↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

忘却の始まり

朝。


エリシアはいつもより早く目を覚ました。


窓の外から差し込む朝日が、部屋の床を淡く照らしている。


静かな家の中には、薪が燃える小さな音だけが響いていた。


エリシアはベッドから起き上がると、隣の部屋へ目を向けた。


そこではルカが眠っている。


穏やかな寝顔だった。


まるで、今日が特別な日ではないかのように。


けれど、エリシアは知っている。


今日は――七日目。


呪いが発動する日だった。


「……今日なのね」


胸元に手を当てる。


服の下にある花の形をした痣が、いつもより熱く感じられた。


エリシアはゆっくりとキッチンへ向かった。


いつものように朝食を作る。


パンを切る。


スープを温める。


紅茶を淹れる。


いつもと同じ。


何も変わらない朝。


それなのに、指先が少し震えていた。


「……これが最後になるのかしら」


誰にも聞こえない声で呟く。


ルカのために朝食を作るのも。


二人で食卓を囲むのも。


彼の「おはよう」という声を聞くのも。


今日で最後になるかもしれない。


やがて、部屋の奥から足音が聞こえた。


「おはよう、エリシア」


振り返る。


ルカが眠そうな顔をしながら立っていた。


いつもと変わらない笑顔。


「……おはよう、ルカ」


エリシアも笑った。


上手に笑えているつもりだった。


けれど、ルカは少しだけ首を傾げた。


「どうした?」


「何が?」


「なんとなく、元気がないように見える」


「気のせいよ」


「そう?」


「ええ」


エリシアはテーブルに朝食を並べた。


「座って」


「分かった」


ルカが椅子に座る。


二人は向かい合って朝食を食べ始めた。


しばらくして、ルカがカップを手に取った。


そして、ふと止まる。


「……あれ?」


「どうしたの?」


「これ、俺のカップだったっけ?」


エリシアの手が止まった。


それは青い縁取りの入ったカップだった。


ルカがここへ来た初日に、彼のために用意したもの。


「そうよ」


「そっか」


ルカは何気なく紅茶を飲む。


「ごめん。なんか、前にも聞いた気がする」


「……気のせいよ」


エリシアは笑った。


けれど、胸の奥では冷たいものが広がっていた。


――始まった。


まだ小さな変化。


けれど、間違いない。


呪いが、ルカの記憶を少しずつ奪い始めている。


その日、エリシアはいつもより明るく振る舞った。


ルカの傷はもうほとんど治っている。


だから二人は、いつものように森へ出かけた。


「今日はどの薬草を採るんだ?」


「森の奥にある白い花を探すわ」


「この前のやつ?」


「そう」


二人は並んで歩いた。


木々の間から差し込む光。


風に揺れる葉。


鳥の鳴き声。


何も変わらない森。


それなのに、エリシアにはすべてが最後の景色のように感じられた。


「……あった」


エリシアがしゃがみ込み、白い花を見つける。


「これ?」


ルカも隣にしゃがむ。


「そう。根を傷つけないように――」


「分かった」


ルカは慎重に花を摘んだ。


「こう?」


「上手ね」


「前に教えてもらったから」


エリシアの胸が少し痛んだ。


「……そうね」


そのとき、ルカが花を見つめた。


「これ、何て名前だっけ?」


エリシアは顔を上げた。


「……」


「エリシア?」


「……白夜草」


「そうだった」


ルカは笑った。


しかし、その笑顔には少しだけ戸惑いがあった。


「変だな」


「何が?」


「この前、覚えたばかりなのに」


エリシアは答えられなかった。


少し前なら、そんなことはなかった。


ルカは一度覚えたことを、すぐに忘れるような人ではない。


「疲れているだけよ」


エリシアはそう言った。


「そうかな」


「そうよ」


「ならいいけど」


ルカはそれ以上、気にしなかった。


二人は再び歩き始めた。


しばらくすると、小さな川のそばへ出た。


水面には青空が映っている。


ルカは足を止めた。


「ここ、前にも来たよな?」


「ええ」


「君と一緒に」


「……ええ」


「何をしてたっけ?」


エリシアは笑おうとした。


「薬草を採ったり、雨宿りしたりしたわ」


「ああ……」


ルカは額に手を当てた。


「そうだった……ような気がする」


エリシアは黙って彼を見つめた。


思い出せない。


少しずつ。


確実に。


二人で過ごした時間が、彼の中から消えている。


そのとき、ルカが足元に落ちていた白い花を拾った。


「これ、綺麗だな」


エリシアはその花を見た。


それは、数日前にルカが彼女の髪から取ってくれたものと同じ花だった。


「……覚えてる?」


「何を?」


「この花」


「……」


ルカは花を見つめる。


「ごめん。分からない」


エリシアは小さく笑った。


「そう……」


「エリシア?」


「何でもないわ」


笑顔を作る。


けれど、目から涙が落ちた。


「……え?」


ルカが驚く。


「どうして泣いてる?」


エリシアは慌てて顔を背けた。


「これは……」


涙を拭う。


「目にゴミが入っただけ」


「本当に?」


「本当よ」


ルカは心配そうに彼女を見た。


「……変だな」


「何が?」


「君が泣いているのを見ると……胸が痛い」


エリシアの手が止まった。


ルカ自身も不思議そうに胸元を押さえている。


「理由は分からないけど……」


その言葉に、エリシアの胸が締めつけられた。


記憶は失われても。


感情だけは、まだ残っている。


それが嬉しくて。


同時に、悲しかった。


「帰りましょう」


エリシアはそう言った。


「うん」


二人は家へ戻った。


夕方。


ルカは暖炉のそばで古い本を読んでいた。


エリシアはキッチンで夕食を作っている。


その光景は、いつもと変わらない。


けれど、エリシアは分かっていた。


これが最後かもしれない。


夕食の途中、ルカが突然尋ねた。


「エリシア」


「何?」


「俺たち……どれくらい一緒にいる?」


エリシアは箸を止めた。


「七日間よ」


「七日……」


ルカは静かに繰り返した。


「そんなに長くいたのか」


「ええ」


「もっと短い気がする」


エリシアは笑った。


「そうね」


ルカは彼女の顔を見る。


「君のこと、前から知っていた気がするんだ」


「……」


「でも、いつから知ってるのか思い出せない」


エリシアは何も言えなかった。


やがて、ルカは立ち上がった。


そして、部屋の棚に置かれていた一冊の本へ目を向ける。


古い魔法書だった。


表紙には、エリシアが隠していた呪いについて記されている。


ルカは本を手に取った。


ページをめくる。


そして――


ある一文に目を止めた。


『魔女に心から愛を捧げた者は、七日目の終わりに、その魔女に関するすべての記憶を失う』


ルカの顔から血の気が引いた。


「……これ」


エリシアは振り返った。


「読んだのね」


「これ……君の呪い?」


エリシアは静かに頷いた。


「そうよ」


「じゃあ……俺は今……」


「あなたは、少しずつ私を忘れている」


ルカは本を握りしめた。


「どうして言ってくれなかった?」


「言ったら、あなたはどうしたの?」


「……」


「怖くなって逃げたでしょう?」


「逃げない」


「分からないわ」


エリシアは苦しそうに笑った。


「私だって、信じられなかった」


「何が?」


「誰かが私を好きになることが」


エリシアは胸元に手を当てた。


「昔、一人だけいたの」


ルカは黙って聞いている。


「私を好きだと言ってくれた人が」


エリシアの瞳に、遠い記憶が映る。


「毎日会って、一緒に笑って……ずっと友達でいられると思ってた」


声が震える。


「でも、七日目の朝、その人は私を見て言ったの」


エリシアは目を閉じた。


「『あなたは……誰?』って」


暖炉の薪が、ぱちりと音を立てた。


「それから私は、誰かを好きになることも、誰かに好きになってもらうことも諦めたの」


「……エリシア」


「だから、あなたも帰って」


ルカが顔を上げる。


「明日じゃなくて、今からでもいい」


「嫌だ」


「ルカ」


「俺は嫌だ」


エリシアは唇を噛んだ。


「あなたは私を忘れるのよ」


「分かってる」


「私の顔も、名前も、声も……全部」


「それでも」


「それでもじゃない!」


エリシアの声が響いた。


「私はもう、誰かに忘れられるのが嫌なの!」


涙が頬を伝う。


「あなたまで私を知らない人みたいに見るのが怖い……」


ルカは何も言わなかった。


そして、ゆっくりとエリシアの前へ歩いていく。


「エリシア」


「……来ないで」


「君は、俺に忘れられるのが怖いんだよな」


エリシアは答えない。


「なら、俺は忘れないようにする」


「無理よ」


「それでもやる」


ルカは胸元に手を当てた。


「記憶が消えても、何度でも君を探す」


エリシアの瞳から涙がこぼれる。


「そんなの……約束にならないわ」


「じゃあ、約束にする」


ルカは微笑んだ。


「忘れても、また君を好きになる」


エリシアは泣きながら首を横に振った。


「……本当に、馬鹿ね」


「知ってる」


二人はそれ以上、何も言わなかった。


夜が深くなる。


エリシアは暖炉の前に座り、眠っているルカを見つめていた。


彼はまだそこにいる。


けれど、明日になれば――


もう自分を知らないかもしれない。


エリシアはそっとルカの手を握った。


「……ありがとう」


眠っている彼には届かない声。


「七日間、一緒にいてくれて」


その瞬間。


ルカの指が、わずかに動いた。


「……エリシア……」


エリシアは顔を上げた。


眠っているはずのルカが、かすかな声で自分の名前を呼んだ。


「……ルカ?」


返事はない。


けれど、その名前を呼ぶ声だけは確かだった。


エリシアは涙を拭った。


もうすぐ夜が明ける。


七日目が終わろうとしている。


呪いは、ほとんどすべての記憶を奪っていた。


それでも――


心の奥に生まれた想いだけは、まだ消えていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。