ですか」
真壁は真正面から相手を見た。
「必要な順番で出す」
その一言に、記者の何人かは顔をしかめた。だが、押し返すような反論は出なかった。さっきまで二階堂が一人で立っていた場所に、いま真壁が立っている。その構図だけで、少し空気が変わる。言葉の選び方は荒い。だが、いま必要なのは荒さではなく、線だった。
「二階堂さんにコメントを」
「無理だ」
「意識は」
「確認中だ」
「会見は改めて?」
「決まったら出す」
同じ答えを何度も返す。真壁はそういう仕事が得意ではない。だが、いまはそれでよかった。繰り返しの平板さが、逆に相手の食い込みどころを減らす。
背後の扉一枚隔てたところに、二階堂がいる。そのことを真壁はずっと意識していた。これ以上、あいつを画にするな。そういう気分が、言葉の奥にずっとあった。
*
夜はさらに更け、控室の空気も少しずつ落ち着きを取り戻していった。
二階堂はベッド代わりの長椅子へ横にされ、水と糖分を入れられ、少しずつ呼吸の間を戻している。完全に回復したわけではない。だが最悪の山は越えたらしい。
九条は脇の椅子に座り、記録用のメモへ最低限の所見だけを書きつけていた。堀島は部屋の隅で、次に必要になりそうなものを静かに整理している。タオル、予備の水、ゼリー、外へ出すコメント案のコピー。誰も大げさに動かない。動かないが、全員が次を待っている。
二階堂は目を閉じたまま、小さく言った。
「明日」
真壁が扉際から振り返る。
「何だ」
「会見」
「寝てろ」
またそれだった。
二階堂はわずかに眉を寄せる。
「出ないと」
「出るな」
「でも」
「寝てろ」
真壁の返答は一貫していた。
二階堂はそこで口を閉じた。諦めたわけではない。まだ反論したい。だが身体のほうが追いつかない。その事実が、やっと本人にも分かり始めている。
九条はメモから目を上げずに言った。
「更新しろ」
「何を」
掠れた声で二階堂が返す。
「やり方」
九条は短く言った。
「今のままだと、また同じところで終わる」
二階堂は目を閉じたまま、しばらく返事をしなかった。
その沈黙は敗北ではなかった。むしろ、初めてちゃんと受け取った沈黙に近かった。自分のやり方は間違いではない。でも足りない。足りないから壊れた。その認識が、まだ言葉になりきらないまま、身体の内側へ落ちていく感じだった。
真壁はその横顔を見ながら思った。こいつはきっと、この一回で素直になるような男ではない。明日にはまた起き上がろうとするだろうし、合理の顔をして前へ出ようとするだろう。
だがそれでも、今日ここで身体が先に折れたことは事実だ。
理屈ではなく、事実として。
その事実だけは、もう本人にも取り消せない。
控室の外では、まだ人の気配が残っていた。記者、警備、広報、遺族対応の職員。事件も炎上も終わっていない。むしろ、明日さらに大きくなるだろう。
それでも今この部屋の中では、一つだけ動いたものがある。
一人で全部持つ、というやり方が、身体の側から否定された。
その否定をどう受け取るかは、まだこれからだ。
だが少なくとも、二階堂壮也はもう、自分が無限に回る道具ではないと知った。
知りたくなかった形で。
真壁はそのことを、少しだけざらついた安堵と一緒に受け止めた。こんな形でしか止まらないのか、という苛立ちも当然ある。だが、止まらないよりはましだ。
「寝ろ」
真壁はもう一度だけ言った。
二階堂は目を閉じたまま、小さく息を吐いた。
「……分かった」
その返事が、どこまで本気かは分からない。
それでも、今はそれで十分だった。




