第3話:最果ての未開地シルフィア
帝都を出てから十日。
乗り継いだ最後の辻馬車が、乾いた音を立てて車輪を止めた。
「お客さん……悪いが、俺の馬車が行けるのはここまでだ。この先は、あんたも知っての通り『死の領地』だ。立ち入った人間で、生きて戻った奴はいねえ。引き返すなら今のうちだぜ」
御者の老人は、怯えたように手綱を握り直しながら、荒野の向こうを指差した。
エドガーは穏やかに笑い、約束の運賃に少し色をつけて銀貨を三枚渡した。
「ここまで送ってくれただけで十分ですよ。ありがとう、おじさん」
革のトランクと無骨な工具袋を抱え、エドガーは荒野へと降り立った。
ザッ、と踏みしめた地面から、乾いた赤土の煙が舞い上がる。
目の前に広がっていたのは、地平線の果てまで赤茶けた大地が波打つ、完全な不毛の世界だった。
空は重々しい鉛色の雲に覆われ、太陽の輪郭すらぼんやりと霞んでいる。
吹き抜ける風には湿り気が一切なく、肌をチクチクと刺すような砂混じりの冷気を含んでいた。
かつて街道だった石畳は粉々にひび割れ、朽ち果てた木造の荷馬車や、風化して骨組みだけになった風車の残骸が、荒野の墓標のように点在している。
「ここが、シルフィア領か」
エドガーはしゃがみ込み、素手で赤土をすくい上げた。
指先から微細な魔力パルスを地中へと送り込み、地層の組成をスキャンする。
……完全にゼロだ。
植物の種子が芽吹くために必要な環境魔力が、分子レベルで干からびていた。
土壌は保水力を完全に失って砂漠化し、トゲのある枯れ草すら生えていない。
生活魔導具は起動せず、火炎魔石は不発に終わり、井戸水すら汲み上げられない。
人間が生存することすら拒絶する、死の静寂。
だが、エドガーの目は、技術者としての冷静な光を宿していた。
「……土壌のミネラル分は豊富だな。鉄分とシリカ、それに微量のミスリル粒子が含まれている。龍脈の枯渇による仮死状態に過ぎない。魔力さえ通せば、この土は一瞬で極上の黒土に化けるぞ」
何より、魔力がないということは、凶暴な魔獣の巣窟にならないということだ。
夜中に魔獣の遠吠えで叩き起こされる心配もない。
そして何より、魔導具に頼り切った帝国の貴族や軍隊が、こんな不毛の地にわざわざ踏み込んでくるはずがない。
「隠居先としては、これ以上ない静けさだ」
エドガーはトランクを持ち直し、かつての領主館と思われる小高い丘の上の洋館へ向かって歩き出した。
かつては豪壮な貴族屋敷だったのだろうが、今や外壁の漆喰は剥がれ落ち、窓ガラスの割れた廃墟と化している。
だが――丘の麓、崩れかけた石壁の陰を通りかかった瞬間だった。
カサリ。
「……だ、誰ですッ!? そこに直りなさい!」
鋭い、だが明らかに恐怖と飢えで震えている少女の声が響いた。
振り返ると、崩落した瓦礫の隙間から、一人の少女が錆びた短剣を両手で構え、必死にエドガーを睨みつけていた。
ボロボロに擦り切れた古風なドレス。
幾重にも繕い当てが施されているが、その立ち居振る舞いには、隠しようのない高貴な気品が宿っていた。
透き通るような淡い亜麻色の長い髪と、澄んだアメジストの大きな瞳。
頬は痩せこけ、肌は寒さで痛々しいほど青白くなっていたが、息を呑むほど整った顔立ちの美少女だった。
「旅の者です。怪しい者じゃありませんよ」
エドガーは両手を広げて、敵意がないことを示した。
「う、嘘をおっしゃい! こんな死んだ土地に、旅人が一人で来るはずがありません! あなた、また帝国の差し押さえ役人ですね!? ここにはもう……民が冬を越すための黒パンすら、残っていません……! 私を連れて行けば気が済むのですか!?」
少女は必死に短剣を突き出しているが、膝がガクガクと震えている。
極度の栄養失調と寒さで、立っていることすら奇跡のような状態だった。
それでも、背後にある廃墟の集落を守ろうと、命を懸けて立ちはだかっている。
「役人じゃありませんよ。俺はエドガー。前の職場をクビになって、静かに暮らせる土地を探して旅をしてきた技術者です」
「ぎ、技術者……?」
「ええ。この土地の管理主の方にお会いして、定住の許可をいただこうと思っていたのですが……もしかして、あなたが?」
少女は警戒を解かないまま、震える声で名乗った。
「……私は、セレーナ・シルフィア。この不毛の地の、最後の領主です。ですが、定住だなんて狂気の沙汰です。ここは百年前、龍脈の血流が途絶え、草一本育たぬ呪われた土地……人間が生きていける場所ではありません。先週も、最後の領民たちが涙を流しながら西の都市へ逃げていきました。残っているのは、領主の義務を捨てられない私一人……。命が惜しければ、引き返しなさい」
絶望の底にいながら、見ず知らずの旅人の命を気遣う優しさ。
エドガーは小さく微笑むと、トランクを開け、中から油紙に包まれた包みを取り出した。
中に入っていたのは、道中の町で購入した、焼きたての厚切りベーコンを挟んだライ麦パンと、温かいハーブティーの入った魔法瓶だ。
「まずは、これをどうぞ」
「えっ……? で、でも、そんな貴重な食料を……」
「空腹のままでは、どんな高潔な領主様でも正しい判断はできませんよ。どうぞ、毒は入っていませんから」
ぐうぅぅぅぅぅ……ッ。
セレーナのお腹から、切実極まりない音が鳴り響いた。
少女は顔を真っ赤にして耳まで染め上げたが、漂ってくる香ばしい燻製の匂いに耐えかね、震える手でパンを受け取った。
そして、小さく一口かじった瞬間――その大きなアメジストの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お、おいしい……! あたたかい……こんなに美味しいもの、生まれて初めて食べました……!」
「よかったです。さて、セレーナ様」
エドガーは作業用グローブを嵌め直し、トランクから真鍮のペグとハンマーを取り出した。
「この土地に龍脈がないのなら、俺が引っ張ってきましょう」
「え……? 引っ張るって……何をですの?」
「決まっているでしょう。――魔力ですよ」




