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二階堂壮也、炎上を飼う。Again  作者: 綾見 恋太郎


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第二話 数えるな、外すな

 朝が来たからといって、死体が朝らしい顔をするわけではない。

 搬送用のエレベーターが開くたび、医務院の空気は少しずつ重くなっていった。夜明け前までに収容された三体に続き、新宿区内の現場から二体。さらに身元照合待ちの関連不明事案が一件。数そのものより、数え方が定まらないことが場を悪くしていた。

 真壁彰は医務院の搬入口脇で、台車の通る音を聞いていた。金属が床を擦る音は乾いているのに、耳へ残る感じだけが妙に湿っている。人が慌ただしく動いているわりに、誰も声を荒げない。荒げれば、その瞬間に何かが決壊するのを全員が知っていた。

 処置準備室の前を、記録担当の職員が早足で横切っていく。別の職員は端末を抱えたまま立ち止まり、入力途中の画面と紙の時刻を見比べている。廊下の壁際には、急ごしらえの折り畳み机が二台置かれ、台帳、仮ID札、搬送票、照合メモが積み上がっていた。どこも席が足りない。立ったまま書き、立ったまま確認し、立ったまま次へ渡す。そこに座ってひと息入れるという発想だけが、場からきれいに消えていた。

 真壁は扉の向こうを見た。半開きの処置室で、九条雅紀がガウンの袖を少しだけたくし上げ、遺体の記録へ目を落としている。顔色は悪くない。悪く見えないようにしている、と言ったほうが正しい。表情に疲労を出す性質ではないし、出したところで仕事が減るわけでもないと知っている顔だった。

 だが、動きの端に鈍さがある。

 返事が一拍だけ遅い。記録票へ視線を落としたまま、数秒の沈黙が挟まる。咳はしていない。していないが、時々、呼吸の継ぎ方が浅くなる。吸い込むというより、喉の奥で細く繋いでいるような間がある。

 真壁はそれを見て、少しだけ眉を寄せた。

 本人が何も言わない以上、今ここで「休め」と言ったところで意味はない。むしろ、余計な言葉を挟むほうが仕事を止める。そう分かっているから黙っていたが、見ていて気分のいいものではなかった。

「先生、三体目の付着物一覧です」

 堀島岳斗が横からファイルを差し出した。

 いつの間に現れたのか分からない。手には水のペットボトルと小さな栄養補助ゼリーまである。九条は視線だけを動かした。

「そこに置いて」

「吸入も持ってきました」

「後で」

「はい」

 堀島はそれ以上勧めなかった。机の端へ吸入器と水を置き、ゼリーの包装の向きだけ整えて一歩下がる。

 真壁はそれを見ていた。九条が使うかどうかより、堀島の置き方が気になった。目立つ場所でもなく、かといって忘れられる位置でもない。手を伸ばせば届くが、視界を邪魔しない場所。相手の癖を把握していないとできない置き方だった。

「お前、よく分かってるな」

 真壁が言うと、堀島は少しだけ首を向けた。

「必要かと思って」

「それ、便利な言葉だな」

「便利です」

 真顔で言うから、真壁は返事を失った。

 その間にも、搬送票の追加が来る。新宿の二体について、現場班から速報が流れ、検視前所見の仮メモが加わる。二人とも若い男。発見時刻は路地の三体から二時間ほど後。現場は雑居ビルの共用通路。発見者は清掃業者。最初は一人と思って通報、警備員到着後に二人目を確認。

 書いてある内容だけなら似ている。

 似ているという事実そのものが、もう良くなかった。

「真壁さん」

 所轄から来ていた刑事が息を整えながら言った。

「新宿のほう、通報者の証言がまた揺れてます」

「またか」

「一人目を見た時点で足が止まって、そのあと奥まで行ってもう一人に気づいたと言ってるんですが、警備員は最初から二人見える角度だったと言ってます」

「発見位置の見取り、入口視点で押さえてるか」

「やってます」

「現場の照明は」

「一灯切れてたそうです」

「それも記録しろ」

 刑事が離れていくと、九条が机に置かれた新宿の仮メモへ目を落とした。

「切れていた照明、いつからだ」

「確認中です」

 記録担当が答える。

「切れていたから見えなかったのか、見えにくくなるように切れていたのかで変わる」

「まだそこまでは」

「分かっている」

 九条はそれ以上言わなかった。ただ、メモを置いた指先が少しだけ止まっていた。

 真壁は処置室の中へ一歩入った。

「お前、路地の三体どう見る」

「一緒に見つかった死体、で括ると外す」

「昨日も聞いた」

「昨日より嫌になった」

 九条は簡潔に答えた。

「一体目と二体目は死後変化の進みがきれいに揃わない。三体目は付着の状態が別だ。運ばれ方も、一緒に置かれた感じが薄い」

「じゃあ何だ」

「並べられている」

 真壁は無言で九条を見た。

「死体を並べた?」

「死体だけじゃない」

 九条は記録票を閉じた。

「順番も」

 その言葉は短いのに、処置室の温度をひとつ落とした。真壁は奥歯で少しだけ噛みしめる。こいつが「順番」と言う時、単に時間の前後を指していないことがある。見つける順、拾う順、処理する順、頭へ入る順。その全部が絡んでいる時の言い方だ。

「被害者情報の出方までか」

 真壁が言うと、九条は一瞬だけ視線を上げた。

「可能性としては」

「気に食わないな」

「俺も」

 気に食わない、と九条が口にするのは珍しい。真壁はそのぶんだけ、事の悪さが増した気がした。

   *

 午前十時を過ぎる頃には、対策本部の会議室はすでに飽和していた。電話が鳴り、誰かが出る。別の誰かがメモを渡す。紙が足りない、席が足りない、確認要員が足りない。だが本当に足りないのは、何が確定していて何がまだ動くのかを、一目で全員へ分からせる余裕だった。

 壁面のホワイトボードには現場名と発見時刻が並び、赤字で「関連確認中」が付け足されている。路地の三体、新宿の二体、その他照合待ち一件。数だけ見れば六に近い。だが六と言った瞬間に、何かが壊れる感じがあった。まだ重ねてはいけないものまで重なる。

「発表はどうする」

 上席の一声で、ざわつきが少し収まった。

 二階堂壮也が壁際から半歩前へ出る。相変わらず席には座らない。座らないくせに、その場でいちばん文言を握っている顔だった。

「現時点では『複数現場で複数の遺体を確認。被害人数は関連事案を含め確認中』で統一します」

「弱い」

 即座に反論が飛ぶ。

「数字を出さないと余計に詮索される」

「出す数字が揺れるなら、先に渡すほうが悪い」

 二階堂は資料の一枚を指先で押さえた。

「三人、二人と切って出すと、あとで繋がった時に『最初から分かっていたのに伏せた』へ変換されます」

「だが現時点で五体収容は事実だ」

「収容数と被害人数を同じ文で走らせないでください」

 声は低い。怒っているようには聞こえない。だが、相手の言葉の逃げ道だけをきっちり塞ぐ言い方だった。

「収容は管理上の数字です。公表で歩く数字とは別です」

「遺族感情を考えれば、曖昧な表現のほうが不信を招く」

「遺族感情を盾にして、確定していない数字を出すほうが悪い」

 会議室が少し静かになった。真っ正面から否定された相手が眉をひそめる。

 二階堂は続けた。

「未通知のご遺族がいます。現場間の関連も確定していません。今ここで数字を確定調に置くと、確認が進んだ時点で必ず言質として使われます」

「使われる?」

「切り抜かれる、でもいいです」

 二階堂はそこで初めてペンを置いた。

「発表は事実を伝えるためのものですが、同時に誤読の素材にもなります。今回は、その素材として使われる速度が異常に速い」

 真壁は黙って聞いていた。言い方は気に障る。だが、本質を外していないことも分かる。こいつはいつも、余計な情緒を足さないぶんだけきつく見える。

「九条先生のほう、所見は」

 上席が尋ねた。

 九条は席に着いてはいたが、背もたれに触れていなかった。

「一括処理に向かない」

「理由は」

「発見が似ていても、成立が違う」

「成立」

「死んだ順と、置かれた順と、見つかった順が揃ってない」

 九条は言葉を選ばない。ただ、長くも語らない。

「今の段階で『被害者五人』と一息で出すのは勧めません」

「関連は否定できない?」

「できない。だから面倒なんです」

 その一言でまた空気が沈む。

 二階堂は九条のほうを一度だけ見た。

「文面はその方向で詰めます」

「会見もやるのか」

 別の声が飛ぶ。

「やるしかありません」

 二階堂が答える。

「ただし、言う順を間違えないこと。現場数、遺体確認、関連確認中、個別情報非公表、その順です」

「被害人数は最後か」

「最後です。最後まで確定させない可能性があります」

「批判されるぞ」

「分かってます」

 そこで終わる。感情で言い返さない。反論への不満も見せない。だが一歩も引かない。そのやり方が、真壁には少しだけ冷たすぎるように映った。

 同時に、こいつ以外に今この場を捌ける人間がいるかと言われると、すぐには思いつかなかった。

 会議は一時間近く続き、言葉ひとつの置き方で何度も止まった。「現時点」を入れるか、「確認中」をどこに置くか、「関連事案を含め」を付けるか、「遺族対応を優先」を先に言うか後に言うか。傍から見れば、どれも似たような語句だった。だが二階堂は、その順番が違うだけで傷の増え方が変わると知っている顔をしていた。

「その文だと後で増えた時に終わる」

「その一行だと、遺族より先に数字が歩く」

「非公表の理由を感情に寄せすぎると、逆に隠してる印象が残る」

「『捜査上の理由』だけだと強すぎます。『確認作業およびご遺族対応を優先』へ変えてください」

 短く、正確で、余地がない。

 真壁はそのやり取りを見ながら、心のどこかで「燃えやすいな」と思った。正しい。だが柔らかくない。正しいことを正しいまま言う人間は、間違った人間より厄介に消費される時がある。

   *

 会議が切れたのは昼を回ってからだった。誰も昼休憩という言葉を口にしないまま、それぞれ別の持ち場へ散る。九条は立ち上がる時、一瞬だけ机へ手を置いた。その動作がごく自然だったので、周囲は誰も気に留めなかったかもしれない。だが真壁は見ていた。呼吸の間が、また少し浅くなっている。

 真壁は捜査本部側の確認事項を抱えたまま、廊下へ出た。会議室の熱が抜けたせいで、外気のほうが冷たく感じる。人通りの少ない控室脇を通りかかった時、扉の陰に立つ人影が見えた。

 九条だった。

 壁へ軽く肩を預け、片手で胸元を押さえるほどではないが、呼吸を整えている。咳は押し殺しているせいか、喉の奥で小さく切れていた。目は閉じていない。閉じる余裕もない顔だった。

 真壁が声をかけるより先に、別の足音が近づいた。

 二階堂だった。

 彼は九条の前で立ち止まり、まず何も言わなかった。顔色を見る。呼吸の間を見る。そこまでで十分だったのだろう。

「そのまま倒れるなら先に言え」

 第一声がそれだった。

 九条は目だけを向けた。

「倒れない」

「そういうやつが倒れる」

「まだ平気」

「まだ、で済む段階の顔してない」

 声は大きくない。だが逃がさない。

「迷惑のかけ方を選べ」

 九条は少しだけ息を整え、壁から肩を離した。

「今は無理」

「無理じゃなくて選べって言ってる」

 二階堂は一歩も近づかない。その距離が逆に本気だった。

「無理して倒れるのがいちばん迷惑だ」

 九条は数秒黙った。怒ったようには見えない。かといって反省した顔でもない。ただ、言われた意味そのものは分かっているという静かな沈黙だった。

「分かっている」

「分かってないからこうなってる」

「会議は終わった」

「終わってない。お前が次に倒れたら、こっちは一人分余計に隠す仕事が増える」

 二階堂の言い方はきつかった。真壁は廊下の角で立ち止まったまま、その場へ出るか少し迷った。九条を心配しているのは明らかだ。だが、もっと他に言いようがあるだろうとも思う。

 九条は小さく息を吐いた。

「感じ悪いな」

「今さらだろ」

「知っている」

 その返しがあまりにもいつも通りで、真壁は逆に口を挟めなくなった。

 そこへ堀島が現れた。片手に水、もう片手に吸入器と小さな紙袋を持っている。

「必要かと思って」

 九条は一瞬だけ眉を寄せた。

「……ください」

「はい」

 堀島は吸入器を差し出し、水のキャップを緩めてから紙袋を椅子の上へ置いた。中身はサンドイッチらしい。

 二階堂がそれを見て言う。

「食べなよ」

「今は要らない」

「要るか要らないかじゃない」

「時間が」

「二分で済むじゃん」

 九条は露骨に嫌そうな顔はしない。ただ、明らかに面倒くさそうではあった。真壁はそこでようやく廊下の角から出た。

「お前ら、そこでやるのか」

 二階堂が振り向く。

「聞き耳か?」

「違う。通りがかっただけだ」

「便利な言い訳だな」

「そっちもな」

 真壁は九条へ視線を向けた。

「顔悪いぞ」

「お前まで言うのか」

「言われるうちに食っとけ」

 二階堂が小さく鼻で笑った。その笑いは面白がっているのではなく、ひとまず真壁が同じ側に立ったことへの確認のように見えた。

 九条は観念したようにサンドイッチの袋を開けた。ひと口だけ食べ、水で流し込む。吸入器はまだ使わない。二階堂がその手元を見ていた。

「それも使え」

「後で」

「今だ」

「……うるさい」

 初めて、九条が少しだけ声音を荒くした。荒いと言っても、普段より低く硬い程度だ。

 二階堂はそれで引いた。引きながらも言う。

「じゃあ十分以内」

「指図が細かい」

「倒れられるよりましだ」

 九条は返事をしなかった。吸入器を指先で弄び、結局、数秒後に使った。短い吸入のあと、呼吸の継ぎ目がわずかに深くなる。真壁はそれを見て、心の中で少しだけ安心し、少しだけ腹を立てた。本人がその気になれば使えるのなら、最初から使えと思う。

 だが同時に、二階堂の言い方のきつさも頭に残る。正しい。けれど、柔らかさがなさすぎる。相手を動かすための言葉としては有効でも、見ている側には棘だけが先に立つ。

 真壁はその場を離れながら思った。二階堂はああいうところで損をする。だが損をすると分かっていても、たぶん言い方を変えない。変えられないのではなく、今は変えるほうが悪いと判断しているからだ。

 そこが、面倒だった。

   *

 午後に入ると、捜査側の確認も荒れ始めた。最初の路地の三体と新宿の二体のあいだで、被害者の持ち物や移動履歴に重なりが見えない。接点がないのではなく、出方が悪い。一人だけすぐ身元が割れそうな所持品を持ち、一人だけ端末情報が抜け、一人だけ勤務先の特定が早く進む。被害者情報の出方に偏りがある。

 真壁は机へ置かれた資料を見ながら、指先で順番を入れ替えた。

 一体目は財布あり。二体目は身分証なし。三体目は鍵のみ。四体目はスマートフォンありだがロック解除待ち。五体目は社員証あり。普通なら偶然で済むかもしれない。だが現場の見つかり方がここまで揃っている以上、被害者情報の出方まで偶然に見せるのは難しくなってくる。

「誰が先に名前になるかまで弄ってるのか」

 真壁は独り言のように言った。

 隣にいた刑事が顔を上げる。

「何ですか」

「まだ何でもない」

 真壁は資料を取り直した。思いつきの段階で言うべきことではない。だが気味が悪かった。犯人が死体を置いたのだとして、その次に起こることまで見ているとしたらどうか。誰が先に身元確認され、誰が最初の速報へ載り、誰が家族より先に世間へ消費されるか。そういう順番まで含めて盤面を作っているとしたら。

 それはもう、殺人事件というより、発見と報道の手順そのものに手を入れていることになる。

 真壁は思わず舌打ちしたくなった。嫌な方向へばかり筋が通る。

 午後三時、もう一度会議が開かれた。初会見の実施が正式に決まったからだ。時間は夕方。場所は庁舎内の会見室。発表するのは現場数、遺体確認、関連確認中、個別情報非公表。数字は確定調で言わない。質疑応答は受けるが、被害人数については「確認中」を崩さない。現場詳細は出さない。遺族対応を理由にしすぎず、捜査と確認作業の優先を前に置く。

「前に立つのは」

 上席が確認した。

 二階堂は迷わなかった。

「私が出ます」

 何人かがうなずき、何人かは少しだけ顔を曇らせた。適性はある。だが冷たく見える、と分かっている顔だった。

「警察側からも一人付けるか」

「必要なら冒頭だけ」

 二階堂が言う。

「ただ、説明の軸は広報で持ちます」

「質問が現場詳細へ寄った場合は」

「確認中で切ります」

「遺族感情を問われたら」

「盾にしません」

 二階堂は即答した。

「そこを前に出すと、その一言だけ切られます」

 また会議室が静かになる。あまりにも分かっている。分かりすぎていること自体が、周囲には冷たく映る。

 真壁はその場で腕を組んだまま、二階堂の横顔を見た。きれいに整った輪郭だと思う。感情を殺しているのではなく、仕事のために平らにしている顔だ。だが、平らなものは映像では無機質に見える。あの会見室で、記者相手に同じ調子で切ったら、たぶん嫌われる。

 そして二階堂は、それも分かった上で前へ出ようとしている。

「原稿、最終確認を」

 誰かが資料を差し出す。

 二階堂は受け取り、赤を入れ始めた。

「この一文、『現段階で判明している範囲では』を前へ」

「理由は」

「『判明』を後ろへ置くと、数字だけが先に残ります」

「ここは」

「『複数の遺体』のあとに『確認』を入れる。発見と確認は別です」

「細かいな」

「細かくないと後で死にます」

 言い切ってから、二階堂は一瞬だけ視線を上げた。会議室の全員を見たわけではない。たぶん、自分で言った「死にます」という言葉が、少し強すぎたことだけを認識したのだろう。しかし言い換えはしなかった。

 真壁はそのまま黙っていた。今の一言を、そのまま会見で言えば燃える。そんなことは誰でも分かる。分かるのに、二階堂が普段からその温度で仕事をしているのも見えてしまった。

   *

 会議が終わると、九条はまた処置室へ戻った。まだ照合の詰めが残っている。五体だけでも十分に重いのに、関連不明の事案が増える可能性が残っているせいで、誰も先の予定を立てられない。

 真壁が廊下を歩いていると、堀島がファイルと紙コップを持って出てきた。

「九条は」

「中です」

「また休んでないのか」

「休んでません」

「止めないのか」

「止まりません」

 堀島は紙コップを持ち直した。

「でも、一応置いてきます」

 中身は温かい飲み物らしい。真壁は思わず聞いた。

「お前さ、何でそこまで先に分かるんだ」

「何がですか」

「必要なもの」

 堀島は少しだけ考えた。

「前に助けられましたから」

 真壁は言葉を失った。淡々とした声音なのに、その一文だけ妙に率直だった。

「だから、今度は先生が倒れる前にいるものを置きます」

「……そうか」

「はい」

 堀島はそれ以上言わず、処置室へ戻っていった。

 真壁は廊下の壁にもたれ、天井を見た。

 九条は無理をする。二階堂はきつい言い方で止める。堀島は感情を挟まず必要なものを置く。誰も優しくはない。だが、誰も放ってもいない。その関係の形が、少しだけ歪で、少しだけちゃんとしていることが妙に気にかかった。

 そこへ会見室の下見から戻ってきた二階堂が通りかかる。

「おい」

 真壁が呼ぶと、二階堂は足を止めた。

「九条に言いすぎだ」

「どこから聞いてた」

「通りがかっただけだ」

「便利な言い訳だな」

「お前、今日それ好きだな」

 二階堂は小さく息をついた。

「言い方が悪いのは分かってる」

「なら柔らかく言え」

「柔らかく言って止まるか?」

 真壁は少し考えて、答えられなかった。

 二階堂は続ける。

「止まらない相手に、止まらない言い方しても意味がない」

「だからって刺すな」

「刺してるつもりはない」

「余計に悪い」

 二階堂は数秒黙ったあと、視線を外した。

「……倒れられると困る」

 それだけだった。飾りも説明もない。真壁はその短さで、言葉のきつさの奥にあるものをほぼ理解した。理解したからといって、やり方を好きにはなれないが。

「分かるけどな」

 真壁は言った。

「お前、損するぞ」

「今さらだろ」

 二階堂はそう返して歩き出した。その背中を見ながら、真壁は苦いものを舌の奥へ押し込んだ。損をすると分かっていて同じやり方を選ぶ人間は、だいたい面倒だ。

   *

 夕方の会見が近づくにつれ、庁舎の空気は別の種類の張り方をし始めた。現場から戻る靴音、電話口の声、廊下を走る記者対応の職員。死体のある場所とは違う緊張が、建物の表側へ集まっていく。

 会見室の外では、受付担当が資料の部数を数え、映像配信の確認が進み、質問想定の最終版が手渡される。二階堂はその中心にいて、ひとつも急いで見せない。急げば急ぐほど、周囲も焦るからだろう。紙をめくる速さまで一定だった。

「この順で行きます」

 彼が最終確認を告げる。

「冒頭一分で現場数と確認状況。次に関連捜査中。個別情報は非公表。人数は確認中から崩しません。質問が数字に偏ったら、確認作業の優先へ戻します」

「もし執拗に訊かれたら」

「同じ答えを返します」

「印象が悪くなる」

「分かってます」

 二階堂は淡々としていた。

「でも、ここで変えるともっと悪い」

 その判断は正しい。正しいが、救いがない。

 会見室のドアが開きかけた時、真壁はふと処置室側の廊下を振り返った。九条は来ていない。呼ばれてもいない。今はまだ、死体のほうへ残る役目だった。

 そのことに少しだけ安堵し、同時に別の不安も覚えた。会見で前へ出るのは二階堂一人だ。正確な言葉だけを持って、人の感情が渦を巻く場所へ出ていく。その姿は有能に見えるだろう。だが、画としては危うい。

 真壁は自分でも理由の分からない苛立ちを抱えたまま、会見室の入り口で立ち止まった。まだ何も起きていない。だが、起きる前から悪い形をしている盤面がある。今日一日見てきたのは、その連続だった。

 死体の置かれ方が悪い。

 数字の出方が悪い。

 言葉の順番が悪ければ、もっと悪くなる。

 そして今、会見室のドアの向こうで、それがまた別の形を取り始めようとしていた。

 二階堂は原稿を閉じ、ネクタイの結び目へ指先を触れた。ほんの一瞬の癖だった。

「行きます」

 誰に向けたとも分からない声音でそう言うと、彼は会見室へ入っていった。

 真壁はその背中を見送った。まだ燃えてはいない。だが、火の回りやすい材が静かに積まれていく音だけは、もう聞こえていた。


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