第一話 最初に燃えたのは死体じゃない
死体の数は、たいてい現場が決める。
倒れている位置、血の広がり、規制線の張り方、担架の数、無線の飛び方。人が何人死んだかという事実は、最終的には書類へ落ちるが、その前にまず空気が形を持つ。現場へ足を踏み入れた人間は、数字を知るより先に、その場が何人分の死を抱えているかを皮膚で読む。
だから真壁彰は、路地へ入った瞬間に眉をひそめた。
三人と聞いていた。
だがこの現場は、三人で閉じていない。
夜明け前の裏通りには、雨上がりの湿気が薄く残っていた。搬入口の脇に規制線が張られ、その内側で青いブルーシートが三つ、街灯の鈍い光を返している。大型商業施設の裏手にある細いサービス通路で、一般客の目には触れにくい。配送車が出入りする時間帯なら、人の気配に紛れて何かを運び込むことも不可能ではない。実際、周囲にはタイヤ痕が重なっていた。だがそれだけなら珍しくもない。
気持ちが悪いのは、その上だった。
通路は細いのに、足跡が妙に多い。通報後に増えた分もあるだろう。警官、救急、鑑識、発見者。しかしその重なり方が、第一発見の直後に生じる乱れと少し違う。慌てて駆け寄った形より、いったん立ち止まり、見比べ、また位置を変えたような迷いがある。三つの死体を見つけた人間の動きというより、三つ目が本当に三つ目なのか確かめようとした動きだ。
「真壁さん」
所轄の刑事が駆け寄ってきた。四十代半ば、顔に寝不足の線が出ている。
「通報は四時四十八分。清掃担当の男性が最初に二人見つけたと思って通報してます。ただ、そのあと奥を見た別の警備員が一人いると言って、現場到着時点では三人扱いになってます」
「最初から三人じゃなかったのか」
「発見者本人は、最初は二人しか見えてなかったと」
「見えてなかった?」
「暗かったのと、通路の角度のせいで」
真壁は返事をせず、規制線をくぐった。
コンクリートの床はまだ濡れ色を残している。通路の左手に業務用の勝手口、右手に金属製のゴミ置き場、その先に配送用のシャッター。ブルーシートは手前と中ほど、それから奥に一枚。奥の一体だけ、壁に寄りすぎていた。最初に二体しか見えなかったという説明は一応通る。しかし通ることと、腑に落ちることは違う。
真壁はしゃがみ込まず、まず立ったまま全体を見た。
救急が入った痕跡はある。だが荒れていない。死体のそばに落ちているはずの小物や、踏み乱された水たまりや、緊急時特有の焦りの跡が薄い。現場は整いすぎていた。誰かが騒ぐ前に、もう見せる形が決まっていたような整い方だった。
「ブルーシート外します」
若い鑑識が声をかけた。
「待て」
真壁は通路の奥を指した。
「先にあっちの角度から写真を押さえろ。三体がどう見えるか、発見者の視線で」
「はい」
「それと、二体に見えた位置も残せ」
若い鑑識はうなずき、カメラマンに指示を飛ばした。
手前の一体目は若い男だった。スーツではないが、通勤用にも見える黒のジャケットに、薄いシャツ。仰向けではなく、身体がやや横へ倒れている。頸部に絞扼痕らしきもの。顔色は暗い照明でも悪く分かった。中ほどの二体目は女性。コートの前が乱れ、片方の靴が脱げていた。転倒の結果ではなく、運ばれる過程で崩れたような不自然な外れ方だった。三体目は奥、壁際。若い男。こちらだけシートの裾から靴先が少し出ている。通路の角からでは、確かに見落とす余地がある。
だが真壁の違和感はそこではなかった。
三体とも、死んだ場所に見えない。
血が少ないとか、外傷がないとか、そういう単純な話ではない。死ぬという出来事がその場で生じたなら、そこには個体差のぶんだけ乱れが出る。抵抗の方向、崩れ方、最後の動き、ほんの少しの擦れ。その差が三体とも妙に薄い。人が死んだ結果そこにあるというより、死体がそこへ配置された結果そこにある。そう思わせる均質さがあった。
真壁は手前の遺体と中ほどの遺体の距離を見た。近すぎもしない。遠すぎもしない。通路に沿って、視線が流れるように置かれている。奥の一体も、見落としうる位置ではあるが、完全には隠れていない。見つける人間の視界の遅れまで含めて、置き方が悪い。
「通報者はどこだ」
「別室で保護してます」
「証言、取れてる分だけ聞かせろ」
所轄刑事は手帳を開いた。
「最初の清掃担当は、勝手口の脇で一体目を見つけて、少し先にもう一体あると気づいた。そこで通報。警備員が駆けつけて、奥にもう一人いるかもしれないと言った。本人は、はっきり見たのは通報のあとです」
「見たのか、見てないのか、どっちだ」
「……その辺が揺れてます」
「揺れるな」
真壁は低く言った。
「見えたなら見えた、見えないなら見えないだ。怖かったは理由になるが、整理しろ」
「はい」
所轄刑事が喉を鳴らした。
真壁は三体目の位置まで歩き、通路の入口を振り返った。確かに、暗さと角度が重なれば手前二体で視線が止まる。しかし奥の一体だけが見えにくいのは、死体そのものが隠れていたからではない。先に目へ入る情報が多すぎるからだ。発見者の視線はまず手前の異物へ吸われ、次に中ほどへ引かれ、そこで通報に向く。三体目に気づくのは、そのあとになる。
見つけさせ方に順番がある。
そう思った瞬間、真壁は舌打ちしたくなった。まだ早い。意味に寄るな。現場は現場として見ろ。死体の並び方が気持ち悪い。それで十分だ。
「搬送車、何台入った」
「救急一台と、警察車両二台です」
「通報前の出入りは」
「施設側確認中です。夜間配送は三時台まで、以降は基本なし」
「基本は要らん。記録を出せ」
「すぐ回します」
所轄刑事が離れていく。
通路の奥で、鑑識が靴跡の保全に入っていた。床の湿りがまだ残っているせいで、輪郭が辛うじて見えるものがある。業務靴、スニーカー、革靴。新旧が混ざり、きれいには拾えない。それでも一つだけ、真壁の目に留まる線があった。細いソールの跡が、奥から入口へではなく、入口から奥へ二度入り、二度戻っている。迷いのある歩幅だ。発見者か、救急か、警官か。今の時点では何とも言えない。だが、最初の発見が一度で終わっていないことだけは、靴跡のほうがよほど正直だった。
無線が鳴った。別の現場班からの連絡らしい。所轄の若手が顔をこわばらせ、すぐ音量を落とした。真壁はそちらを見なかった。
「先生、来られます」
鑑識の一人が小声で言った。
振り向くまでもない。九条雅紀だ。
規制線の手前で、九条は所轄へ短く会釈してから内側へ入った。白衣ではない。濃い色のコートの下にスーツ。髪も乱れていない。だが、夜明け前の路地へ立った時だけ、場に対する視線が一度静かに沈む。それは祈りにも感傷にも見えない。ただ、人が死んでいる場所へ入る前に、身体のどこかで一拍置く癖だった。
九条は手前のシートの前で止まらず、通路全体へ視線を走らせた。死体を見る前に、配置を見る。その順番が真壁には少し気に障る。
「三体です」
所轄が言う。
「通報時は二体認識、現着で三体」
「なるほど」
九条はそれだけ言った。
近づいても、しゃがみ込まない。床の湿り、シートの端、壁との距離、通路幅。見ている場所が普通ではない。普通は人間の顔や傷へ目が行く。こいつは違う。死体が死体としてどう見えるかより、死体がそこへどう置かれて見えるかを先に拾う。
「写真は」
「入口視点、もう押さえてます」
「二体に見えた位置も?」
「はい」
「ありがとうございます」
九条は短く礼を言い、ようやく一体目のそばへしゃがんだ。
真壁はその横顔を見ながら、無意識に眉を寄せた。九条は説明を急がない。だが沈黙に無駄がない。頸部、手首、袖口、靴。指先は触れず、視線だけが細かく動く。
「どうだ」
真壁が聞いた。
「まだ」
「そのまだは嫌いなんだよ」
「知っている」
九条は中ほどの女性の遺体へ移った。コートの乱れ、膝の角度、爪先の向き、髪に付いた水分。そこでほんの一瞬だけ表情が変わった。変わったと言っても、目の奥が少しだけ止まった程度だ。
「同時じゃない」
九条が言った。
所轄の若手が反応した。
「えっ」
「少なくとも、このまま三件一括で数えると外す」
「何が」
真壁が訊く。
「死体の順番」
「死んだ順か、置かれた順か」
「両方」
九条は三体目へ移動した。壁際の遺体の足元でしゃがみ込み、シートの出方と靴底の汚れを見ている。
「ここで死んだ感じじゃない」
若手が息を呑む。
「運ばれたってことですか」
「今はそこまで言わない」
「言ってるようなもんだろ」
真壁が言うと、九条はわずかに肩をすくめた。
「気持ち悪いだけだ」
「それはこっちも同じだ」
「そうだろうな」
短い会話だったが、場の空気が一段冷えた。九条は怖がらせるための言い方をしない。だから余計に悪い。
その時、通路の外から足音がした。振り返ると、堀島岳斗がケースと書類挟みを抱えて立っていた。医務院の若手で、九条の補助につくことが多い男だ。細身で、感情を表へ出さない顔をしている。目立つタイプではない。だが、必要な時に必要なものを持ってくる速さだけが、どうにも普通ではなかった。
「先生」
堀島は規制線の手前で声を落とした。
「搬送記録の雛形と、施設側の夜間出入り台帳、取り寄せ始めています」
「早いな」
真壁が言うと、堀島は一瞬だけこちらを見た。
「必要かと思って」
九条は立ち上がらずに言った。
「まだ要らない」
「はい。ただ、すぐ見られるようにはしてあります」
「……分かった」
堀島はそれ以上前へ出ず、規制線の外で待機した。控えめだが、引き際まで正確だった。
真壁はもう一度通路全体を見た。九条が言った「同時じゃない」が頭に残る。こいつはいつもそうだ。誰もまだ形にしていない違和感へ、短い言葉を打ち込んでくる。それで空気が変わる。腹が立つのは、だいたい当たるからだ。
「死因は」
所轄が恐る恐る問う。
「現場じゃ決めない」
九条が答える。
「ただ、三人を一続きの絵として見ると間違える」
「絵」
真壁が繰り返す。
「見え方だ」
九条はそう言って立ち上がった。
「ここは、死んだ場所というより、見つける場所になっている」
その一言で、真壁の中の違和感が輪郭を持ちかけた。だが、まだ掴まないことにした。掴んだ瞬間に、現場は都合のいい答えへ寄っていく。今は気持ち悪さを気持ち悪いまま残しておく。
「搬送準備に入る」
九条が言った。
「三体とも、個別管理で」
「当然だ」
真壁は返した。
「当然が崩れそうだから言っている」
「感じ悪いな」
「最初からだ」
真壁は舌の奥で笑いを噛み潰した。
*
医務院へ戻る車中で、真壁は窓の外の朝をぼんやり見ていた。通勤の流れが立ち上がり始めている。人の数は増え、光も白くなっていく。あの路地の三体が、何も知らない街の朝のすぐ裏にあるという事実が、妙に現実味を持たなかった。
単純な連続殺人なら話は早い。被害者の接点、移動経路、犯行時間、凶器、目撃者。追うべきものは多いが、筋は一本に見える。だが今朝の現場は違った。死体が死体としてそこにある前に、まず発見の順番があり、その順番に意味がありそうだった。
死体そのものより、死体の見え方に手が入っている。
真壁はその言い回しを頭の中で転がした。気に入らない。抽象に寄りすぎている。だが他に言いようがなかった。
医務院の搬入口はすでに慌ただしかった。職員が動線を確保し、記録担当が端末を開き、搬送時刻を刻んでいる。九条は車から降りるなり処置室へ向かい、堀島がその一歩後ろをついた。二人とも早足ではない。急げば早い場面だが、焦るほど手順が崩れることを知っている足取りだった。
真壁は遅れて中へ入り、処置準備室の外で腕を組んだ。ガラス越しに見える九条の動きは、現場と同じく無駄がない。堀島は必要な器具と記録票を並べ、九条が目線だけで指示したものを先に寄せている。言葉が少ない分、見ている側の神経が削られる。
「先生、夜間台帳です」
堀島がクリアファイルを差し出した。
「施設搬入口の出入り、零時以降で異常が三件。うち一件は配送登録なし」
「もう見たのか」
真壁が言うと、堀島は表情を変えずに答えた。
「必要かと思って」
「お前、その一言でだいたい済ませるな」
「すみません」
謝っている声なのに、実際には何も退いていない。真壁は少しだけ面白くなかった。
処置室の扉が半開きになり、九条が顔を出した。
「真壁」
「何だ」
「一体目と二体目、衣服の湿り方が違う」
「雨か」
「それだけじゃない。保管環境か、移送の条件が違う」
「つまり」
「一緒に見つかったから、一緒に処理していい三体じゃない」
九条はそう言って扉を閉めた。
説明が足りない。だが十分でもあった。
午前七時を回った頃、対策本部が仮設の会議室で立ち上がった。警察側の捜査班、医務院側の連絡担当、それから広報。真壁が顔を出した時には、もう資料が卓上に並び始めていた。壁際の端に立っている男を見て、真壁は小さく息を吐いた。
二階堂壮也だった。
二階堂はいつものようにきちんとしたスーツを着て、ネクタイの結び目にも隙がない。派手さはないが、どこに立てばその場を邪魔せず全体が見えるかを知っている立ち方だった。会議の中心に座らない。だが誰かが発言するたび、必要な情報が最短で手元へ入る位置にいる。ああいう場所の取り方がうまい。
「三人死亡で出すのか」
誰かが言った。
二階堂はすぐに返さなかった。資料へ目を落とし、ペン先で一行だけなぞってから口を開いた。
「その言い方だと、あとで増えた時に隠したことになります」
「しかし今確認できているのは三人です」
「確認できているのは現時点で収容に入った三体です」
二階堂の声は低く、強くない。だが会議室の空気を細く切る。
「現場認識と搬送時系列がまだ揃っていない以上、『三人死亡』と断定して出すと、数字だけが歩きます」
「曖昧にしすぎると余計に疑われる」
「疑われるのと、確定していない数字を出すのは別です」
二階堂は顔を上げた。
「使うなら、『現時点で複数の遺体を確認。被害人数は関連を含め確認中』です」
何人かが顔をしかめた。硬すぎる。逃げているように見える。そう思ったのだろう。
真壁は黙って聞いていた。言い方として好ましいかは別にして、筋は通っている。
「三人という数字を伏せる理由は」
上席が問う。
「理由は二つあります」
二階堂は即答した。
「ひとつは、増えた場合に『ごまかした』へ変換されるから。もうひとつは、今回の現場が意図的に被害人数の認識を揺らす配置になっている可能性があるからです」
会議室が静かになった。
「配置?」
「現場の見え方に作為がある可能性です。まだ断定はしません。ただ、今の段階で数字を先に見出しへ渡すのは危険です」
真壁はそこで初めて、二階堂が現場写真を見ていることに気づいた。ただの広報として発表文を整えているのではない。死体の画面の向こうで、どう切り抜かれ、何が見出しになるかを先に見ている。
九条が遅れて会議室へ入ってきた。白衣に薄い色のガウン。寝不足の影はあるが、歩き方は変わらない。席に着くと、卓上資料をざっと見て、一枚だけ抜いた。
「三人で出すと外す」
それだけ言った。
「理由は」
二階堂が視線だけを向ける。
「同時じゃない」
九条は簡潔に返した。
「死亡推定の幅も、湿りも、付着も揃ってない。一括処理に向かない」
「関連は?」
「あるかもしれない。だから面倒なんだ」
九条は資料を戻した。
「同じ事件かどうかと、同じ時点で数えるかは別」
二階堂はうなずいた。そのやり取りは短いが、奇妙に噛み合っていた。真壁はそこに少しだけ苛立つ。こいつらは見ている対象が違うのに、嫌なところで話が通る。
「じゃあ、文面はその方向で仮組みする」
二階堂が言った。
「『現時点で複数の遺体を確認』『被害人数は関連を含め確認中』『現場詳細および個別情報は捜査と遺族対応を優先し非公表』。この順にします」
「弱いな」
誰かが言う。
「弱くていいんです」
二階堂は淡々と返した。
「強い数字は強い誤読を連れてきます」
その一言に、真壁は少しだけ目を細めた。広報の仕事を格好いいと思ったことはあまりない。だが、今の言葉だけは、死体から離れた場所にある別種の現場を見ている気がした。
会議がいったん切れたあと、真壁は廊下で二階堂に声をかけた。
「お前、現場写真まで見たのか」
「見た」
「仕事熱心だな」
「褒めてる感じがしない」
「してない」
二階堂は小さく息をついた。
「三人死亡って見出し、強すぎるだろ」
「だからと言って濁せば叩かれる」
「叩かれるのと、間違った数字を渡すのは違う」
さっきと同じ言葉だった。二階堂は繰り返しているのではない。自分の中で同じ線を引き直している。
「今回は特に悪い」
「何が」
「二人見つけたと思って通報して、あとで三人になった。そこだけ切り出せば、いくらでも『最初から数を隠した』にできる」
二階堂は壁に貼られた案内板を見たまま言った。
「数字は、増えると裏切りに見える」
「面倒な仕事だな」
「だから給料が出る」
真壁は鼻で笑った。
だがその時、二階堂の指先がネクタイの結び目へ一瞬だけ触れたのを見て、真壁は言葉を飲んだ。考える時の癖なのかもしれない。ただ、あの男が今見ているのは書類の上の数字ではなく、その数字がどう一人歩きするかの未来だと分かった。
*
午前九時前、一体目と二体目の簡易所見が上がり始めた。真壁は処置準備室の外で待ち、九条が出てくるのを見た。ガウンの袖を外しながら、眉間に薄く皺が寄っている。
「どうだ」
「死因の確定にはまだ早い」
「そうじゃない」
「分かっている」
九条は壁際に立ち、記録票の一部を指で押さえた。
「一体目は頸部圧迫の可能性が高い。二体目は別の手がかかっている。少なくとも同じ流れで同じ場所で死んだ二人ではない」
「三体目は」
「これから」
「同時じゃないってのは」
「変わらない」
九条はそこで一度言葉を切り、少しだけ視線を下げた。
「搬送を前提に扱った死体が混ざっている感じがする」
「感じか」
「現段階ではな」
「お前の感じはだいたい嫌な方向へ当たる」
「そうかも」
九条は否定しなかった。
堀島が横から記録票の追加分を差し出した。
「先生、三体目の所持品一覧です。施設周辺の防犯カメラ、時刻のずれがあるものを先に抜いてます」
「頼んでない」
九条が言う。
「必要かと思って」
「……分かった」
真壁は堀島を見た。こいつもまた、九条の考えそうな手順へ先回りしている。若手として優秀という言葉で済ませるには、少しだけ正確すぎた。
「防犯カメラ、ずれてるのか」
「最大七分」
堀島が答えた。
「施設外周の時計表示も不統一でした」
「最悪だな」
「はい」
堀島は感情を乗せずに言った。
その時、廊下の向こうで慌ただしい足音がした。所轄の刑事が息を切らせて走ってくる。真壁は見る前から嫌な予感がした。
「真壁さん」
刑事は声を落として言った。
「新宿区内で別件の通報です。男女二人、死亡確認。状況が……似てます」
数秒、誰も言葉を返さなかった。
「似てる?」
真壁が聞く。
「屋内通路。発見者が最初一人と思って通報、あとでもう一人」
刑事の声が乾いていた。
「現着班が、関連を疑ってます」
真壁の頭の中で、今朝の路地の並びがもう一度立ち上がった。二人見つけたと思って通報し、あとで三人になった現場。今度は一人だと思って通報し、二人になった現場。偶然として片づけるには、見つかり方が悪すぎる。
九条が短く言った。
「増える」
「何が」
「数え方の揺れ」
真壁はもう返事をしなかった。連続殺人かもしれない、という段階が一気に後ろへ下がる。被害者が増える。それだけではない。増え方そのものが、誰かの手つきに見えてくる。
堀島はすでに端末を開いていた。
「新宿の搬送先、確認します」
「頼む」
九条が言う。
二階堂も、いつの間にか廊下の端に来ていた。誰かから報告を受けたのだろう。顔色は変わらない。ただ、目だけが一段冷えて見えた。
「二人で出すのは無理ですね」
誰にともなく言う。
「最初の三体ももう固定できない。複数現場、関連確認中に切り替えます」
「それで逃げ切れると思うか」
真壁が問う。
「逃げるためじゃない」
二階堂は静かに答えた。
「間違った数字を先に渡さないためだ」
「でも遅れれば叩かれる」
「分かってる」
二階堂の視線は、真壁ではなく廊下の端にあるモニターへ向いていた。そこには、すでに朝の情報番組が無音で流れていた。画面下に『都内路地で男女含む3遺体』という速報テロップが出ている。
二階堂はそのテロップを見て、ほんのわずかに息を吐いた。
「始まった」
「何が」
真壁が聞くと、二階堂は目を離さないまま答えた。
「数字が独り歩きする」
それは予言めいて聞こえた。だが予言ではない。もう画面の中で起きていることを、その男だけが他の誰より早く現実として見ていた。
九条がモニターを見てから言った。
「三人じゃ終わらない」
「そうだろうな」
真壁は低く返した。
「じゃあ、どう始まる」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが返したのは二階堂だった。
「最初に燃えるのは、犯人でも警察でもない」
そこで一度区切る。
「数字だ」
廊下の空気が静かに張った。
真壁はその言葉を聞いて、ようやく今朝から抱えていた気持ち悪さの片輪だけを理解した。死体がある。人が死んでいる。その事実のすぐ外側で、別のものがすでに燃え始めている。見つけた数。伝わった数。確定していない数。死体そのものより先に、数字が形を持ち、見出しになり、誰かの怒りや断定を連れて歩き出す。
現場はまだ、始まったばかりだった。




