第4夜 「朝の前」
今日も少女は夜を歩く。
夜風は冷たく、空には薄い雲が流れていた。
街灯の明かりは弱まり始めている。
東の空が、ほんのわずかに白んでいた。
宵町カクリは住宅街を走る。
靴音が静かな道路に響いた。
何度も夜を駆けたことで、走り慣れてきた道。
昼間なら普通の通学路なのに、夜になるだけで別の世界のように見える。
電柱の影。
閉じたコンビニ。
誰もいない公園。
その全てに、何かが潜んでいる気がする。
カクリは周囲を警戒しながら走っていた。
「……あ、もうすぐ朝」
空を見上げながら呟く。
夜は終わりに近づいていた。
はっちゃんが小さく鳴る。
「戻るのか」
「うん、さすがにね」
カクリは軽く息を吐いた。
この数日でかなり戦えるようになったとはいえ、身体は普通の小学生だ。
眠気も来るし、お腹も空く。
学校だってある。
夜だけで生きていけるわけじゃない。
「今日は結構狩ったな」
「多かったからね」
カクリはそう言いながら、再び走り出した。
家へ向かって。
夜明けが近づくにつれ、街の空気が変わっていく。
あれほど濃かった“気配”が薄れていくのだ。
宵町カクリは周囲を見渡した。
「朝が近いから、気配が少なくなってきてる」
「あぁ」
はっちゃんの声が静かに返る。
「残った気配は強いやつだろう」
カクリは少しだけ表情を引き締めた。
弱いお化けは朝になると幽世へ戻される。
だが、強い存在は違う。
朝になっても常世に残る。
つまり――本当に危険なのは、朝でも消えないやつだ。
「……まだ、いるんだよね」
「いるさ。お前の姉を襲ったやつもな」
カクリは黙った。
その名前も姿も、まだわからない。
だが確実に存在している。
そして今も、この街のどこかにいる。
カクリは少しだけ走る速度を上げた。
やがて住宅街の一角へ辿り着く。
見慣れた家。
自分の家だ。
「ついた、……よいしょっと」
カクリは勢いよく地面を蹴った。
身体がふわりと浮く。
普通なら絶対に届かない高さ。
だがカクリは、そのまま二階の窓枠へ軽々と手をかけた。
はっちゃんが感心したように言う。
「オレが力を貸してるとはいえ、無意識でその高さをジャンプするか」
カクリは窓に手をかけながら答える。
「慣れてきたから」
「しかし、なんで玄関から出入りしないんだ?」
カクリは少しだけ苦笑した。
「さすがに、心配かけたくないから。窓から出たほうが気づかれにくい」
「まぁ、そうか」
家族にはまだ話していない。
いや、話せない。
夜にお化けを狩っているなんて、信じてもらえるわけがない。
姉のことだって、家では“原因不明の昏睡”として扱われている。
カクリは静かに窓を開けた。
きぃ、と小さな音。
そのまま素早く中へ滑り込む。
そこは宵町カクリの部屋だった。
机。
ランドセル。
学校のプリント。
教科書。
夜の怪異退治とは無関係な、小学生の日常。
ぬいぐるみの並んだ棚を見ていると、少しだけ現実感が戻ってくる。
そのとき、はっちゃんが淡く光った。
銀色の刃が縮み、小さな鋏の姿へ戻っていく。
「やっぱり、便利……」
カクリは感心したように呟く。
巨大断ち鋏のままだったら、とても部屋には隠せない。
すると、頭の中へ直接声が響いた。
『だろ?』
カクリは一瞬だけ肩を揺らす。
『そうだ、宿題、とかいうやつはしなくていいのか?』
声は頭の中だけに響いている。
どうやら、一階にいる親へ聞こえないようにしているらしい。
カクリは机へ向かった。
「出る前に少ししてから、帰ってやるから大丈夫。いつもそうだし」
『そうか』
カクリは椅子へ座る。
机の上には、途中まで解いた算数プリント。
夜に怪異を切っていた手で、今度は鉛筆を握る。
そのギャップが少しだけおかしかった。
窓の外では、空が少しずつ白くなっていく。
夜が終わる。
けれど、終わっただけだ。
また来る。
カクリは静かにプリントへ数字を書き込んでいく。
引き算。
漢字。
短い作文。
学校の宿題は、怪異退治よりずっと単純だった。
『……果たせるといいな』
ふいに、はっちゃんが小さく呟く。
カクリは顔を上げた。
「……なにが?」
だが返事はなかった。
小さな鋏は机の上で静かに沈黙している。
まるで、独り言だったかのように。
カクリは少しだけ不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
鉛筆を動かす。
窓の外から、朝の鳥の声が聞こえ始める。
普通の朝。
普通の町。
普通の小学生。
けれど少女は知っている。
夜になれば、この世界の裏側が開くことを。
そして今夜もまた、自分は夜を歩くのだと。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




