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二階堂壮也、炎上を飼う。Again  作者: 綾見 恋太郎


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番外編 第四話 落とし物ひとつで揉める夕方

 庁舎の夕方には、昼とは違う疲れ方が沈殿している。

 人の数はまだ多い。電話も鳴る。書類の行き来も止まらない。だが、昼のような勢いではなく、積み上がったものをどうにか今日のうちに片づけようとする、鈍い焦りだけが残る時間帯だった。

 真壁彰は、その鈍い焦りの中を歩いていた。

 会議が一つ延び、現場確認が一件増え、戻ってきたら机の上にメモが三枚増えていた。しかもそのうち一枚は二階堂の字で、簡潔なくせに妙に嫌なことしか書いていない。読む前から面倒だと分かる種類の字だった。

 廊下の角を曲がったところで、足元に黒いものが見えた。

 革のカードケースだった。薄く、上質そうで、雑に踏まれた形跡もない。落ちたばかりらしい。

 真壁は立ち止まり、しゃがんで拾った。

 表面に傷はなく、縁もきれいだ。安物ではない。仕事で使う人間の持ち物だろう。

 開こうとして、真壁は指を止めた。

「……いや、勝手に見るのは違うか」

 独り言のように呟く。

 落とし主を探すのが先だ。中身を確認するのは、そのあとでも遅くはない。

「何が違うんだ」

 

 背後から声がした。

 振り返ると、二階堂壮也が資料の束を片手に立っていた。相変わらず隙のない格好をしている。ネクタイも崩れていないし、手にした紙の角まで揃っている。そういうところがいちいち腹立たしい。

「落とし物だ」

 真壁がカードケースを見せる。

「誰のか分からん」

「だったら管理へ回せばいい」

「今拾ったばっかだ」

「じゃあなおさらだろ」

 二階堂は近づいてきて、真壁の手元を一目見た。

「中身は」

「見てない」

「見てない?」

「落とし主の名前が表に書いてあるわけでもないしな」

「いや、むしろ一番最初に確認するべきだろ」

「勝手に見るのはどうなんだ」

「落とし主を探すための確認だ」

「お前、そういうとこだぞ」

「何がだ」

 その応酬の途中で、さらに横から低い声が入った。

「中を見れば早い」

 九条雅紀だった。

 いつの間にいたのか分からない歩き方で、廊下の壁際に立っていた。白衣ではなく、今日は濃い色のシャツの上に薄手の上着を羽織っている。きれいすぎる顔立ちはこういう場所では逆に浮くのに、本人はそのことを少しも気にしていない。

「お前もか」

 真壁が言う。

「合理的だろ」

 九条は平然としている。

「名前が分かれば返せる」

「だからって、いきなり中見るのはな」

「じゃあ落とし主が困る時間を延ばすのか」

「そういう話じゃねえよ」

 二階堂が小さく息をついた。

「真壁は手順の最初に感情を置くから遅い」

「お前は手順の最初に他人のプライバシーを飛ばすから怖い」

「飛ばしてない。目的に必要な範囲で確認するだけだ」

「言い方がもう怖いんだよ」

 九条は壁に軽く寄りかかりながら、真壁の手の中のカードケースを見ていた。

「誰のものか分からない状態で管理へ回すほうが遠回りだと思うけど」

「だからってお前ら、すぐ開ける方向へ行くな」

「開けないなら、どうする」

 二階堂が訊く。

「庁内放送でも流すか?」

「大げさだろ」

「じゃあ管理」

「いや、本人が近くにいるかもしれん」

「その本人が今困ってる」

「分かってる」

 議論は、たった一つのカードケースで始まったとは思えないほど細かくなっていた。

 廊下の向こうを通る若手職員が、ちらちらこちらを見る。たぶん何か重要な話をしているように見えるのだろう。実際には、落とし物ひとつで揉めているだけだ。

 真壁は面倒になって、結局カードケースを裏返し、外側に何か記名がないかだけ確認した。何もない。

「ほら、ない」

「中身だな」

 九条が言う。

「だから、お前はそういうとこだ」

「間違ってない」

「怖いんだよ」

 二階堂が手を出した。

「貸して」

「お前に渡すと迷いなく開けるだろ」

「開ける」

「正直だな」

 その時だった。

 廊下の向こうから、若い女性の声が飛んだ。

「あっ、すみません! それ、私のです!」

 三人そろってそちらを向く。

 二年目らしき事務職員が、顔を青くして駆け寄ってきた。手には書類の束。途中でどこかへ落としたのだろう。

「申し訳ありません、気づかなくて……!」

「見つかってよかったな」

 真壁がカードケースを差し出す。

「はい、ありがとうございます……! 本当に助かりました」

 職員は両手で受け取り、深く頭を下げた。

 二階堂が静かに訊く。

「中身は無事?」

「はい、大丈夫です」

「よかった」

 その一言だけは、妙に柔らかかった。

 職員は三人の顔を見比べて、少しだけおろおろした。

 たぶん、落とし物ひとつでこの三人が揃って立ち止まっていたのが予想外だったのだろう。

「すみません、お手間取らせてしまって」

「別に」

 九条が言う。

「まだ何もしてない」

「それが問題なんだよ」

 真壁が即座に返す。

 職員は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。

「でも、ありがとうございます。では失礼します」

 ぺこりと頭を下げて去っていく。

 三人だけが廊下に残った。

「ほらな」

 真壁が言う。

「中見なくても済んだろ」

「たまたまだ」

 二階堂が冷静に返す。

「たまたま本人が近くにいた」

「結果よければいいだろ」

「その発想が雑なんだよ」

「お前らみたいに細かくて返せなくなるよりましだ」

 九条がぼそりと言った。

「一番遠回りしたのは、三人で止まったことだな」

「それはそう」

 二階堂がうなずく。

「最初から真壁が拾って、すぐ持ち主が来たなら二秒で終わってた」

「じゃあお前らが来なきゃよかったんだろ」

「そうかも」

 九条が言った。

 真壁は舌打ちしそうになって、やめた。

 この二人は本当に、どうでもいいことで理屈を足して話を長くする。

「お前ら、ほんと感じ悪いな」

「今さらだろ」

 今度は二人同時だった。


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