番外編 第三話 九条が運転する日
現場へ向かう車は、だいたい真壁彰が運転している。
誰が決めたわけでもない。最初のうちは自然にそうなり、気づけば完全に固定された。理由は簡単だ。真壁がいちばん運転に向いているからだ。判断が早い。無駄に飛ばさない。狭い道でも迷わない。助手席や後部座席の人間に余計な気を遣わせない。
そして何より、車内で一番うるさい二人を黙らせる圧がある。
だから、その日の朝、庁舎地下の車寄せで真壁がサングラス姿で現れた時、二階堂壮也はまず眉を上げた。
「何その格好」
「ものもらい」
真壁は短く言った。
「右目。腫れてる」
「見せろ」
「見るな」
「いや見るだろ、判断材料だから」
「見なくても腫れてる」
真壁は不機嫌そうにサングラスを少しだけずらした。右のまぶたがたしかに赤く腫れている。
二階堂は小さく息を吐いた。
「これはだめだな」
「だから言ってる」
「運転はなし」
「分かってる」
真壁は車のキーを指先で回した。
「で、問題はここからだ」
問題は明白だった。
今日は三人で現場へ行く予定だ。行き先は都内近郊、片道一時間弱。別に遠くはないが、タクシーで済ませるには機材と資料が多いし、戻りの導線も面倒だ。公用車を使うのが一番早い。
だが真壁は運転できない。
つまり、残るのは二階堂か九条雅紀だった。
二階堂は車を見てから、隣に立っている九条を見る。
九条は最初から嫌そうな顔すらしていなかった。ただ、関わりたくない時の、あの静かな無関心の顔をしていた。
「どっちが運転する」
二階堂が言う。
「お前でいいだろ」
九条は即答した。
「何で」
「向いてそうだから」
「向いてそう、で押しつけるな」
「実際向いてるだろ」
「そういう問題じゃない」
二階堂は真壁の手からキーを取りかけて、やめた。
「いや待て。お前、そんなに嫌がるってことは」
そこで少しだけ目を細める。
「下手なんだろ」
九条は水でも飲むみたいな調子で言った。
「言ってろ」
「図星だな」
「別に」
「へえ」
二階堂が薄く笑う。
「じゃあ運転してみれば」
「煽るな」
真壁が言う。
「朝から面倒くさい」
だが二階堂はやめない。
「ここまで拒否するのは怪しいだろ」
「拒否じゃない」
九条は淡々としている。
「面倒なだけ」
「運転が?」
「お前と同乗が」
「感じ悪いな」
「最初からだ」
「つまり図星」
「お前、さっきからうるさい」
九条の声は低いままだったが、その低さに少しだけ熱が混じった。
真壁はそこで、あ、と心の中で思った。これは火がつく時のやつだ。九条は基本的に面倒を避ける。だが、避けたがっていることを能力の欠如に置き換えられると、妙なところで張り合うことがある。
「いい」
九条が真壁の手からキーを取った。
「乗れ」
二階堂が目を瞬かせる。
「え」
「運転する」
「やっぱり図星だったから?」
「黙れ」
九条はもう運転席側へ回っている。
「事故るなよ」
真壁が言う。
「お前は黙って後ろ座ってろ」
「何で俺が後部座席なんだ」
「道分かるの俺だからだよ」
「ものもらいのくせに偉そうだな」
「うるさい」
結局、真壁が助手席、二階堂が後部座席になった。
*
エンジンがかかる。
九条はシート位置を一度で合わせ、ミラーを調整し、シートベルトを締めた。そこまでは普通だった。
普通だったのだが、その手つきが妙に迷いなく自然だったので、二階堂は少しだけ黙った。
「……慣れてる?」
「普通」
九条は短く答えた。
「普通の人間は、そんな一発で位置決まらないだろ」
「決まる」
「決まらない」
真壁が横から言う。
「お前は黙ってろ」
「何でだよ」
「さっきからうるさいから」
九条はそのまま発進した。
地下車寄せからの合流。左右確認、車体の出し方、速度の乗せ方。全部がやけに滑らかだった。慎重すぎて遅いわけでもない。荒いわけでもない。ただ必要な分だけ動かす感じがある。
真壁は前を見たまま、少しだけ口元を緩める。
二階堂は後ろから黙っていたが、最初の右折を曲がったあたりでついに言った。
「……普通にうまいな」
「そうだろ」
九条が即答する。
「いや、そこで得意げになるんだ」
「お前が下手だと思っていたから」
「思ってた」
「感じ悪いな」
「最初からだ」
真壁がそこで吹いた。
「相変わらずその流れ多いな」
「お前が笑うな」
二階堂は不服そうに言う。
「でも本当に普通にうまい」
「だから言った」
「言ってないだろ」
「言う前に運転しただけ」
「それは言ってないのと同じ」
九条の運転は、意外というより妙に納得のいく上手さだった。
右左折で無駄に膨らまない。車間がきれい。ブレーキが遅くないのに雑でもない。狭い道で対向車が来ても、変に止まりすぎず、かといって強引でもない。身体の動きそのものが少ないから、同乗していて疲れない。
二階堂は後部座席で腕を組んだまま、前のシート越しに九条の横顔を見る。
「何でそんなに普通にできるんだ」
「何が」
「運転」
「何でって」
九条は信号待ちで止まりながら言う。
「できるから」
「腹立つ答えだな」
「お前が聞くから」
「下手だと思ってた」
「さっきも聞いた」
「何で嫌がったんだ」
「面倒だから」
「嘘つけ」
「嘘じゃない」
九条は青に変わった信号を見て発進する。
「運転自体は別に」
「じゃあ何が面倒なんだ」
「横で真壁が道に口出して、後ろでお前が細かいこと言うのが目に見えてた」
数秒の沈黙。
真壁と二階堂が、ほぼ同時に口を開いた。
「言わねえよ」
「言わないけど」
九条が無言で右の眉だけ少し上げる。
真壁が咳払いした。
「……俺は必要なことしか言わない」
「もう言ってる」
九条が返す。
「お前は?」
今度は二階堂へ向く。
「俺は別に」
「今、車線変更の前にちょっと前の車との間隔見てた」
「見てない」
「見てた」
「見てない」
「見てた」
「小学生か」
真壁が言う。
「お前ら朝からそこまで元気なの何なんだ」
車は幹線道路へ出た。
流れに乗る。速度の乗せ方がきれいで、真壁はそこでようやく口に出した。
「こいつ、運動神経だけは昔からいいからな」
後ろで二階堂が顔を上げる。
「だけは?」
「だけはって何だ」
九条が言う。
「事実だろ」
真壁は平然としている。
「小中の頃からそうだった。球技でも何でも、本人やる気ないくせに一番きれいにこなす」
「へえ」
二階堂が少し面白そうに身を乗り出した。
「聞きたい」
「聞くな」
九条が即答する。
「別にいいだろ」
「よくない」
「真壁、続けて」
「お前ら本当に遠慮ないな」
真壁は助手席でシートに深く座り直した。
「小学校の時、体育でリレーやれば普通に速い。ドッジボールやれば最後まで残る。球技大会でも、嫌そうな顔して出てきて普通に勝つ」
「嫌なやつだな」
二階堂が言う。
「今もそうだろ」
九条が返す。
「で、中学の時は?」
「中学の時はもっと面倒だった」
真壁は少し笑った。
「バスケの助っ人で出されて、ルール覚えてないって顔してたのに、数分後には普通に動いてた」
「何それ」
「怖い」
二階堂が本気で言う。
「いや、覚えてないわけじゃない」
「似たようなもんだろ」
「違う」
「あと空手」
真壁がぽつりと言う。
「空手はお前だろ」
九条が返した。
「何でそこ自分に振る」
「だって強い」
「事実だけど今その話要る?」
「要らない」
二階堂が言う。
「でも、真壁も小中からそんな感じだったのか」
「真壁はずっとうるさかった」
九条が即答した。
「はい?」
「授業中も、休み時間も、体育も、全部声がでかい」
「悪口じゃねえか」
「事実」
「お前ら、俺の評価だけ雑じゃないか?」
「安定してる」
二階堂が冷静に言う。
「お前まで乗るな」
しばらくして、車は住宅街の細い道へ入った。
現場近くは一方通行が多く、初見だと少し嫌なつくりをしている。真壁はいつもここで速度を落としすぎず、でも詰まらずに抜けていく。
九条はナビの案内を聞きつつ、一度も迷わずその道を進んだ。対向から軽が来る。手前の駐車車両。曲がり角の死角。どれも自然に処理する。
真壁は窓の外を見ながら、少しだけ感心した声を出した。
「ほんとに普通にうまいな」
「さっきからそう言ってるだろ」
九条が言う。
「いや、想像以上」
「何だそれ」
「もっと嫌そうな運転かと思ってた」
「性格で運転しない」
「それはそう」
二階堂が言う。
「で、やりたがらなかった本当の理由は?」
「だから」
九条は交差点を曲がる。
「お前が煽るから」
「煽らないからまた運転してよ」
「うるさい」
「今日運転する気になったのは、下手だからじゃなくて、張り合ったからか」
「黙れ」
九条の声は低いままだったが、耳だけ少し赤くなっていた。
真壁がそれを見逃さない。
「やっぱりそうじゃねえか」
「面倒」
「面倒なのはお前だ」
「お前が言うな」
「今日は全員言い合ってるな」
二階堂が妙に楽しそうだった。
*
現場近くのコインパーキングへ車を入れる。
バックでの駐車も一発だった。
切り返しなし。角度もきれい。車止めの手前でぴたりと止まる。
沈黙。
二階堂がゆっくり口を開く。
「……何で嫌がったんだよ」
「だから面倒」
「それだけでこのレベルを隠すな」
「隠してない」
「隠してた」
「使わなかっただけ」
九条はエンジンを切り、シートベルトを外した。
「終わり」
それだけ言って降りようとする。
だが二階堂は降りない。
「待て」
「何」
「一つ訂正する」
「珍しいな」
「お前、下手なんじゃなくて」
一拍置く。
「腹立つくらいうまい」
九条は数秒、何も言わなかった。
それからドアノブに手をかけたまま、少しだけ横を向く。
「知ってる」
真壁が腹を抱えて笑った。
「うわ、今の一番むかつく」
「最悪だな」
二階堂も笑いながら言う。
「そこだけ二階堂と意見が合う」
「お前ら、現場前にうるさい」
九条はようやく車を降りた。
外の空気はまだ少し冷たい。
現場の緊張がある。仕事の顔へ切り替わる前の、ほんの短い空白がある。
真壁は車から降りてサングラスを直しながら言った。
「帰りもお前な」
九条が即座に振り向く。
「何で」
「うまいから」
「面倒」
「知ってる」
二階堂が即答する。
「便利だな、その返し」
九条が嫌そうに言う。
「今日は使う」
二階堂は平然としていた。
「だって本当に便利だから」
「お前、たまに真壁に似るな」
「不本意だ」
「そこは一致する」
真壁が言う。
「お前ら失礼すぎるだろ」
そして三人は、そのまま現場へ向かった。
いつもと同じように。
ただ一つ違ったのは、その日からしばらく、真壁が運転できない時の候補として九条の名前が真っ先に上がるようになったことだった。
九条は毎回きちんと嫌そうな顔をしたが、二階堂はそのたびに、
「下手なんだろ」
と最初の一言をわざと繰り返した。
そして九条は毎回、
「言ってろ」
と返して運転席に座るのだった。




