第1夜 「呼ばれる夜」
夜は、いつも同じ顔をしている。
宵町カクリは、その日もそう思っていた。
姉の部屋で起きた“あの出来事”を見てから、まだ数時間しか経っていないはずなのに、世界は何もなかったように夜を続けている。
家の中には姉の姿がなかった。
病院へ運ばれたとだけ母から聞かされ、それ以上は何も教えられていない。
ただ一つだけ、カクリの中に残っているものがあった。
あの部屋で見た、説明のつかない“影”。
そして、紙を裂くような音。
ぴり、ぴりり……
耳の奥に残っているその音が、消えない。
「……あれ、絶対ただの病気じゃない」
そう呟いても、答えてくれる人はいない。
カクリは机の上に置かれたスマートフォンを見つめた。
検索しても出てこない言葉。
相談しても信じてもらえない話。
“お化け”なんて言葉を口にしたら、きっと笑われる。
それでも、姉は現実からいなくなった。
カクリは布団を押しのけ、静かに立ち上がった。
「……夜、行くしかない」
理由はわからない。
でも、あの時感じた“何か”が、まだ外にいる気がした。
玄関の扉を開けると、冷たい空気が肌に触れた。
夜の街は、昼と同じ場所とは思えないほど静かだった。
街灯の光は弱く、影のほうがずっと強い。
カクリは一歩踏み出す。
その瞬間だった。
背後で、何かが“動いた気配”がした。
振り向く。
誰もいない。
けれど、電柱の影が、ほんの一瞬だけ“人の形”に見えた。
「……いる」
声に出した瞬間、影はすっと消えた。
だが安心するより早く、別の場所で音がした。
ぴり、ぴりり……
あの音。
姉の部屋で聞いた音と同じ。
カクリは息を飲み、音のする方向を見た。
路地の奥。街灯の届かない場所。
そこに、何かが立っている気がした。
人のようで、人ではない。
形が定まらない“黒い揺らぎ”。
それがゆっくりとこちらを向いた瞬間、空気が重くなった。
「……っ」
逃げなきゃ、と直感が叫んだ。
カクリは踵を返して走り出した。
後ろから、ぴり、ぴりりという音が追いかけてくる。
足音はないのに、確かに“追ってきている”気配があった。
息が切れる。
夜の風が冷たく肺に刺さる。
どこへ行けばいいのかもわからないまま、ただ走る。
そのときだった。
「――こっち」
声がした。
女の声でも、男の声でもない。
どこか乾いていて、金属をこすったような響き。
カクリは足を止めかけたが、振り向く余裕はなかった。
「こっちだ。止まるな」
再び声。
今度ははっきりと“方向”があった。
路地のさらに奥。
街の明かりが届かない場所。
普通なら行かない。
いや、行ってはいけない場所。
それでも背後の気配は確実に迫っている。
選択肢はなかった。
カクリは声のする方へ飛び込んだ。
細い道を抜けると、景色が変わった。
突然、古い石段が現れる。
苔むした階段。壊れかけた鳥居。
「……神社?」
こんな場所、見たことがない。
だが、確かに“そこにあるべきでない場所”だった。
背後の気配が一瞬止まる。
ぴり、ぴりり……
音が、鳥居の前で止まった。
まるで、そこから先に入れないと言うように。
カクリは肩で息をしながら振り返る。
影のような存在が、鳥居の手前で揺れていた。
入ってこない。
いや、“入れない”のか。
その瞬間、また声がした。
「中へ入れ。ここなら届かない」
カクリは唇を噛んだ。
罠かもしれない。
でも、背後のそれよりはまだ“人間に近い気配”があった。
覚悟を決めて、石段を駆け上がる。
神社は荒れていた。
拝殿の扉は半壊し、境内には落ち葉が積もっている。
だが、その中心だけが妙に整っていた。
まるで“そこだけが生きている”ように。
そして――そこに、それはいた。
小さな鋏。
石の上に置かれたそれは、月明かりを受けて光っていた。
「やっと来たか」
また、声。
今度は確かに、その鋏から聞こえた。
カクリは思わず一歩下がる。
「……しゃべった?」
「しゃべるさ。俺は神だからな」
鋏はカチリと動いた。
その瞬間、空気が変わる。
神社の闇が少しだけ薄くなったように感じた。
「お前、あれに追われてるな」
鋏は鳥居の外を指すように刃を向けた。
ぴり、ぴりり……
影が鳥居の前で蠢いている。
「……どうすればいいの?」
カクリの声は震えていた。
鋏は一瞬沈黙し、それから言った。
「斬ればいい」
「……斬る?」
「そうだ。幽世にいる“お化け”はな、形を持ってる。なら、切れる」
鋏がゆっくりと開く。
その瞬間、鋏の影が膨らみ、巨大な刃の姿へと変わっていく。
夜の空気が裂けるような感覚。
「貸してやる。使え」
カクリの手に、重い感触が落ちてきた。
それはただの鋏ではなかった。
“巨大断ち鋏”。
外では、影が鳥居を越えようとしている。
ぴり、ぴりり……
今度ははっきりと“怒り”のような音。
カクリは鋏を握りしめた。
震える手のまま、しかし目だけは逸らさなかった。
「……姉を、返して」
その言葉と同時に、夜が一瞬だけ静かになった。
そして、影が一歩踏み込んだ。
戦いが始まる。
夜の底で、少女は初めて“切る”ことを選ぶ。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




