4. 残光と残響
少女——ヨハンナは、警察の取り調べを受けたのち、何事もなく家に帰された。
お姉ちゃんの死は突然の心臓発作として処理されて、遺体は誰にも知られることなく墓に埋葬された。
あんなにも世界を魅了し、次の偶像として有望視されていたお姉ちゃんを、もう誰も気にかけることなど無かった。
本物の救世主を前にしたら、偽物の偶像など、何の意味も持たない。
しかしヨハンナにとって、救世主が見出すイドラなんて、今はただの空想のようにしか思えなくなっていた。
だって、イドラはお姉ちゃんを見捨てたから。
「………」
ヨハンナは家に帰されてから、一度も飲み食いをせずに玄関の前で座り込んでいた。
事件があった日の三日後に、事件当日に駆けつけた警官が心配になってヨハンナの家に向かうと、家の扉はまたしてもすんなり開けることができた。そして、警官は玄関で意識が朦朧としているヨハンナの姿を見つけて、すぐに救急車を呼ぼうとする。しかし、ヨハンナは警官の服を掴んでこう言った。
「……やめてください」
「なぜだい? 君は衰弱している。すぐにでも病院に向かうべきだ」
「……もう死にたいんです。お姉ちゃんのところに行きたいんです……」
「……」
警官は少しの間逡巡したのち、番号を変更して友人の医者に電話をかける。
「———ああ、そうだ。手間をかけさせてすまない。……今、知り合いの医者をここに呼んだ」
そう言うと、警官はヨハンナの前にしゃがみ込んだ。
「その体位はつらくないか? あともう少しの辛抱だ」
「……だから、私は……」
「市民の命を守るのが私の仕事だ。それに、君はどうにも、死にたがっているようには見えなかった。……どうして、"餓死"を選んだんだい? それじゃあまるでイコ——」
「その名前を口にしないで!」
「……」
警官はヨハンナにまだ怒鳴るだけの体力が残されていることに安堵した。
「……君たちのことは、少し調べさせてもらった。越権しているのかもしれないが、どうしても気になって。……亡くなったお姉さんのことは、よくテレビで見かけていた。彼女にはいつも元気をもらっていたよ。それに、とても信心深い子だとも思っていた。……君も、そうなんだろう?」
「……違う。私は……もう……イドラなんて……」
「……確かに、君はもうイドラを信じていないのかもしれない。だけど、偶像のことは信じているんじゃないか?」
「……偶像……」
ヨハンナの脳裏に、お姉ちゃんの姿が現れる。
ステージに立つ、偶像の姿。
歌い、踊り、笑顔と目線を届けてくれる。
しかし、強烈な"光"によって彼女の姿はかき消される。
何も見えない。何も聞こえない。
そこにあるのは、万人に対する"救済"だけ。
「……光なんていらない……救済なんていらない……かえして……お姉ちゃんを……かえしてよ……!!」
ヨハンナは警官に縋りつくようにして彼の顔を見上げる。だが警官はヨハンナの眼が自分ではなく別の何かを見ているような気がした。
「……! 君、そんなに激しく動いたら——」
警官は我に返り、ヨハンナの身体を支えようとする。
ヨハンナは脱力して、そのまま意識を失ってしまった。
○○○
「……」
真っ白な空間。
輪郭のない世界。
頭の液体が無重力に晒されているかのような、ふわふわとした感覚。
ヨハンナはこの場所をよく知っていた。
夜、祈りの言葉と共に眠りにつくと、大抵この場所で目を覚ます。
明晰夢のようなものなのだろうが、ソレとは違って思い通りに夢の世界を動かすことはできない。
しかし、ヨハンナはここでの出来事を毎回しっかりと記憶している。
ここでは少し時間が経つと、ヨハンナの目の前にイコンの肖像画が現れる。
孤児院で毎日のように見かけていたものだが、この場所の肖像画は無機質な声を発して、いつもイドラ教の聖典を語りかけてくる。
しかし、今回の肖像画はイコンでは無かった。
「……お姉ちゃん?」
額縁の中には白い衣装で着飾ったお姉ちゃんが、二体の《天使》と戯れている様子が描かれている。
右側の《天使》は甲冑を身に纏い、右手に錆びた大剣を握っている。
左側の《天使》は白衣を身に纏い、左手に光り輝く大鎌を握っている。
ヨハンナはこんな絵を現実で見たことが無かった。だがその不気味さよりも、ヨハンナは目の前のお姉ちゃんが自分を呼んでいるような、そんな"希望"を感じ取った。
お姉ちゃんに近づこうと、身体に精一杯の力を込める。
いつもの明晰夢であればその場から一歩も動くことができないが、今のヨハンナは脚をゆっくりと前に進めることができた。
「あと……もう少し……!」
ほんの少し手を伸ばせば届きそうな距離。
しかし、ヨハンナの指先がお姉ちゃんの身体に触れることは無かった。
「……!?」
突如として、ヨハンナの視界は強烈な"光"によって遮られる。
あまりの眩しさにヨハンナは思わず目を両手で覆って膝から崩れ落ちる。
「うぅ……あぁ……」
身体が温かさに包まれる。
"救済"が安らぎを与えようと"光"の中に誘ってくる。
「……邪魔だ……どけ……お姉ちゃんが見えない……」
ヨハンナは必死に両手をどかそうとするが、どうしても自分自身の"魂"がそれを拒んでしまう。さらに"肉体"もまた徐々に感覚を失い、"光"の中に溶け込んでいこうとしている。
——ドクン!!
だが、その時、ヨハンナは唐突に自らの"心臓"が拍動するのを感じた。
押し潰されたかのような痛みと共に、ありとあらゆる少女たちの絶叫が聞こえてくる。
ヨハンナは思わず両目を覆っていた手を離して、今度は耳を塞いだ。
彼女の両目に飛び込んできた景色は、想像を絶するものだった。
ただの絵画だったはずの《天使》たちが、まるでトリックアートのごとく飛び出して、ヨハンナの胸に錆びついた大剣と光り輝く大鎌を突き刺している。
二体の《天使》はヨハンナの頭を真っ二つにするように大剣と大鎌を振り上げて、そのまま輪郭のない世界に真っ黒な"裂け目"を創り出す。
裂け目はヨハンナの頭上から"宙"へと伸びていき、だんだんと広がりながら世界を覆っていく。
宙はあっという間に黒へと変貌し、やがて奥行きすらも消え去って、世界は再び輪郭を失う。
ヨハンナの瞳には《天使》たちがもつ"光輪"と、その間に浮かぶぼんやりとした"光"が映っている。
今にも消えそうな真ん中の光を、両端の光輪は照らし、淡い輪郭を形作る。
《天使》たちの姿は見えない。
お姉ちゃんの姿も見えない。
それでも、ヨハンナの目の前には、三つの"円環"がある。
あの日、少女の偶像が死んだ日。
目を瞑り、暗闇の中で必死に見つめ続けた、お姉ちゃんの"残光"。
ヨハンナは思わず、右手の拳を左手で包み込む。
すると、円環の輪郭が震えて、音が響く。
嗚咽と軋み、最期の絶叫。
そして、お姉ちゃんの"残響"。
「……わかったよ、お姉ちゃん。私は生きる。死ぬまでがんばる。……だから——」
——"約束"だよ、お姉ちゃん。
○○○
ヨハンナはリビングにあるソファで仰向けに寝かされて、医者が持ってきた医療パックの点滴を腕に繋いでいる。
ヨハンナの意識はまだ戻らず、外はもうすっかり暗くなっている。
「本当に病院へ連れて行かなくていいんだな?」
医者はそう言いながら、目の前に患者いるにも関わらず何食わぬ顔でタバコを吸う。
煙がゆらゆらと天井に上がって霧散していく。
「ああ。それが彼女の要望だからな」
警官はそう返事をしながら、リビングの壁に取り付けられたスイッチを押す。
すると、天井にぶら下がる輪っかの形をした二つの電灯が白く輝きだす。
医者はため息を吐きながら、理解し難いといった表情でソファに横たわる少女を見下ろす。
「どうしてこんな栄養失調になるまで何も食べていなかったんだ? まるでひと昔前の過激なイコン崇拝者だぞ」
「……ある意味では、そう言えるかもしれない。ただし、彼女が崇拝しているのは———」
「ん……」
警官の言葉を遮るようにして、ヨハンナが目を覚ます。
まだ顔色は悪いが、上半身をすぐに起き上がらせることができるくらいには回復しているようだ。
「あなたは……」
「俺か? 俺はしがない町医者だ。それより、気分はどうだ?」
「……最悪です」
「そうか。まぁ、丸一日点滴を打っておけば明日にはよくなる」
「……いえ、きっと、この先も最悪な気分は続きます。生きている限り、ずっと」
ヨハンナはそう言って、自らの瞳を濁らせる。
「だから、死ぬのか」
警官の問いかけに対して、ヨハンナは微笑を浮かべながら答える。
「死なせてくれないんでしょう? あなたたちが。……それで構いません。あなたたちはきっと、私に"罪"を償わせるために遣わされた、《天使》なんです」
「……《天使》?」
警官がそう言うと、彼らの頭上にある二つの電灯がチカチカと点滅する。
「……眠っている間に、夢を見たんです。いつもは夢を見ると、孤児院に飾ってあったイコンの肖像画が、私に聖典の内容を語りかけてくるんですが、今回は、イコンじゃなくて、お姉ちゃんだったんです。お姉ちゃんはこう言いました。『罪は肉体となり、天使を縛り付ける。天使は魂となり、罪を縛り付ける』」
「……それは、イコンの——」
「いいえ。違います。これはお姉ちゃんの言葉です。お姉ちゃんからの福音です。お姉ちゃんは私に使命を与えてくれました。お姉ちゃんの光を、お姉ちゃんの音を、"祝福"に変えるんです。そうすればきっと、お姉ちゃんは"復活"する。私の、私たちの目の前に、もう一度現れる。ふふっ……あぁ……その時きっと、私の、私たちの"罪"は……赦される……」
「……」
ヨハンナの様子は明らかにおかしい。
意識を失う前の憔悴しきった表情はそこに無く、まるで天啓を得た女中のように目を見開き、瞳に漆黒の"円環"を宿している。
「おいおい、やっぱり頭がイカれちまってるな。今すぐにでも病院にぶち込むべきだ」
そう言って、医者が窓の外に視線を向けると、先ほどまで足を止めることなく街路を行き交っていた街の住民たちが、皆興奮した様子で空を眺めていた。
ヨハンナはゆっくりと立ち上がり、ふらふらと身体を揺らしながら窓際へと移動する。
警官と医者も彼女の両脇に立って窓から空の様子を確認する。
「これは……」
空、否、宙には、"彗星"が堕ちていた。
青白い尾を引きながら、眩い光を放つ"円環"が、まるで天球に亀裂を入れるかのようにゆっくりと東の方角から移動してくる。
街路に立つ人々は宙を見上げながら、右手の拳を左手で包み込み、一心不乱に願い事を呟いている。
「"イフェイオンの星"……確か観測できるのは半年後だったはず……」
医者はそう呟きながら、咥えていたタバコを窓の外に落としてしまう。
約170年周期で大地に急接近する巨大な彗星であり、古くから世界各国の文献に観測記録が残されている。
そして、その主要な文献の一つに、イドラの書があった。
『曇天は二つに分かれて散り散りになり、光輪が彼女の頭上に現れる。』——Id.15.25.Ⅶ
ヨハンナは宙を二つに割る彗星を見上げながら、両脇に立つ二体の《天使》にこう尋ねた。
「お二人の名前を教えてください。きっと、これから長い付き合いになりますから」
警官と医者は、何の躊躇いもなく、同時に答えた。
「ファイ」「フォルマータ」




