第2話:抜いたプラグは戻らない
帝都ルミナスの白亜の城門をくぐり抜けた瞬間、エドガーは足を止め、空を仰いだ。
「……あぁ、眩しいな」
地下三百メートルの人工魔導照明しか見ていなかった瞳に、本物の太陽の光が痛いほど沁みる。
頬を撫でる風は冷たかったが、オゾンの焦げ臭さも、魔力オイルの煤の匂いも一切混ざっていない、甘く澄んだ大気の匂いがした。
街道の脇には名も知らぬ野花が咲き、小鳥がさえずっている。
ただそれだけの光景に、エドガーの胸の奥から熱い安堵が込み上げてきた。
「本当に……終わったんだな」
ポケットの中には、これまでの激務で使う暇すらなく貯まり続けた給与と退職金の魔導預金証書が入っている。
その額、金貨三千枚――平民が一生遊んで暮らしても使い切れない大金だ。
身の回りの私物は肩に担いだボストンバッグと工具箱だけ。
どこへ行くのも自由。何時に起きるのも自由。誰からの命令も受けない。
「さて、どこで隠居するか」
エドガーは街道沿いの木陰に腰を下ろし、古い大陸地図を広げた。
帝国の手の届く範囲は論外だ。
あの傲慢な連中が、停電の本当の理由に気づいた時――必ず血眼になってエドガーを探し回るに決まっている。
追手が絶対に寄り付かない場所。
静かで、水が美味しくて、のんびりと昼寝ができるような、世捨て人にぴったりの土地。
「……ここか」
エドガーの指先が止まったのは、大陸東端の辺境――『シルフィア領』と記された、小さく色褪せた地名だった。
地理院の古い記録によれば、百年前の大災害で地下の龍脈が完全に干上がり、魔導具が一切動かない「死の荒野」として放棄された領地。
魔導具が動かない土地など、魔導文明に依存した帝国貴族にとっては地獄以外の何物でもない。だが――。
「魔力がないなら、自分で作ればいい。俺の生体リアクターは、環境魔力に依存しない完全独立型だからな」
エドガーはふっと口元を緩めると、地図を折り畳んで立ち上がった。
東へ向かう乗合馬車の停留所へ向けて、その足取りは羽のように軽やかだった。
***
――その頃。
帝都の中心にそびえる宮廷魔導研究所の最上階サロンでは、豪奢極まりない祝宴が催されていた。
「ハッハッハ! 諸君、祝杯をあげようではないか!」
黄金の杯を高く掲げ、上機嫌で声を張り上げていたのはギルバートだった。
テーブルには最高級の仔羊のローストや、南方から空輸された新鮮な果実、年代物の葡萄酒が所狭しと並べられている。
周囲を取り囲む二十数名の貴族魔導士たちも、媚びた笑みを浮かべて杯を鳴らし合わせた。
「ギルバート師団長、誠に見事なご決断でした! あの薄汚い平民の配管工を追い払ったことで、我が研究所の空気も一気に清浄になりましたな!」
「うむ! 浮いた年間三千万エルの予算があれば、我が勇者パーティの聖剣と魔導杖を最高ランクのオリハルコンで新調できる! あのような寄生虫にくれてやる金など、一銅貨たりとも惜しいわ!」
ギルバートは美酒を一気に喉へ流し込み、傲慢な笑みを深めた。
彼にとって、エドガーの存在は目障りな小石に過ぎなかった。
平民の分際で筆頭技師の肩書を持ち、自分たち高貴な貴族魔導士に向かって「定格出力を守れ」「無駄な消費を抑えろ」などと指図してくる生意気な男。
あんな男がいなくなったところで、帝国の威光が揺らぐはずがない――そう信じて疑っていなかった。
だが。
チチッ……パチッ……。
サロンの天井に吊るされた、数百個の魔導水晶が煌めく巨大シャンデリアが、不意に小さく瞬いた。
「ん……? なんだ今の明滅は」
貴族の一人がグラスを止めて見上げた。
「はて、接触不良でしょうか? まあ、古いシャンデリアですからな」
別の魔導士が笑って取り合わなかったが、次の瞬間、部屋の暖房を受け持っていた【温風魔導ヒーター】の吹き出し口から、ぬるい風がプスプスと途切れがちに吐き出され始めた。
室温が、じわりと下がり始める。
「おい、給仕! 部屋が冷えてきたぞ。ヒーターの魔石を取り替えろ」
「は、はい! ただいま……あれ? おかしいですね、今朝満タンの特級魔石を装填したばかりなのですが……」
給仕が慌ててヒーターの魔石ケースを開けると、青く輝いていたはずの魔石が、まるで燃え尽きた炭のように真っ白に濁り、ボロボロと粉を吹いていた。
「完全放電……!? そんな馬鹿な、特級魔石なら一ヶ月は保つはず――」
バチィィィィィンッ!!
突如として、サロンの壁に埋め込まれていた主配電盤から、派手な紫色の火花が散った。
そして――。
プツン。
すべてのシャンデリアが一斉に光を失った。
音楽を奏でていた自動蓄音機が鈍い音を立てて停止し、温風ヒーターが沈黙する。
一瞬にして、サロンは静まり返った漆黒の闇へと呑み込まれた。
「な、なんだ!? 停電か!?」
「誰か灯りをつけろ! ランタンはどうした!」
「おい、窓の外を見ろ……! 帝都が……街がぁぁぁっ!」
闇の中で上がった悲鳴に、ギルバートは苛立ちながらバルコニーのカーテンを乱暴に引き開けた。
そして――息を呑んだ。
眼下に広がる帝都ルミナス。
かつて「夜空の星を地上に降ろした」と讃えられた不夜城の夜景が――中央区から外郭区へ向けて、まるで黒い波が押し寄せるように、次々と光を失っていた。
大通りの街灯が消え、豪奢な貴族屋敷が闇に沈み、遠くの下町から人々の混乱した絶叫が風に乗って響いてくる。
「ば、バカな……!? 王都全域が停電だと!? 予備の蓄電コンデンサは何をしている!」
ギルバートの怒声を引き裂くように、サロンの扉がドカンと蹴破られた。
駆け込んできたのは、顔面を土気色にした当直の上級魔導士だった。
「ひ、報告します! 中央魔力炉からの送電圧がゼロになりました! 帝都全域の送電グリッドが完全沈黙、全蓄電施設が空っぽです!」
「何を戯言を! 龍脈からの汲み上げポンプを全開にしろと言ったはずだ!」
「む、無理です! エドガー殿が抜いていかれた【主電源プラグ】がありません! エドガー殿の生体リアクターによる整流がなければ、荒れ狂う生の龍脈など、一秒も制御できません!」
「なっ…………!?」
ギルバートの手から、黄金の杯が滑り落ちた。
冷たい床にこぼれ落ちた赤ワインが、暗闇の中で血溜まりのように広がっていく。
「あ、あいつは……ただの無能だったはずだ……! 座ってメーターを見ていただけの、寄生虫だったはずだぞ……!?」
「エドガー殿こそが、この国すべての魔導具を動かしていた《主電源》だったのです!!」
暗闇と寒風が吹き荒れる帝都に、絶望の叫びが木霊した。
だが――すでにエドガーの引いたプラグは、どこにも繋がっていなかった。




