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君を好きになった日

ルカがエリシアの家で暮らし始めてから、数日が過ぎた。


最初の頃は、森の奥にある魔女の家という奇妙な環境に落ち着かなかったルカも、今ではすっかり慣れていた。


朝になれば薪を集める。


昼にはエリシアと一緒に薬草を採りに行く。


午後は薬作りを手伝い、夕方になると二人で食事をする。


いつの間にか、それが当たり前の日常になっていた。


そしてエリシア自身も、ある変化に気づいていた。


朝、紅茶を淹れるとき。


以前なら一杯だけだった。


今では、無意識に二つのカップを用意している。


「……」


エリシアは並んだ二つのカップを見つめた。


どうして二つ用意したのか、自分でも分からない。


「おはよう、エリシア」


背後から声が聞こえた。


振り返ると、ルカが眠そうな顔で立っていた。


「おはよう」


「今日も早いな」


「あなたが遅いだけよ」


「そうかな?」


ルカは椅子に座った。


エリシアは何も言わず、彼の前に紅茶を置く。


「ありがとう」


「……別に」


ルカはカップを手に取った。


そのとき、エリシアは気づいた。


ルカの動作が少しだけ遅い。


「まだ痛むの?」


「少しだけ」


「無理しないで」


「大丈夫だよ」


「その台詞、怪我人が一番言ってはいけない言葉よ」


「でも、本当に大丈夫だから」


エリシアは呆れたようにため息をついた。


けれど、その目にはほんの少しだけ心配の色が浮かんでいた。


それからしばらくして、ルカはあることに気づいた。


暖炉の前で、エリシアが眠っている。


昨夜、遅くまで薬を作っていたのだろう。


銀色の髪が頬にかかり、開いたままの本が彼女の腕のそばに置かれている。


普段の彼女からは想像できないほど無防備な姿だった。


ルカは起こさないように近づいた。


「……疲れてたんだな」


小さく呟き、近くにあった毛布を手に取る。


そして、エリシアの肩へそっと掛けた。


その瞬間。


「……ん……」


エリシアが目を開けた。


紫色の瞳がルカを映す。


「……何してるの?」


「毛布を掛けただけ」


「どうして?」


「風邪を引くだろ」


エリシアは自分の肩に掛けられた毛布を見た。


「……そう」


「何?」


「別に」


エリシアは顔を背けた。


けれど、耳が少し赤くなっている。


ルカはそれに気づいたが、何も言わなかった。


その日の朝。


ルカは自分から朝食を作ると言い出した。


「昨日助けてもらったお礼だ」


「怪我は?」


「もうほとんど治ってる」


「本当に?」


「本当」


そう言って台所へ向かったルカだったが――


しばらくすると、香ばしいような、焦げ臭いような匂いが家中に広がった。


エリシアは眉をひそめる。


「……ルカ?」


「大丈夫!」


「その言葉、信用できないわ」


テーブルの上に料理が並ぶ。


パンは黒く焦げている。


卵は固まりすぎている。


スープはなぜか少しだけ塩辛い。


エリシアは料理を見つめた。


「……これは料理?」


「もちろん」


「私を殺すつもり?」


「そんなつもりはない!」


ルカが慌てて答える。


その様子が可笑しくて――


エリシアは、思わず笑った。


「……ふふっ」


ルカが目を見開く。


「……今、笑った?」


エリシアはすぐに真顔へ戻った。


「笑ってないわ」


「いや、笑った」


「気のせいよ」


「絶対に笑った」


「うるさい」


エリシアは顔を背けた。


けれど、ルカは嬉しそうに笑っていた。


その日の午後。


二人は森へ薬草を採りに出かけた。


エリシアが歩く横で、ルカも少しずつ植物の名前を覚えている。


「これは?」


「カモミール」


「じゃあ、あれは?」


「セージ」


「これは?」


「毒草」


「……先に言ってくれ」


「触る前に聞けばいいでしょう?」


「それもそうだな」


エリシアは小さく笑った。


以前なら、一人で歩いていた森。


今は隣に誰かがいる。


そのことが、不思議だった。


しばらく歩いたところで、ルカが尋ねた。


「エリシア」


「何?」


「ここで、ずっと一人で暮らしていたの?」


エリシアは少しだけ黙った。


「ええ」


「家族は?」


「……もういないわ」


「ごめん」


「謝らなくていい」


エリシアは前を向いた。


それ以上、過去について話すつもりはなかった。


けれど、ルカは無理に聞かなかった。


その優しさが、なぜか嬉しかった。


その直後、空から一滴の雨が落ちてきた。


「雨?」


二滴、三滴。


やがて、森の中に雨音が響き始める。


「急ごう!」


二人は近くの岩陰へ駆け込んだ。


雨は次第に強くなっていく。


エリシアの銀色の髪は少し濡れていた。


ルカは自分の外套を脱ぐと、彼女の肩に掛けた。


「濡れてるだろ」


「あなたも濡れてるじゃない」


「俺は平気」


「馬鹿ね」


「よく言われる」


エリシアは外套を返そうとした。


しかし、ルカは首を横に振った。


「そのままでいい」


エリシアは少し迷ったあと、外套を握りしめた。


「……ありがとう」


雨音を聞きながら、二人は岩陰に並んで座った。


しばらく沈黙が続く。


やがてルカが口を開いた。


「俺には、夢があるんだ」


「夢?」


「うん」


ルカは雨の向こう側を見つめた。


「いつか、帰りたいと思える場所を見つけたい」


エリシアは彼を見る。


「帰る場所なら、あなたの故郷があるでしょう?」


「そうなんだけど……」


ルカは少し笑った。


「家があることと、帰りたいと思える場所があることは、同じじゃないと思う」


その言葉が、エリシアの胸に残った。


彼女には家がある。


暖炉もある。


本もある。


薬草もある。


それでも――


「帰ってきた」と思える場所ではなかった。


なぜなら、帰りを待っている人がいないから。


「……変な夢ね」


「そうかな?」


「もっと立派な夢を持つものだと思ってた」


「俺にとっては大切な夢だよ」


エリシアは答えなかった。


けれど、心の奥が少しだけ温かくなった。


雨が止み、二人は家へ戻った。


その夜。


エリシアは暖炉の前に座りながら、ルカの寝息を聞いていた。


「……どうして」


小さく呟く。


どうして、こんなに気になるのだろう。


彼が笑えば嬉しい。


怪我をすれば心配になる。


帰りが遅ければ、不安になる。


そして――


彼がいなくなることを考えると、胸が苦しくなる。


「……だめ」


エリシアは胸元を押さえた。


この感情を認めてはいけない。


自分には、普通の恋愛など許されていない。


誰かを愛せば、その人は七日後に自分を忘れる。


それを知っているからこそ、エリシアは今まで誰も近づけなかった。


それなのに。


ルカと過ごす時間が増えるほど、離れたくないという気持ちが強くなっていく。


翌朝。


エリシアは決心した。


ルカに帰ってもらおう。


彼の傷は、もうほとんど治っている。


ここにいる理由はなくなった。


朝食を終えたあと、エリシアは意を決して口を開いた。


「ルカ」


「ん?」


「もう、あなたは帰っていいわ」


ルカの表情が止まった。


「……どうして?」


「怪我が治ったから」


「それだけ?」


エリシアは答えなかった。


ルカはしばらく彼女を見つめた。


そして、静かに尋ねる。


「俺が……君に近づきすぎたから?」


エリシアの指が震えた。


「……」


「エリシア」


「違う」


「じゃあ、どうして?」


エリシアは俯いた。


もう隠せなかった。


「……あなたが私を好きになったら、困るの」


ルカが息を呑む。


「どういう意味?」


「私には呪いがある」


エリシアは胸元に手を当てた。


そして、これまで誰にも話したくなかった秘密を口にした。


「私を心から愛した人は、七日後に私のことを忘れる」


ルカは何も言わなかった。


エリシアは続ける。


「名前も」


「……」


「顔も」


「……」


「一緒に過ごした時間も」


エリシアの声が震える。


「全部、忘れてしまうの」


しばらく沈黙が続いた。


そしてエリシアは、過去を思い出した。


まだ幼かった頃。


初めて自分に「好きだ」と言ってくれた人。


何度も一緒に遊んだ。


何度も笑い合った。


いつまでも一緒にいられると思っていた。


けれど、七日目の朝。


その人はエリシアを見て言った。


「……ごめんなさい。あなたは……誰?」


その言葉だけは、何年経っても忘れられなかった。


だからエリシアは、一人で生きることを選んだ。


「もう、あんな思いはしたくない」


涙が一滴、頬を伝った。


「だから……あなたも帰って」


ルカは立ち上がった。


そして、エリシアの前まで歩いてくる。


「……エリシア」


「来ないで」


「でも――」


「来ないで!」


エリシアは顔を伏せた。


「私は、あなたに忘れられるのが怖いの」


初めてだった。


誰かに自分の本当の気持ちを伝えたのは。


ルカはしばらく黙っていた。


そして、優しく言った。


「……もう、遅いかもしれない」


エリシアが顔を上げる。


「え?」


ルカは少し困ったように笑った。


「俺、たぶん……もう君のことが好きだ」


エリシアの瞳が大きく開く。


「……嘘」


「嘘じゃない」


「だめ……」


「分かってる」


「七日後には、あなたは私を忘れるのよ」


「うん」


「私のことを知らない人になるのよ」


「うん」


「それでも……?」


ルカは静かに頷いた。


「それでも」


そして、エリシアへ手を差し出す。


「それなら、忘れる前にもう一度君を好きになるよ」


エリシアの目から、涙がこぼれた。


そんなことを言われるなんて思っていなかった。


呪いを知っても、離れようとしない人がいるなんて。


「……馬鹿」


震える声で呟く。


「本当に……馬鹿ね」


ルカは笑った。


「よく言われる」


エリシアは涙を拭った。


そして、しばらく迷ったあと――


差し出された手を、そっと握った。


温かかった。


誰かの手を握ることが、こんなにも温かいものだとは知らなかった。


その夜。


二人は暖炉の前に並んで座っていた。


言葉は少なかった。


ただ、二人の手だけが離れることはなかった。


エリシアは知っている。


残された時間は、長くない。


ルカも知っている。


七日目が来れば、自分は彼女を忘れてしまうかもしれない。


それでも――


今だけは、そのことを考えなかった。


二人はただ、お互いの温もりを感じていた。


そして夜が更けていく。


――六日目が終わった。


残された時間は、あと一日。


エリシアは初めて、愛されることを恐れなかった。


ただ一つだけ。


この幸せが終わってしまうことが、怖かった。

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