第五話 お前は自分を雑に使いすぎる
人間は、壊れる前ほどよく回ることがある。
少なくとも真壁彰はそう思っている。疲労で判断が鈍るとか、苛立ちで声が荒くなるとか、そういう分かりやすい崩れ方をする人間のほうが、まだ扱いは楽だ。限界が見える。止めるべきタイミングも分かる。だが本当に厄介なのは、崩れる寸前にだけ妙に整うやつだ。余計な感情を削り、必要な言葉だけ残し、手順を増やしても全部回してしまう。周囲からは優秀に見える。本人も自分をそう誤認しやすい。
そして、二階堂壮也は、まさにその種類だった。
対策本部の一角に仮設された広報対応室は、もともと会議用の小部屋だった。長机が二台、壁面のホワイトボードが一枚、端末接続用の差し込み口が四つ。そこに追加の折り畳み机と延長コードとプリンターが運び込まれ、いまでは「部屋」というより、紙とケーブルとモニターの継ぎ足しで辛うじて形を保っている現場になっていた。
机の上には、訂正文案、想定問答、遺族向け説明書案、病院への申し入れ文、記者クラブ向け調整メモ、職員向け内部通達、夜間待機名簿、問い合わせの分類表。そこへさらに、監視用に開きっぱなしの端末が三台並ぶ。会見切り抜きの拡散、報道の見出し、問い合わせメール、院内の連絡系統。それぞれ別の画面で別の流れを見ているのに、二階堂はそのどれもを自分の視界から外さなかった。
「こちら、私が持ちます」
若い職員が訂正文の束を手に言った。
「いい。そこは自分でやる」
二階堂は端末から目を離さないまま返す。
「病院側の再通知文、最終確認だけでも――」
「回す前に一度こっちへ」
「でも」
「一度」
声は低い。怒っていない。だが、これ以上議論する余地がない切り方だった。
職員は小さく息を飲み、紙束を置くしかない。
真壁は部屋の外からその様子を見ていた。忙しい、というだけならまだいい。忙しい人間は他にもいる。だが二階堂は違う。任せられるものまで自分で握る。握っても回せてしまう。回るから周囲は一瞬だけ安心する。安心した結果、さらに寄ってくる。そうやって本人の仕事量だけが静かに歪んでいく。
ああいう時だけ、あいつは自分を物みたいに使う。
真壁はそう思った。人間ではなく、耐久の分からない道具みたいに。壊れるまで回して、壊れたらその時考えればいい、とでも思っているような使い方だった。
部屋の隅にいつの間にか置かれている水のボトルと栄養ゼリーにも、真壁は気づいていた。最初は誰かの差し入れかと思ったが、減ると少しあとでまた増えている。包装の向きと置き場所が毎回同じだ。邪魔にならず、でも手を伸ばせば届く。気づかないわけがない位置にあるのに、二階堂はほとんど手をつけない。
その出所を見たのは、昼前だった。
九条の記録室から出てきた堀島岳斗が、扉の陰へそれを静かに置く。置いて、何事もなかった顔で戻ろうとしたところを、真壁が呼び止めた。
「お前か」
堀島は足を止めた。
「何がですか」
「それ」
真壁が顎で示すと、堀島はゼリー飲料の袋へ視線をやった。
「必要かと思って」
「二階堂の分まで気にするのか」
「倒れると困るので」
淡々としていた。嫌味も感情もない。ただ、事実だけを言っている声だった。
「九条に頼まれたか」
「頼まれてません」
堀島はほんの少し考える間を置いた。
「でも、九条先生も同じことは考えてると思います」
真壁は小さく鼻を鳴らした。考えているだろう。考えているが、九条は長々とは言わない。言ったところで止まらない相手に対して、言葉だけで止めようとはしない。そういうところがある。
「お前、自分の仕事増やしてるぞ」
「そうかもしれません」
「面倒じゃないのか」
「面倒です」
堀島は正直に答えた。
「でも、面倒なままのほうが、あとで面倒じゃないので」
真壁は返す言葉に少し困った。こいつは時々、当たり前の顔でひどく本質的なことを言う。
*
九条雅紀は、その日も座っている時間が異様に少なかった。
検案、照合、問い合わせ対応、追加所見。遺体は増え、報告は重なり、死亡時刻と発見時刻と通報時刻と搬送時刻のどれもが綺麗に揃わない。現場ごとの差異を消して「大量死」という一語へ畳んでしまえば、作業としては速い。だが、それをやるとこの事件は確実に外す。九条は分かっていたし、真壁にもそれは見えていた。
ただ、そのやり方は人間を削る。
午後の早い時間、真壁が医務院の記録室へ寄ると、九条は立ったまま紙束に赤を入れていた。ガウンの下に着たシャツの襟が少しだけ乱れている。珍しいことだった。本人が気にしていない証拠でもある。
「座れ」
真壁が言うと、九条は視線を上げずに答えた。
「今は無理」
「お前ら、今日はそればっかりだな」
「お前ら?」
「もう一人いる」
真壁が答えると、九条は小さく鼻で息を吐いた。
「そうか」
「そうか、じゃない」
真壁は机の端に寄りかかった。
「二階堂、食ってないし寝てないし、任せる気もない」
「知っている」
九条は紙束をめくる手を止めない。
「知ってて放ってるのか」
「放ってない」
「見えない」
「見えないようにしている」
九条らしい言い方だった。
真壁は少し黙ったあと、別の問いを投げた。
「どう見る」
「何を」
「二階堂」
そこでようやく、九条の手が止まった。数秒の沈黙のあと、紙から目を離さずに言う。
「その手順だと破綻する」
「手順」
「一人で持つ前提になっている」
九条は端的だった。
「囲い込みも情報管理も必要だ。やること自体は外してない。でも、人が増えて、波が増えて、入力が増えて、誤認訂正まで重なったら、どこかで一人分の処理じゃなくなる」
「もうなってる」
「うん」
九条は短くうなずいた。
「でも本人は、まだ自分で回せると思っている」
「回せてるように見えるからな」
「そこが悪い」
真壁はそれに妙に納得した。回っているように見える。実際、いまのところ回っている。だから余計に止めづらい。無能で崩れる人間なら、周囲も止める。だが二階堂は有能なまま崩れかけている。
「言わないのか」
真壁が訊く。
九条は紙へ視線を落としたまま、
「寝てないだろ、食べてないだろ、とは言う」
と返した。
「それで終わりか」
「終わらない」
九条は淡々と言った。
「でも、説教して止まる相手じゃない」
それもその通りだった。
そこへ堀島が入り、九条の前へ新しい記録票と紙コップを置いた。
「必要かと思って」
九条は紙コップへ目もくれない。
「そこに置いて」
「二階堂さんのほうにも置いてきます」
「分かった」
九条はそう答えてから、ほんの少し間を置き、
「食べてない」
とだけ付け加えた。
堀島はうなずき、何も言わずに出ていく。
真壁はそのやり取りを見ていた。説明も感情も足さない。けれど、見ていないわけではない。その距離感が、妙に九条らしかった。
*
夕方、真壁は外回りの確認から戻る前に、被害者の過去情報を洗っていた捜査資料に目を通した。
前の現場の男性は、二年前に匿名掲示板発の誤認情報で勤務先へ嫌がらせが集中している。女は動画投稿経由で個人情報が流れ、転居している。新宿の被害者の一人は、暴力事件の被害者なのに加害側だと誤報され、一時的にSNSで集団的な断罪を受けた履歴がある。文京区の三体にも、似た匂いがあった。マンションの男は地域活動での不正疑惑を一方的に流されている。女は元交際相手による晒しの被害歴あり。別棟の男は勤務先の内部情報流出事件で、犯人扱いされたことがある。
偶然として片づけるには、重なりすぎている。
真壁は資料をめくる手を止めた。
被害者たちは、職業も年齢も生活圏も揃っていない。だが一つだけ、薄く共通する線がある。炎上。誤報。個人情報流出。晒し。集団的断罪。誰かが雑に決めた一文や断片のせいで、人生を切り刻まれた過去。
犯人は何を見ている。
殺人そのものか。
それとも、殺されたあと、いや殺される前からすでに人が社会的に食われていく仕組みのほうか。
真壁は資料を閉じ、しばらく机を見た。
その時、二階堂の顔が浮かんだ。会見の切り抜きで「冷たい広報官」として消費されている今の姿と、被害者たちの過去にある炎上の痕が、どこかで妙に地続きだった。
胸の奥が嫌な冷え方をする。
「どうしました」
捜査員が声をかけてくる。
「いや」
真壁は資料を取り直した。
「被害者の過去、ここに印つけろ。炎上、誤報、晒し、断罪、全部」
「共通点ですか」
「まだ言うな」
真壁は低く言った。
「でも、偶然にしては多い」
捜査員は緊張した顔でうなずいた。
*
夜に入る頃、対策本部の外階段は、人の往来が少なくなる。庁舎の裏手へ向かうその階段は、昼間の喧騒から半歩だけ外れていて、風だけが通る。煙草を吸う職員や、電話をする刑事が時折使う程度の場所だった。
真壁はそこで二階堂を見つけた。
煙草は吸わない。代わりに、手すりへ片手を置いたまま端末の画面を見ている。下からの明かりで顔が白く見えた。別に青ざめているわけではない。ただ、光の当たり方のせいで、妙に平坦に見える。数秒ごとに通知が上がり、二階堂はそれを指で流していく。止める気配がない。
「まだやってんのか」
真壁が言うと、二階堂は顔を上げた。
「まだ終わってない」
「終わってないからって、全部お前が持つのか」
「持てるものは持つ」
「そこだよ」
真壁は一段下に立ち、二階堂を見上げた。
「お前さ、自分のミスだけ異様に許さないよな」
二階堂は一瞬だけ黙った。
「許す理由がない」
「あるとかないとかじゃねえよ」
真壁の声に苛立ちが混じる。
「壊れるまで使うなって言ってんだ」
「壊れたら困るのは俺だ」
「違う」
真壁は即座に返した。
「お前だけじゃない」
外階段に風が抜ける。金属の手すりが冷たく鳴った。
二階堂は視線を真壁から外したまま、低く言う。
「俺の会見で燃えた」
「全部お前のせいじゃない」
「きっかけは俺だ」
「そうやって自分だけ因果をでかくするな」
真壁は吐き捨てた。
「被害者数の揺れも、犯人の置き方も、報道の噛みつき方も、最初から悪かった。お前だけで燃えたんじゃない」
「それでも、俺の言葉で広がった」
「だからって、自分の肉で埋めるな」
真壁はそこではっきり言った。
「お前、仕事してる顔してるけど、もう半分、自己処罰だろ」
二階堂の指先が、端末の縁で一瞬だけ止まる。
「処罰じゃない」
「じゃあ何だ」
「片づけてるだけだ」
「違う」
真壁は一歩上がった。
「お前は今、自分で前に立って嫌われることで、帳尻合わせようとしてる」
二階堂は返さない。返さないこと自体が、図星に近かった。
真壁は続ける。
「面倒くさいんだよ、お前は。元から人当たりはいいし、場を整えるのも上手いくせに、自分の失点だけは一切許さない。人なら流せる程度のミスまで、自分には刃物みたいに使う」
二階堂がようやく口を開く。
「流していいものじゃない」
「だからそこだって言ってんだよ」
真壁の声は低いままだったが、抑えたぶんだけ硬かった。
「流すか流さないかの話じゃねえ。壊れるまで使うなって言ってんだ」
「俺が壊れて困るのは、俺の仕事の範囲だ」
「まだ言うか」
「事実だ」
「違う」
真壁は吐き出すように言った。
「お前が潰れたら、現場も医務院も遺族対応も、全部ズレる。自分一人で持ってるつもりだから見えてないだけだ」
二階堂はしばらく黙っていた。風がまた抜ける。庁舎裏の闇が、階段の隙間からのぞいていた。
「……お前、よくそんなに怒れるな」
と二階堂は言った。
「怒るだろ」
真壁は即答した。
「面倒くさいからだよ」
その答えに、二階堂はかすかに息を吐いた。笑ったわけではない。
「面倒くさい、でそこまで言うか」
「言う」
真壁は手すりへ手を置いた。
「面倒くさいし、厄介だし、勝手に一人で壊れられると後がもっと面倒なんだよ」
言い方は乱暴だったが、真壁にはそれしかなかった。可哀想だの心配だの、そういう言葉で二階堂が止まるとは思わない。むしろ逆効果だろう。
二階堂は端末の画面を閉じた。
「……分かった」
そう言ったが、分かっていない顔だった。理解はした。だが止める気はない。真壁にはそれが分かる。
「分かってねえよ」
「そうかもな」
その返しがまた面倒だった。
*
同じ夜、医務院の記録室では、九条が追加の所見へ目を通していた。部屋は静かだが、静かなだけで休まる空気ではない。蛍光灯の白さと紙の擦れる音ばかりが残り、時間の感覚が薄くなっている。
二階堂がそこへ来たのは、遺族向け説明文の確認のためだった。普段なら広報側だけで回す範囲の文面だが、今回は遺体情報との接続が細すぎて、医務院の確認なしでは危ない。
「ここ」
二階堂が文案の一行を指す。
「『確認中のため詳細は控える』だと広い。どこまで言える」
九条は紙を受け取り、数秒見た。
「死因詳細はだめ」
「人数」
「まだだめ」
「年齢層」
「ぼかすなら」
二階堂はうなずき、赤を入れる。立ったままだ。
九条が書類へ目を落としたまま言う。
「寝てないだろ」
二階堂は手を止めない。
「お前に言われたくない」
「そうだな」
九条はあっさり引いた。
二階堂は赤字を入れながら答える。
「なら言うな」
「でも、だから分かる」
その一拍あとに九条は続けた。
「食べてない」
二階堂はようやく顔を上げた。
「見張ってるのか」
「見えているだけ」
「その能力、もっと別に使え」
「使っている」
九条は紙の余白へ印をつけた。
「その手順だと破綻する」
「またそれか」
「まただ」
九条は平板な声で言った。
「今は回っている。だから余計に悪い」
そこで言葉を切り、書類を返す。
「回るうちに、任せる場所をなくしている」
二階堂はその言葉にすぐ返事をしなかった。返さないこと自体が、ある程度認めているのと同じに見えた。
「お前が今言うのか」
しばらくしてから、二階堂が言う。
「分かってるだろ、自分のこと」
「分かっている」
九条は否定しない。
「だから言っている」
二階堂は何か言い返しかけて、結局やめた。
その時、堀島が扉を開けた。片手にゼリー飲料、もう片手に小さな紙袋。二人のあいだの空気をまるで気にしない顔で近づいてくる。
「必要かと思って」
二階堂は眉を動かした。
「ここにも来るのか」
「来ます」
堀島は当然のように答える。
「倒れると困るので」
九条が紙から目を離さずに言った。
「食べたほうがいい」
二階堂はしばらく黙っていたが、結局ゼリーだけ受け取った。
「……お前ら、同じことしか言わないな」
「違う」
九条が言う。
「俺は破綻するって言っている」
それは説教ではなく、予告に近かった。
*
夜の終盤、真壁は被害者の資料を持って広報対応室へ入った。二階堂はまだいた。端末の光に照らされた横顔は、朝からほとんど変わらない。変わっていないこと自体が異常だった。
「これ、見ろ」
真壁は資料を机へ置いた。
二階堂が目を通し、数秒後、指先が止まる。
「……炎上被害歴か」
「誤報、個人情報流出、集団的断罪、晒し。程度は違うが、薄く繋がる」
「全員?」
「今のところ目立つやつだけでこれだ。まだ洗えてない分もある」
二階堂は資料を追う目を止めない。だが、さっきまでと違って、その視線だけが少し強く沈んだ。
「偶然にしては多い」
真壁が言う。
「犯人、殺す相手を選ぶ時点で、そこを見てるかもしれない」
二階堂は資料を閉じた。
「社会に食われた履歴のある人間」
「そう見える」
「……嫌な話だな」
珍しく、二階堂のほうから感情に近い言葉が出た。
真壁はその顔を見た。たぶん二階堂は、そこに自分を重ねかけたのだろう。重ねるまいとして、でも一瞬だけ引っかかる。炎上で人がどう削られるかを、いままさに自分の皮膚で知り始めているところだからだ。
「だから余計に、燃える側の論理で動くな」
真壁が言う。
「お前まで、そっちへ寄るな」
二階堂は視線を上げた。
「寄ってない」
「怪しい」
「怪しくない」
「自分しか信用しない方向へ行ってる」
真壁は低く続けた。
「犯人は社会を信用してない。お前は今、自分以外を信用してない。それ、嫌な近さだぞ」
部屋が静かになった。
二階堂はしばらく何も言わず、やがて資料を机の端へ寄せた。
「……だから、自分で片づける」
その言葉には、もう言い訳が混じっていなかった。
広報官として当然、という表面をまだ残してはいる。だが本音は隠していない。自分の責任だから、自分で片づける。その態度を、もはや隠さなくなっている。
真壁はそこで、胸の奥に重たいものが落ちるのを感じた。
ここまで来たか、と思った。
仕事としてではなく、罰として前に立ち始めている。そんな人間は、長く持たない。
「面倒くさいな」
真壁が呟く。
二階堂は疲れた顔も見せずに答えた。
「知ってる」
またそれだ。
知っている。分かっている。全部分かった上で、やめない。
だから厄介なのだ。
部屋の隅で、監視用の端末がまた新しい通知を拾った。短い切り抜き、別の見出し、誰かの断定。外ではまだ火が増えている。中では死体の数え方が壊され続けている。
そしてその真ん中で、二階堂壮也は、自分の失点を自分の体で埋め合わせるみたいに、黙って次の紙を取った。
真壁はそれを見ながら、はっきり思った。
こいつは今、自分を雑に使いすぎている。
しかも、その雑さを、責任感だと勘違いしたまま。




