5. 旅の始まり
彗星が堕ちたあの夜から、ヨハンナは家に引きこもってひたすらにイドラ教の聖典を読み込んだ。
あの演奏会を間近で見て、ヨハンナは自身があのステージに立ち、彼女を超える姿が想像できなかった。だから———
『もしもあの日、お姉ちゃんがステージの上に現れたら、きっとお姉ちゃんが偶像になっていた。』
ヨハンナはそう"信じる"ことで、ある一つの物語を構築しようとしていた。
——自分自身が司祭になり、お姉ちゃんの、お姉ちゃんによる、お姉ちゃんのための偶像を創り出す。そして、お姉ちゃんは偶像になると同時に、顕現、降臨、詠唱される。すなわち……
——お姉ちゃんは、"神"になる。
「……ふへへ」
ヨハンナは聖典を読みながら、思わず笑みがこぼれる。
聖典によって紡がれるイドラの偉大さ、イコンの偉業、その全てがお姉ちゃんのものになる。
だからこそ、ヨハンナは聖典の記述を、イドラ教の教えを、誰よりも"信じている"。
なぜなら、それはお姉ちゃんに関する記述であり、お姉ちゃんの教えでもあるから。
"信じている"からこそ、理解しようとする。お姉ちゃんが何を成し遂げたのか、お姉ちゃんが何を伝えようとしたのか、そして、お姉ちゃんがどのようにして、顕現、降臨、詠唱されたのか。
——仮初めの偶像なんていらない。
——偽物の神なんてクソ喰らえ。
——真の偶像、本物の神は、お姉ちゃんだけだ。
ヨハンナはそう意気込み、司祭になるための勉強を毎日寝る間も惜しんで行っている。
そして同時に、司祭になるために必要な書類や戸籍の偽造も進めていた。
Oはヨハンナたちを無戸籍のまま養子にしていたため、新しく戸籍を作るのは簡単だった。
司祭は男性にのみ与えられる聖職であるため、新しい戸籍では自らの性を偽り、そして名前すらも変える。
——ファイ・フォルマータ
彼女のもとに現れた二体の《天使》、彼らの名前をそのまま用いることにした。
二体の《天使》はそのことを承諾し、ヨハンナの"罪"を知る数少ない"信者"となった。
「あともう少しで運命共同体になりますよ、私たち」
ヨハンナはそう言って、リビングにある椅子に座りながら、テーブルの上に置かれたパソコンの画面をまじまじと見つめている。画面にはユスティマ神学院の出願ホームにある「合格発表」ページが待機中の状態で映し出されており、発表時刻になると一瞬にして合格者の受験番号が表示される。
そして、彼女の両脇には私服姿の警官と医者が、一方は呆れた表情を、もう一方は不敵な笑みを浮かべながら立っていて、共に画面を覗き込んでいた。
「はぁ、これでも一応、私たちは公的機関に属する人間なのだが……」
「俺の勤め先は私立病院だから、何も問題ないな」
「犯罪の片棒を担っているんだ。バレたら解雇どころじゃないぞ」
「そのときはお前が俺を捕まえてくれるのか?」
「……いいや、私も捕まる側だよ」
「ふふっ、"その時"が来たら、3人で仲良く地獄の刑務所に入りましょう」
「いや、君は未成年だから、刑務所じゃなくて少年院じゃ——」
「あ、番号が表示されたぞ!」
警官の言葉を遮るようにして、医者が前のめりになりながら画面を見つめる。
ヨハンナは画面を下に動かして自身の番号を探す。
「1378……うん、あった」
自分の番号を見つけると、ヨハンナは淡々と合格後の入学手続きを行う画面を開く。
「随分とあっさりしているね。もう少し喜んでもいいのに」
「入学はただの通過点ですから。それよりも、春からは寮での生活になるので、今のうちに荷物をまとめておきたいです。手伝ってくれますか?」
ヨハンナがそう言うと、医者は頭を掻きながら口から大きなため息を吐く。
「俺はお前の召使いじゃないぞ。ただお前がイドラ教をどんな風に変えるのかに興味があるだけだ。……俺の妹を破滅させた、クソったれなイドラ教を、な」
医者はそう言いながら、妹からの贈り物であるライターを取り出して、タバコに火をつけて煙を吹かす。
煙は電灯の周りを漂い、やがて換気扇に吸われていく。
「……私は、ただ君が心配なだけだ。はっきり言おう。君は狂っている。本当なら、関わるべきではない人間なのかもしれない。だけど……なぜだろうな。君から……目を離せないんだ」
警官は視線を隣に座る少女に向ける。
華奢だった身体はより細くなり、ボサボサに伸びた黒い髪を椅子の背もたれに垂れ流している。
とてもじゃないが、偶像を目指していた少女の姿とは思えない。
それでも、今の彼女には何かがある。
人々を"道連れ"にする、危険な何かが。
「ふふっ」
医者と警官の言葉に対してヨハンナは微笑みを返し、おもむろに立ち上がる。
「私たちの"旅"は長く、短いです。どうか、"その時"が来るまで、私の隣にいてください」
「俺たちはアネッロ市国には行かないぞ?」
「わかっています。だからこそ、二人の名前を借りるんです。……さぁ、私の部屋に行きましょう。そろそろ外が暗くなる頃なので、手早く終わらせたいです」
「……まったく、人使いが荒い子だな」
三人はリビングを出て、廊下を渡る。
「荷造りが終わったらどこかに食いに行こうぜ」
「いいけど、いつものレストランはもうやめてくれ。あそこの"マルゲータ"はもう食い飽きた」
「そうですか? 私は何枚でもいけますけど」
「君は結構な大食漢だけど、どうしてそんなに細いんだ?」
「普段はそんなに食べてないからですよ。二人に会うときだけです」
「ふっ、乙女心とは真逆だ」
「私にそんなものを期待していたんですか?」
「いいや、まったく」
「ははっ、お前も案外辛辣だなぁ」
「それくらいがちょうどいいですよ。だって、私たちはもう、"隣人"ですから」
三人はたわいもない会話をしながら、部屋へと向かって歩みを進める。
"旅"はまだ、始まったばかりだ。




