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忘れても、また君を

朝の光が、森の奥にある小さな家へ差し込んでいた。


エリシアは暖炉のそばに座ったまま、ほとんど眠っていなかった。


昨夜、ルカが眠りながら自分の名前を呼んだ。


それだけが、彼女の心に残っている。


けれど――


「……朝になったわね」


窓から差し込む光を見つめる。


七日目が終わった。


もう、呪いの力は完全に発動しているはずだった。


エリシアはゆっくりと立ち上がり、眠っているルカのそばへ歩いていく。


「ルカ……」


名前を呼ぶ。


返事はない。


しばらくして、ルカがゆっくりと目を開けた。


「……ん」


青い瞳が、エリシアを見る。


エリシアは息を止めた。


「おはよう……」


ルカは何も言わない。


ただ、エリシアを見つめている。


その視線に、以前の温かさはなかった。


やがてルカが口を開いた。


「……君は、誰?」


エリシアの胸が、音を立てて壊れたような気がした。


分かっていた。


いつかこうなると知っていた。


それでも――


実際にその言葉を聞くと、耐えられなかった。


「……私は」


声が震える。


「エリシア・ヴァレンティア」


「エリシア……」


ルカはその名前を繰り返した。


けれど、そこに記憶はない。


「俺たちは……知り合いなのか?」


「ええ」


エリシアは笑った。


無理やり笑顔を作る。


「あなたが森で怪我をしていたから、私が助けたの」


「そうだったのか」


ルカは周囲を見回した。


見慣れないはずなのに、どこか懐かしそうな顔をする。


「ここは?」


「私の家よ」


「そうか……」


ルカはベッドからゆっくりと起き上がった。


傷は完全に治っている。


もう、ここに留まる理由はない。


エリシアはそれを確認すると、彼の荷物をまとめ始めた。


剣。


外套。


旅に必要な道具。


一つずつ、丁寧に鞄へ入れていく。


「これを持っていって」


「ありがとう」


「あなたのものだから」


ルカは鞄を受け取った。


「……俺、本当にここにいたのか?」


「七日間ね」


「七日……」


ルカは少しだけ考え込んだ。


「不思議だな」


「何が?」


「もっと長くいたような気がする」


エリシアは答えなかった。


長かった。


たった七日間なのに。


彼女にとっては、何年もの孤独が消えてしまうほど長かった。


「じゃあ……行くよ」


ルカが扉へ向かう。


エリシアはその背中を見つめる。


「……さようなら」


ルカが振り返る。


「エリシア」


その名前を呼ばれた瞬間、エリシアの瞳が揺れた。


「……何?」


「ありがとう」


それだけ言って、ルカは外へ出た。


扉が閉じる。


エリシアはその場に立ち尽くした。


静かだった。


あまりにも静かだった。


昨日まで聞こえていた彼の声もない。


笑い声もない。


二人分の食器も必要ない。


「……終わった」


エリシアは小さく呟いた。


そして、一人になった。


いつもの生活に戻っただけ。


十八年間、ずっとそうだった。


なのに――


今は、以前よりもずっと寂しかった。


エリシアは椅子に座り、顔を伏せた。


「……馬鹿ね」


涙が落ちる。


「最初から、こうなるって分かっていたのに」


そのとき。


家の外から足音が聞こえた。


「……?」


エリシアは顔を上げる。


扉が開いた。


そこに立っていたのは――


ルカだった。


「どうしたの?」


エリシアは驚いて尋ねた。


「……分からない」


ルカ自身も困ったような顔をしている。


「歩いていたら、急に戻らなきゃいけない気がした」


「でも、あなたはもう……」


「うん」


ルカは自分の胸に手を当てた。


「君のことを、何も覚えていない」


エリシアの表情が曇る。


「なら、どうして戻ってきたの?」


「それが分からない」


ルカは苦笑した。


「ただ……」


彼はエリシアを見る。


「君が泣いているところを想像すると、胸が痛くなる」


エリシアは言葉を失った。


「記憶がないのに……」


ルカは自分の胸元を握る。


「ここだけは、君を知っているような気がする」


エリシアの目から、再び涙がこぼれた。


「……そんなの、ずるいわ」


「ごめん」


「謝らないで」


エリシアは涙を拭った。


「あなたは何も悪くない」


「でも、君を泣かせてる」


「それも……あなたのせいじゃないわ」


二人の間に沈黙が落ちた。


ルカは家の中を見回す。


暖炉。


本棚。


薬草。


テーブル。


そして、二人分のカップ。


「ここにいると……変な感じがする」


「何が?」


「初めて来た場所なのに、全部知っているような気がする」


ルカは棚に置かれた一冊の古い魔法書へ近づいた。


そして、それを手に取った。


ページを開く。


しばらく読み進めるうちに、ルカの表情が変わった。


「……これ」


そこには、エリシアの呪いについて書かれていた。


『魔女を心から愛した者は、七日目の終わりに、その魔女に関するすべての記憶を失う』


ルカはその文章を何度も読み返した。


「だから……」


エリシアは静かに頷く。


「あなたは私を忘れたの」


「……」


「それが私の呪い」


ルカは本を閉じた。


「でも、どうして?」


「何が?」


「どうして、こんな呪いがあるんだ?」


エリシアは胸元へ手を当てた。


「私にも分からない」


少しだけ間を置いて、彼女は続ける。


「ただ、昔からそうだった」


「昔?」


「ええ」


エリシアは暖炉を見つめた。


「昔、一人だけ私を愛してくれた人がいたの」


ルカは黙って聞いている。


「私も、その人が好きだった」


「……」


「一緒に笑ったり、森で遊んだり……普通の時間を過ごした」


エリシアの声が少しずつ震えていく。


「その人となら、ずっと一緒にいられると思ってた」


しかし、七日目の朝。


すべてが変わった。


「その人は私を見て……言ったの」


エリシアは目を閉じる。


「『あなたは……誰?』って」


ルカは何も言えなかった。


「それからよ」


エリシアは微笑んだ。


悲しい笑顔だった。


「誰かに愛されることを、怖いと思うようになったのは」


「……エリシア」


「だから、あなたにも帰ってほしかった」


ルカは魔法書を見つめた。


「この呪い……本当に、どうにもならないのか?」


「ないわ」


「本当に?」


「私はずっと調べてきたもの」


エリシアは首を横に振る。


「だから、諦めて」


「……嫌だ」


「ルカ?」


「俺は、まだ君のことを何も覚えていない」


ルカはゆっくりとエリシアを見る。


「でも、君を見ていると……どうしても放っておけない」


「それは記憶のせいじゃないわ」


「じゃあ、何なんだろうな」


ルカは自分の胸に手を当てた。


「分からない。でも……ここに何か残ってる」


エリシアの胸元にある痣が、突然強く輝いた。


「……っ!」


エリシアが苦しそうに胸を押さえる。


「エリシア!」


家の中に強い風が吹き込んだ。


棚の瓶が揺れ、本のページが一斉にめくれていく。


暖炉の炎が大きく燃え上がった。


「これは……」


エリシアは顔を上げた。


「呪いが……」


胸元の花の痣が、黒く染まっていく。


「私たちが離れないから……残った想いまで消そうとしてる」


「なら、どうすればいい?」


「あなたが逃げて!」


「嫌だ」


「ルカ!」


「今度は、俺が君を助ける番だ」


ルカがエリシアの手を取った。


その瞬間、二人の間に強い光が走った。


「……!」


エリシアは驚いた。


温かい。


あの日、初めて手を握ったときと同じ温もり。


けれど、今度は違う。


彼女は自分から、その手を強く握り返した。


「……私」


涙が頬を伝う。


「怖い」


ルカは黙って彼女を見る。


「また一人になるのが怖い」


「うん」


「あなたを失うのが怖い」


「うん」


「もう……誰にも忘れられたくない」


エリシアはルカの胸に顔を埋めた。


そして、初めて自分から彼を抱きしめた。


「だから……お願い」


「何?」


「私を一人にしないで」


ルカは彼女の背中に腕を回した。


「分かった」


その瞬間――


光が二人を包み込んだ。


強烈な光の中で、ルカの頭に次々と映像が浮かぶ。


暖炉の前で本を読むエリシア。


まずい薬を飲んで顔をしかめる自分。


焦げた朝食。


森の中で笑う彼女。


雨宿りをした岩陰。


銀色の髪に触れたときの感触。


そして――


差し出した手を、エリシアが握ってくれた瞬間。


「……あ……」


ルカの瞳から涙がこぼれた。


「思い出した……」


エリシアが顔を上げる。


「ルカ……?」


「全部……」


最初の出会い。


七日間。


彼女の笑顔。


彼女の涙。


そして、自分が言った言葉。


『それなら、忘れる前にもう一度君を好きになるよ』


「エリシア……」


ルカは彼女の名前を呼ぶ。


今度は、確かな声で。


「……帰ってきた」


エリシアは泣きながら笑った。


「……おかえりなさい」


胸元の黒い痣に、ひびが入る。


そして――


花の形をした光の粒となって、静かに消えていった。


家の中を包んでいた風も止まる。


瓶の揺れも止まった。


暖炉の炎も、元の穏やかな大きさへ戻っていく。


静寂が戻った。


ルカはエリシアの手を握ったまま、自分の記憶を確かめるように微笑む。


「今度こそ、忘れない」


「……本当に?」


「うん」


「また忘れたら?」


「そのときは、また君を探す」


エリシアは涙を拭いながら笑った。


「……本当に、馬鹿ね」


「知ってる」


二人は顔を見合わせる。


もう、七日間だけではない。


呪いに怯えながら過ごす必要もない。


誰かを愛することを恐れる必要もない。


そしてエリシアは初めて知った。


記憶を失ってもなお残る想いがあることを。


呪いが奪えるのは、過去だけ。


人が自ら選んだ未来までは、奪えないのだと。

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