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二階堂壮也、炎上を飼う。Again  作者: 綾見 恋太郎


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第四話 三人増える

 悪い報せには、入ってくる時の音がある。

 大声ではない。むしろその逆だ。誰かが慌てて走り込んでくるより先に、部屋の中の人間が一瞬だけ黙る。電話を取る手が止まり、端末を見ていた視線が上がり、次に起きる面倒の質だけを全員が同時に嗅ぎ取る。そういう種類の沈黙がある。

 午前六時四十分、対策本部の仮設会議室にそれが落ちた。

 徹夜明けの空気はすでに粘ついていた。紙コップの底に冷めたコーヒーが残り、夜のあいだに増えた付箋が机の縁からはみ出している。誰も席をきちんと使っていない。資料の山と端末に追われ、椅子は腰を置く場所というより、荷物の仮置きに近い役目へ変わっていた。

 そこへ一本の内線が入る。

 受けた職員は、最初の数秒で顔色を失い、すぐ声を落とした。落としたつもりでも、部屋の空気の変化までは隠せない。

「……どこです」

 短く問う。

「二人」

 さらに数秒。

「もう一件?」

 その言葉で、部屋が止まった。

 真壁彰は壁際のホワイトボードから顔を上げた。昨夜までの現場名と発見時刻、その横に「関連確認中」の赤字。そこへ、今の会話が重なる。

 受話器を置いた職員が振り向いた。

「文京区内のマンション共用廊下で二体。通報から三十二分後、同じブロックの別導線で一体追加です」

 誰もすぐには返事をしなかった。

 二体。

 そして一体。

 最初に二人と報じたところへあとから一人が足されるのではない。最初から別件か関連か分からない一体が、数十分ずれて混ざってくる。

 まただ、と真壁は思った。

 しかも今度は、前より悪い。

「通報者は」

「マンション管理人。最初はゴミ置き場脇の共用廊下で二体発見。警察到着後、住人の通報で別棟連絡通路の一体を確認」

「別棟?」

「同一敷地内ですが導線が違います」

 真壁は舌の奥に苦いものを押し込んだ。綺麗に数えられない増え方だ。偶然として片づけるには、もう悪趣味が過ぎる。

「現場班、出ます」

 言いながら、すでに足が動いていた。

   *

 文京区の現場は、夜の名残をうっすら残した高級マンションだった。表通りはまだ静かで、植え込みの手入れだけがやけにきちんとしている。住人の生活水準が高い場所ほど、死体の出現は風景から浮く。だが今回は、その浮き方まで含めて何かが設計されているように思えた。

 管理棟に近い共用廊下で二体。そこから中庭を挟み、別棟へ渡る細い連絡通路で一体。最初の二体が見つかった時点では、別棟の一体は視界に入らない。距離の問題ではない。導線の問題だ。見つける人間の移動を前提にしないと、三体が三体として成立しない。

 真壁は規制線の内側へ入り、まず全体を見た。

 朝露に濡れたタイル床。観葉植物を置いた共用スペース。廊下の白い壁。死体が似合わない場所だ。だが似合わなさが強すぎると、かえって配置物みたいに見える。今回もそうだった。

 手前の二体は、共用廊下の角に寄せるように倒れている。一体は壁際に背を預ける形で崩れ、もう一体はその少し先で横倒し。血が派手に広がっていないぶん、通報者は最初、酔っ払いか病人を疑ったらしい。そこで近づき、死んでいると分かった。分かった瞬間、手前の二体で視界が埋まり、別棟の一体へ意識が向かない。十分ありえる流れだ。

 ただし、ありえることと自然であることは別だった。

「位置、最初からこのままか」

 真壁が訊く。

「救急が生死確認のため最小限接触。移動なしです」

 所轄刑事が答える。

「管理人の証言は」

「二体を見つけて通報。その後、住人が別棟側で一人見たと」

「住人は何でそっちにいた」

「犬の散歩帰りです」

「管理人は別棟へ行かなかったのか」

「一度、通報で足が止まってます」

 真壁はうなずき、二体の間合いを見た。近すぎない。遠すぎない。手前二体で事件が完結したように見える距離だ。そこから数十分遅れて、一体が別導線から足される。数字の揺れ方として最悪だった。

 犯人は人を殺すだけではない。

 何人まとめて見つかるかまで、意識している。

 真壁はその確信が自分の中で一段深くなるのを感じた。

 壁際の一体は四十代の男だった。上質なジャケットに乱れたネクタイ。顔には小さな擦過傷があり、首元に強い圧迫の痕が見える。もう一体は二十代後半ほどの女。ロングコートの前合わせがずれ、片方のイヤリングが外れて床へ落ちていた。暴れた結果というより、運ばれる途中で引っかかったものがそのまま残ったような感じだ。

「死んだ場所に見えるか」

 真壁が若い刑事へ訊く。

 刑事は戸惑いながら二体を見た。

「……見えません」

「理由は」

「抵抗の跡が、少ないです」

「それだけじゃない」

 真壁は廊下の角を指した。

「二体とも、見つける人間の目へちょうどよく入る位置にある。死んだ結果そこにあるってより、置かれた結果そこにある」

 刑事は緊張した顔でうなずいた。

「別棟の一体は」

「これからです」

「案内しろ」

 連絡通路は中庭を横切るように伸びていた。植木の影が細く落ち、朝の光がまだそこまで回っていない。そこで見つかった三体目は、手前二体より若い男だった。壁に沿って崩れるように座り込み、顎が胸へ落ちている。こちらもまた、派手な傷は見えない。だが死体の重みだけがそこへ落ちた感じではなく、一度置かれてから崩れたような角度だった。

 真壁は規制線の外から連絡通路の入口を振り返った。

 二体を見つけた管理人が、自力でこの一体まで繋げる導線ではない。別の人間が別のルートで来て、初めて三体になる。

 同じ敷地、別の目線。

 現場の設計として、あまりにも悪い。

「通報の時系列、もう一回」

 真壁が言う。

「最初の二体が六時十一分。別棟一体が六時四十三分」

「差は」

「三十二分です」

「三十二分」

 真壁は反芻した。その三十二分で何が起きるかを考える。速報が一本出る。現場班が到着する。記者が動き出す。住人の噂がひと回りする。最初の「二人」という数字が、社会の頭へ仮置きされるには十分な長さだ。

 そしてそのあとで「一人追加」が来る。

 偶然にしては出来すぎていた。

   *

 九条雅紀が現場へ着いたのは、その少しあとだった。車を降りてから規制線をくぐるまでの歩幅は一定で、急ぎすぎない。急ぐべき場面だと分かっていても、手順を飛ばさない歩き方だった。

 真壁はその姿を見て少しだけ眉をひそめた。呼吸がまだ完全ではない。遠目でも分かる。だが本人はそれを隠そうともしていない。隠すより先に、手順を終わらせようとする顔だった。

「二体と一体」

 九条は現場を一瞥して言った。

「聞いてる」

「気持ち悪い並びだ」

「珍しく率直だな」

「眠いから」

 九条は平然と返した。

 後ろから堀島がケースと記録具を持ってついてくる。歩幅は九条より半歩だけ短い。前へ出すぎず、遅れもしない。

「先生、管理人と住人の証言の要約、取ってあります」

「早いな」

 真壁が言うと、堀島はいつもの調子で答えた。

「必要かと思って」

 九条は二体のほうへ近づきながら言う。

「水ある?」

 堀島がすぐ差し出す。九条は受け取り、一口だけ飲んでから返した。

「吸入もあります」

「後でください」

「はい」

 そのやり取りを見ながら、真壁は堀島の先回りがもはや不気味な精度になってきたと思った。

 九条はまず手前二体を見た。壁際の男、コート姿の女。次に連絡通路の一体。現場間の距離、床の湿り、服の乱れ、靴底、袖口。見ている場所が普通ではない。誰もまだ「三人」と一息で数え切れていない場で、九条はすでに「一緒に見つかった三人」ではなく「どう分けて読むべき三体か」を探している。

「どうだ」

 真壁が訊く。

「数え方を壊している」

 九条は短く言った。

「一件に見せる気がない」

「最初の二体も一件に見せる気がない?」

「二体で完結している感じはある」

 九条は女のコート袖を見た。

「でも、三体目を足した時に意味が変わるように置いている」

「何の意味だ」

「それを今から読む」

 答えになっていないようで、十分答えになっていた。

 検案の初動が進むにつれ、不整合はまた出た。二体目の女は胃内容の状態から、少なくとも手前の男とは食事時刻が近くない。三体目の男は死後硬直の進み方が違い、連絡通路へ置かれた時間も手前二体と一致しない。さらに、衣服に付いた繊維の種類が別だった。共用廊下の二体は似た環境を通っているが、三体目だけは違う場所を経由した気配がある。

 九条は長々とは言わない。所見の断片だけを真壁へ寄越す。

「二体目、死後の移動あり」

「三体目、環境が違う」

「一緒に見つかった三人ではない」

 真壁はその言葉をつなぎながら、現場の導線を頭の中でなぞった。

 死ぬ単位と、見つかる単位が一致しない。

 前の現場でもそうだった。今回もそうだ。もはや偶然ではない。犯人は、死者そのものだけでなく、死者の数え方に手を入れている。

「嫌な事件だな」

 真壁が低く言う。

 九条は立ち上がりながら答えた。

「死体を見れば済む話じゃないからな」

 その一言に、真壁は少しだけ腹の底が重くなった。確かにそうだ。死体は証拠だ。だが今回、その証拠は見つけ方と数え方まで抱えている。死体の外側にまで事件がはみ出している。

   *

 同じ頃、庁舎では別の戦場ができ始めていた。

 会見炎上の余波が残る中で、新たな三遺体。報道機関はもう現場の事実だけを追っていない。前夜の会見で言葉尻を掴んだまま、次の数字の揺れを待っている。そこでどれだけ「隠した」「増えた」「後出しした」に見えるか。そこへ被害者名、生存者情報、遺族の動き、病院の出入り、何でも噛みつける餌になる。

 二階堂壮也は、その広がり方を誰より先に読んでいた。

 午前中の早い段階で、彼は対策本部の一室をほぼ囲い込みの指令室へ変えていた。壁に庁舎と病院の導線図。職員の持ち場。記者クラブの待機位置。搬送車両の出入口。遺族控室の候補。生存者がいた場合に使う別ルート。全部が紙の上で切り分けられていく。

「病院正面は閉じる」

 二階堂が言う。

「入口を一つ減らすんじゃなく、役割を変える。正面は一般患者対応だけ。遺族は西側通用口から。報道は東側待機線より中へ入れない」

「それだと隠してるように見えます」

 若い職員が言った。

「見える」

 二階堂は即答した。

「でも、見えることと守ることは別です」

 声は低い。怒っていない。けれど反論を切るには十分な硬さがある。

「未通知の名前が一つ出れば終わる。病院名が一つ確定すれば、そこへカメラが寄る。まず止める」

「記者側に説明は」

「する。ただしルートを作ってから」

 二階堂は導線図に赤い線を引いた。

「遺族控室は窓のない会議室へ移す。院内の表示は職員名も外せ。搬送車両は裏口から入れるが、出す時は囮を一台正面へ回す」

「囮?」

「空車でいい。カメラを引きつける」

 それを聞いた職員が目を丸くする。

「そこまでやるんですか」

「やる」

 二階堂はペンを置いた。

「ここから先は、正しい情報だけ出せば済む段階じゃない」

 その場にいた何人かは、引いた顔をしたかもしれない。だが二階堂は気にしない。気にしている余裕がないとも言える。彼が見ているのは、今の一歩先だった。どこで誰が撮られ、誰の名前がどう漏れ、何が切り抜きに足されるか。先に悪い盤面だけを全部並べて、そのうち何を犠牲にするかを選んでいる。

 格好いい、と見えなくもない。だが同時に、あまりにも自分を前提にしたやり方だった。自分が立つ。自分が嫌われる。自分が矢面で止める。その三つが自然に一続きになりすぎている。

「二階堂さん」

 別の職員が端末を持ってくる。

「昨日の会見、また回ってます」

「見せて」

 画面には、昨夜の切り抜きだけでなく、それを引用する別のまとめが増えていた。発言、表情、肩書、過去の広報資料の断片、別件会見の短い動画。全部を寄せ集めて、一人の人間像へ押し固めようとする速度が異常だった。

『この広報、昔から態度悪くない?』

『キャリアっぽい喋り方で無理』

『冷静じゃなくて感じ悪いだけ』

『過去会見でも上からだった』

『この人が隠してるんじゃないの?』

 中には、名前も職歴も間違っているものが混ざっている。それでも勢いは落ちない。間違っている情報ほど、拡散が速いことがある。

 二階堂は画面を数秒見てから、端末を返した。

「職歴誤認の訂正だけ用意」

「他は」

「今は触らない」

「印象が悪化します」

「分かってる」

 またそれだ、と職員は言いたげな顔をした。だが二階堂は続ける。

「今ここで全部へ反応すると、相手の土俵に乗る。優先順位を守る」

 職員は黙ってうなずくしかなかった。

 その横顔を、部屋の入口から真壁が見ていた。現場から戻ったばかりで、靴底にまだ朝の湿り気が残っている。書類を持ったまましばらく黙っていたが、結局、部屋の中へ入った。

「お前」

 二階堂が振り向く。

「今度は何人だ」

「二体と一体だ」

 真壁が答える。

「またか」

 その一言に感情はほとんど乗っていない。だが、部屋の空気はさらに重くなった。

「今度は同じ敷地で別導線」

 真壁が続ける。

「最初に二人見つけて通報。そのあと別棟で一人足される」

 二階堂の目が一瞬だけ細くなる。

「最悪だな」

「そうだな」

「数字の頭出しがまた割れる」

「お前、そればっかりだな」

 真壁の声に少し棘が混じった。

「死体のほうも十分最悪だぞ」

「分かってる」

 二階堂は即答した。

「だから、こっちでこれ以上の死者を増やさない」

 真壁は眉を寄せた。

「何だそれ」

「ここから先に潰れる人間の話だ」

 二階堂は導線図を指した。

「未通知の家族、院内職員、関係者、生存者がいるならその所在。名前一つ、顔一つ、病院一つで終わる人間がいる」

「だからって、お前が全部抱える理由にはならない」

「違う」

 二階堂は低く言った。

「俺の仕事はここから先で死者を増やさないことだ」

 その「死者」が、物理的な遺体だけを指していないことは真壁にも分かった。分かったから、余計に腹が立った。

「抱えすぎだ」

「足りないよりいい」

「よくない」

 真壁は一歩近づいた。

「お前は捜査官じゃない。現場にいない。死体を見てもいない。それなのに、お前の体だけ切って外縁を支えようとするな」

 二階堂は数秒黙った。怒るわけでもなく、笑うわけでもない。

「俺が切れば済むなら、そのほうが早い」

「そういうとこだよ」

 真壁は吐き捨てた。

「お前、自分のことだけ雑なんだよ」

 二階堂はそれにも返さなかった。返さないかわりに、導線図の上へ視線を戻した。会話を終わらせるためではない。目の前の工程を優先しただけだ。その態度がまた真壁の神経を逆撫でしたが、同時に、今ここで感情論を重ねても無駄だとも分かっていた。

   *

 医務院では、三体の照合が進んでいた。

 九条は午前からほとんど座っていない。検案の合間に対策本部からの問い合わせが入り、問い合わせの直後に別の現場票が来る。数が多いだけではない。一つ一つが、まとめて扱ってはいけない類のずれを抱えている。

 堀島が記録票を差し出しながら小声で言った。

「先生、二階堂さん、食べてないです」

 九条は遺体の手首を見たまま答えた。

「知っている」

「ずっと立ってます」

「知っている」

「言わないんですか」

 九条はそこでようやく視線を上げた。

「今は言っても座らない」

「でも」

「分かっている」

 九条は手袋を外し、記録票へ目を落とした。

「後で言う」

 その短さが、かえって本気に聞こえた。

 堀島はうなずき、水のボトルを机の端へ置いた。

「先生も」

「そこに置いて」

「はい」

 九条はボトルに触れもしない。だが堀島は慣れているのか、それ以上勧めなかった。

 三体の所見は、前の現場以上にずれていた。

 手前の男は死後硬直の進み方から、発見時刻よりかなり前に死亡している可能性が高い。女は胃内容が違い、同じ時間帯の死亡と見にくい。別棟の男は皮膚の冷え方と付着物の環境が一致せず、少なくとも同一場所からそのまま動いてきた死体ではない。

「どうだ」

 真壁が医務院へ戻ってきて訊く。

 九条は記録票へペンを走らせながら答えた。

「一件に見せる気がない」

「数え方を壊してる、か」

「うん」

 九条は短く言った。

「三人を三人として認識させるまでに、別の目線と別の時間が要る」

「発見の単位を割ってる」

「死の単位とずらしている」

「最悪だな」

「だから続いてる」

 九条は淡々としていた。だがその平板さの下で、かなり強く嫌悪しているのが真壁にも分かった。死体を読んでいるつもりが、死体の先にある認識の揺らぎまで計算された盤面を読まされている。監察医として、いちばん性質が悪い相手かもしれない。

 その時、対策本部から連絡が入る。囲い込みのため、遺族控室の移動、搬送導線の変更、職員名札の一時撤去、関係者の入退館経路の秘匿。全部、二階堂発だった。

 真壁は受話器を置いて、少しだけ顔をしかめた。

「やりすぎだろ」

「必要なんだろ」

 九条が言う。

「分かるけどな」

 真壁は低く返す。

「でも、あいつ一人で持つ前提になってる」

 九条は水を一口飲み、しばらく黙った。

「座れ、とは言ったほうがいいかもな」

「お前が?」

「俺じゃなくてもいい」

「他人事みたいに言うな」

「他人事じゃない」

 九条は紙コップを机へ置いた。

「だから嫌なんだよ」

 それだけだった。長い説明はない。だが、その「嫌」が何を指しているかは、真壁にも分かった。必要で、正しくて、でもそれを自分一人で抱え始めている。そういう二階堂の状態そのものが嫌なのだ。

   *

 午後になると、囲い込みはさらに本格化した。

 病院の正面玄関には待機線が引かれ、そこから先へ報道は入れない。西側通用口には目立たないように職員が二人立ち、遺族や関係者を案内する。搬送車両は裏口から入り、出る時だけ別の車を正面へ回して視線を散らす。院内表示から会議室名を外し、遺族控室へ繋がる通路の自動ドアは一時的に手動設定へ切り替えられた。通る人間が限られるようにするためだ。

 外から見れば、隠しているようにしか見えない。

 だが中にいる人間には、それが防壁だと分かった。まだ名前が確定していない。家族への通知も終わっていない。そこへカメラと憶測が雪崩れ込めば、本当に取り返しがつかない。

 二階堂はその最前線にいた。指示だけ出すのではない。記者の待機位置がずれれば自分で線を引き直し、職員が迷えば直接ルートを歩いて見せる。報道側へ説明が要る場面では、部下を下げて自分が前へ出た。

「こちらから先は入れません」

 記者に向かって言う。

「取材の趣旨は承知していますが、未通知の関係者と一般患者の導線が重なります」

「見せられない事情があるということですか」

「事情ではなく、優先順位です」

「何を隠しているんですか」

「隠していません。守るべき順番を変えていません」

 その言い方がまた悪い。真壁は少し離れた場所から見ていて、思わず顔をしかめた。記者側の苛立ちも分かる。だが二階堂は譲らない。譲れば、そこから先で誰かが潰れると分かっているからだ。

「広報責任者の判断ですか」

「はい」

「あなたが決めている?」

「この場では私が責任を持ちます」

 部下を下げ、自分だけが前へ立つ。その姿は頼もしく見える。だが同時に、罰として自分を差し出しているようにも見えた。

 真壁はそこで、昨夜から二階堂の中で何かが少し変質していることに気づいた。単に仕事ができる男の動きではない。自分の会見で燃えた、その失点を、自分の体で埋めに行く動き方だ。あれは長く持たない。

 さらに悪いことに、炎上は止まらないどころか、別の形へ増殖していた。会見の切り抜きだけでなく、古い広報資料から二階堂の名前が拾われ、過去の登壇写真が掘られ、表情の一部だけが「笑っていた」と騒がれ、内部向け文書の断片らしきものまで出回り始める。

 正しいかどうかは関係がない。

 燃やしやすいものとして加工されている。

 それがいちばん厄介だった。

 夕方、庁舎の一角で簡易の囲み取材が発生した。病院への出入り制限について説明を求める記者が集まり、対応職員が戸惑っている。二階堂はそれを見るなり、自分で前へ出た。

「こちらで受けます」

 部下が「私が」と言いかけるのを、視線だけで止める。

「一般患者と関係者の動線が重なるため、一部導線を制限しています」

「関係者というのは遺族ですか」

「個別の立場は申し上げません」

「では生存者がいる?」

「その確認も含めてお答えしません」

「全部答えないつもりですか」

「答える順番を守っているだけです」

 またその言い方だ、と真壁は思う。分かる。正しい。だが、燃える。

 それでも二階堂は引かなかった。部下を後ろへ置き、自分で矢面を持つ。格好いいと言えば格好いい。だが格好よさより先に、危うさのほうが目についた。

   *

 夜、ようやく波が少しだけ引いた頃には、二階堂の名前はもう事件名と並べて扱われ始めていた。

 端末の画面には、事件の見出しと同じ行に「冷たい広報担当」「問題発言の人物」といった文字が躍る。誰が何を言ったかより先に、誰がどんな人間らしいかが消費されていく。

 真壁はその画面を見て、言いようのない苛立ちを覚えた。可哀想だとは思わない。二階堂はそういう男ではない。だが、嫌な燃え方だとは思う。燃やされる前提で座った椅子に、さらに油を足されている感じがする。

 二階堂自身は、もうそれを把握していた。把握した上で、端末を閉じ、次の指示を出している。

「夜間の出入口、交代を増やしてください」

「職員の送迎は」

「ルートを二つに分ける」

「記者が待ち伏せしたら」

「私が出ます」

 またそれだ。

 真壁はとうとう声を荒げた。

「何でもかんでもお前が出るな」

 部屋が一瞬静かになる。

 二階堂は顔を上げた。

「必要だ」

「必要じゃない。お前がやりたがってるだけだ」

「違う」

「違わない」

 真壁は一歩近づいた。

「自分の会見が燃えたから、自分で片づけようとしてるだけだろ」

 二階堂の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。だがすぐに平らへ戻る。

「それの何が悪い」

「全部だよ」

 真壁は吐き捨てた。

「罰みたいに働くな」

 二階堂は数秒、黙った。

「罰じゃない」

「そう見える」

「見えるだけだ」

「だったら余計に悪い」

 二階堂はそこでようやく、少しだけ声を低くした。

「俺が前に出れば済む場面で、他に振る理由がない」

「済んでない」

「済ませる」

「そのうち倒れるぞ」

「その時はその時だ」

 真壁は一瞬、本気で殴りたくなった。もちろん殴らない。そんなことをしても何も解決しない。だが、それくらい腹が立った。

 自分のことになると雑すぎる。あまりにも。

「面倒くさいなお前」

 真壁が言うと、二階堂は疲れたようにも見えない顔で答えた。

「知ってる」

 その短さが、かえって厄介だった。

 少し離れた場所で、九条がそのやり取りを見ていた。検案帰りで、まだガウンの上から上着を羽織ったままだった。

 二階堂と目が合うと、九条は一言だけ言った。

「座れ」

 二階堂は眉を動かした。

「今は無理」

「そうか」

 九条はそれ以上言わない。言わないが、その二文字の短さに、真壁は逆に強いものを感じた。説得ではない。評価でもない。単に、見ているという通知だ。

 そのあと九条は堀島へ小さく言った。

「二階堂さん、食べてない」

 堀島はうなずき、いつの間にかどこかへ消えた。数分後、ゼリー飲料と小さなサンドイッチを持って戻ってくる。

「必要かと思って」

 二階堂は一瞬だけそれを見て、苦く笑うでもなく言った。

「お前ら、本当にそういうとこだな」

「食べてください」

 堀島は淡々としている。

「倒れると困るので」

 二階堂は返事をしなかったが、結局ゼリーを受け取った。受け取ったこと自体が譲歩なのだろう。真壁はその様子を見て、少しだけ息をついた。完全に壊れているわけではない。だが、壊れ方の手前へかなり来ている。

   *

 夜九時過ぎ、庁舎の窓の外は完全な闇になっていた。室内の照明がガラスへ反射し、そこにいる人間たちの疲れた影だけを浮かべる。

 対策本部の一角で、二階堂はまだ端末を見ていた。会見の切り抜き、新しい見出し、職歴の誤認訂正案、病院導線の更新、夜間待機の配置。手元の作業は減らない。減らないくせに、次の報せがいつ来てもおかしくない空気がずっと続いている。

 真壁は壁際でその背中を見ながら思った。

 外へ出れば叩かれる。

 中へ戻れば新しい死体が増えている。

 普通の人間なら、そのどちらかに嫌気が差して少しは引く。だが二階堂は、その二重苦の中心へ自分から入り直している。

 厄介だ。面倒だ。腹が立つ。

 それでも目が離せないのは、たぶんあいつが本気で「ここから先で死者を増やさない」つもりでいるからだろう。そこにいる死者が、死体だけではないことまで含めて。

 だから余計に危うい。

 そこへ新しい通知音が鳴った。部屋の何人かが同時に顔を上げる。全員がまた一瞬だけ黙る。

 真壁はその沈黙の質で分かった。まだ悪くなる。

 職員が端末を見て、低く言った。

「夜の報道番組、事件名の下に二階堂さんの名前、出始めてます」

 部屋の空気がまた重くなる。

 二階堂は目を閉じもしない。端末を受け取り、数秒だけ見てから、静かに返した。

「想定内です」

 その言葉に強がりは混じっていない。だからこそ痛かった。

 真壁は思わず問う。

「それで済ませる気か」

「済ませる気じゃない」

 二階堂は視線を落としたまま答えた。

「ここから先を回す」

 それだけだった。

 九条がその背中を見ていた。何も言わない。言わないが、目だけは完全に状況を読んでいる。真壁にはそれが分かった。

 堀島は静かに予備の水を置く。

 誰も優しい言葉は使わない。

 だが、誰も放ってもいない。

 端末の画面では、事件名と二階堂の名がもう一続きのものとして並び始めていた。

 外では炎上がさらに大きくなっている。

 中では死体が増えている。

 その二つの真ん中へ、二階堂壮也は自分から立ち続けている。

 真壁は、その横顔を見て確信した。

 このままでは倒れる。

 しかも、本人はたぶん、それすら計算の外へ置いている。

 だからこそ、いちばん危ない。


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